学位論文要旨



No 213753
著者(漢字) 黒澤,雅彦
著者(英字)
著者(カナ) クロサワ,マサヒコ
標題(和) 競争馬におけるdoping drugの評価法に関する研究
標題(洋)
報告番号 213753
報告番号 乙13753
学位授与日 1998.03.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第13753号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 菅野,茂
 東京大学 教授 唐木,英明
 東京大学 教授 佐々木,伸雄
 東京大学 助教授 局,博一
 東京大学 助教授 西原,真杉
内容要旨

 ヒトのスポーツでは、競技能力を高めるための行為をdopingとよび、薬物の不正使用を規制しているが、競馬界では競走馬の競走能力を高めるためだけでなく、減ずるための薬物もまた規制の対象となっている。競馬において禁止対象とされる薬物としては、その一般薬理作用からみて、競走能力に影響を及ぼすと判断されたものが指定されている。しかし、これらの薬物のほとんどは、実際に競走馬の競走能力に及ぼす影響が明らかにされているわけではない。運動は一種の身体的ストレスであり、生体は中枢神経系、呼吸循環系、代謝系等の機能を賦活することにより、運動ストレスに対して適応し、その調節機構として、交感神経-副腎髄質系および下垂体-副腎皮質系が重要な役割を果たす。したがって、生理学的にみて、安静状態と運動時では、生体は身体的にも精神的にも異なる環境におかれており、薬物の薬理効果においても異なったかたちで発現すると考えられる。そこで、本研究では、いわゆるdoping drugと言われる薬物が競走馬の競走能力に及ぼす影響を調べるためには、先ず、安静状態におけるそれらの薬理効果を明らかにした上で、運動負荷試験を実施することにより、適切なdoping drugの評価法を確立することを研究目的とした。

 第1章では、序論として、dopingとは何かをその歴史的背景、定義について説明し、ヒトのスポーツと競馬におけるdopingの概念の違いを概述した。さらに、スポーツおよび競馬界においてdoping検査が実施されるようになった経緯から、現在に至るまでのdoping規制の歴史について概要を説明するとともに、競馬における特殊性を明示した。スポーツと競馬ではdoping規制が異なるという実状を踏まえ、競馬のdoping規制において本研究がもたらす意義を示し、本研究の目的を明らかにした。

 第2章では、いわゆるdoping drugといわれるメタンフェタミン、カフェイン、プロマジンといった薬物13種を投与し、安静状態におけるdoping drugの評価法について検討した。安静状態のウマは、特に、中枢に作用する薬物に敏感に反応し、一般挙動が変化することが明らかとなり、その評価法として行動観察による評点法が簡便かつ実用的であった。呼吸数(RR)は気温により、また、心拍数(HR)は外来刺激により影響を受け易いことがわかった。

 ウマ血漿中のカテコールアミン(CA)(アドレナリンおよびノルアドレナリン)濃度の簡便かつ高感度測定法(高速液体クロマトグラフ法)を確立し、その日内変動を調べた結果、夜間に低く、昼間に高い、また、真昼に一時的に減少する特徴的な変動が認められた。それゆえ、doping drugを評価するには、血漿中CA濃度の日内変動を考慮した条件設定の必要性が指摘された。また、ウマ血漿中CA濃度はカフェイン投与により増加し、塩酸プロマジンおよび塩酸プロプラノロール投与では減少したことから、本研究における運動負荷実験の成績と考え合わせると、これらの薬物が安静状態の血漿中CA濃度に及ぼす影響は、競走能力に及ぼす影響と密接に関連することが示唆された。

 一方、利尿剤は、競走能力に影響を及ぼすいわゆるdoping効果よりむしろ、利尿効果により、尿中薬物濃度の希釈、体外への薬物排泄の促進および体重コントロール等の理由で使用が規制されているので、利尿効果の評価が重要であり、その評価法としてはバルーンカテーテル法が有用であることが確かめられた。

 以上のことから、一般挙動および血漿中CA濃度は、安静状態のウマにおけるdoping drugの評価において重要な指標であり、利尿剤では特に、利尿効果の評価が重要となることが示された。

 第3章では、200m全力走を主運動とし、RR、HR、心電図、走速度、一般挙動および騎乗感等を指標とした運動負荷試験法を設定し、屋外走路におけるdoping drugの評価法を検討した。なお、原則として安静時の実験と同一馬を使用し、同様に薬物投与を行った。その結果、中枢興奮薬は200m全力走の走速度を増加し、その影響は呼吸循環系よりはむしろ、中枢神経系に及ぼす影響と関連することが示唆された。また、安静時と比較して運動時では、個体差がみられるものの、概して中枢興奮効果が増強すると同時に、中枢抑制効果は減弱する傾向が認められた。さらに、中枢抑制薬の効果は個体の気質に依存し、競走能力の低下ばかりでなく、向上をもたらす場合もあるという興味ある知見が得られた。また、安静時において観察された塩酸ノスカピンによる鎮静および塩酸プロカインによる中枢興奮は、運動時には観察されず、安静時と運動時とでは薬物の影響が異なることが示唆された。

 以上のことから、本試験法は、200mという距離の妥当性について議論の余地はあるものの、doping drugがウマの競走能力に及ぼす影響を調べる方法として有用であると考えられた。ただし、得られる運動生理学的情報が少ないため、薬物の効果を詳細に分析するためには、運動機能との関連が深く、屋外での測定が容易である血球容積(PCV)や血中乳酸濃度(LA)等の指標をさらに追加する必要があると思われる。

 第4章では、トレッドミル運動負荷試験によりdoping drugの評価を行うための運動負荷法および測定項目の有用性について検討した。運動負荷法として、漸増負荷および2種の規定速度負荷〔最大酸素摂取量(VO2max)の105%および80%に相当する走速度による〕といった運動様式の異なる3種の運動負荷条件を設定し、種々の呼吸循環系の測定項目およびCA、副腎皮質刺激ホルモン(ACTH)およびコルチゾールの血漿中濃度を指標とする運動負荷試験法を用いた。

 先ず、運動に対するこれらホルモンの応答と呼吸循環系の指標との関連性を明らかにし、doping drugの評価におけるホルモンの測定意義を明確にした。次いで、カフェインおよび塩酸プロマジンを投与し、3種の運動負荷試験を行った結果、競走能力に及ぼす影響を調べるには、短時間の強度の高い運動負荷(105%VO2max)が最適であることが示された。また、種々の呼吸循環系の指標および血漿中ホルモン濃度等を測定することにより、カフェインおよび塩酸プロマジンの競走能力に及ぼす影響についてより詳細な分析が可能であったが、酸素摂取量(VO2)、動脈圧、血色素量(Hb)、HR、LA、PCVおよび血漿中ホルモン濃度を指標とすることにより、十分評価できることがわかった。

 以上のことから、短時間の強度の高い運動負荷を主とし、上記の測定項目を主な指標とするトレッドミル運動負荷試験法が、doping drugの評価法として有用であると考えられた。

 第5章では、第4章の成績を参考にして、doping drugを評価するトレッドミル運動試験法の簡便化を検討した結果、HR、LA、PCV、Hb、血漿中CA、ACTHおよびコルチゾール濃度を指標とし、80%および105%HRmax(最大心拍数)に相当する走速度による運動を組み合わせた運動負荷試験法を設定した。本試験法によりカフェインの競走能力に及ぼす影響を調べ、第4章における成績と比較検討した結果、呼吸循環系および血漿中ホルモン濃度に及ぼす影響において同様の成績が得られ、また、競走能力を向上する傾向が認められた。さらに、今後、日本において禁止薬物に指定される可能性の高い-受容体遮断薬の塩酸プロプラノロールの評価を行ったところ、塩酸プロプラノロールは運動能力を著明に低下させたが、これは、運動時におけるHR増加の抑制が主な原因と考えられた。また、塩酸プロプラノロールによる-受容体遮断に対して、代償性にCA分泌が亢進するが、十分にその作用が発揮されないことが示唆された。

 以上のように、カフェインおよび塩酸プロプラノロールの効果を詳細に調べることができたことから、本試験法はdoping drugの評価法として、簡便かつ有用であることが示された。近年、トレッドミルの応用によりウマの運動生理学的研究は飛躍的に発展した。また、トレッドミル運動負荷試験によるデータは、屋外走路における運動負荷試験のデータと高い相関があることが実証されている。このような背景を踏まえ、第3、4および5章の成績から、運動時におけるdoping drugの評価法として、トレッドミル運動負荷試験の簡便法が実用的であると考えられた。

 以上を要するに、doping drugのウマに及ぼす効果は、安静状態と運動時では異なって発現することから、競走馬におけるdoping drugの評価法としては、先ず、安静状態で一般挙動、血漿中CA濃度を指標(利尿剤では特に利尿効果を指標として加える)とした評価を行い、次いで、トレッドミル運動負荷試験法(簡便法)により呼吸循環系の諸項目および血漿中ホルモン濃度を指標として、運動時における評価を行い、これらを総合的に評価する方法が実用的であると考えられた。本研究の成果は、競馬界における科学的データに基づいたdoping規制に大いに貢献するものと思われる。

審査要旨

 ヒトのスポーツ界では競争能力を高めるための行為をdopingとよび、いわゆるdoping drugの不正使用を規制しているが、競馬の世界では競走馬の競走能力を高めるものだけでなく、抑制する薬物もまた規制の対象としており、現在、64種の薬物の使用が禁止されている。しかし、これらの薬物のほとんどは、その薬理作用からみて競走能力に何らかの影響をおよぼすだろうとの判断のもとにリストアップされており、実際に競走能力に影響をおよぼすことが実証されているわけではない。また、一般には薬物の生体に対する作用は安静時と運動時では質的にも異なる場合のあることが予想される。

 そこで、本研究は、doping drugとして現在規制の対象となっている薬物が、本当に競走馬の競走能力に影響をおよぼすのかどうか、安静状態と運動負荷状態で適切に評価する方法について種々の検討を行い、その方法を確立することを研究の目的としている。

 まず、第1章では序論として、doping drugの定義とその歴史的背景、ヒトのスポーツと競馬におけるdopingの概念の相違についてふれ、本研究がもたらす意義を述べている。

 第2章では、doping drugとされているカフェイン、メタンフェタミン、塩酸プロマジンなど13種の薬物を安静状態の競走馬に投与し、安静時におけるdoping drugの評価法について検討している。その結果、安静状態の馬はとくに中枢に作用する薬物に敏感に反応し、一般挙動が変化すること、その場合、評価法としては行動観察による評点法が簡便、かつ実用的であることを示している。さらに、血漿中カテコールアミン(アドレナリン、ノルアドレナリン)濃度の測定や、バルーンカテーテル法による利尿効果の観察も重要な指標となることを提言している。

 第3章では、200m全力走を主運動とし、呼吸数、心拍数、心電図、走速度、一般挙動および騎乗感などを指標とする運動負荷試験を試み、屋外走路におけるdoping drugの評価法について検討している。その結果、中枢興奮薬は走速度を増加させるが、それは呼吸循環系よりむしろ中枢神経系に対する作用に基づくこと、安静時と比べて運動時には概して中枢興奮効果が増強されると同時に中枢抑制効果は減弱される傾向にあること、さらに、中枢抑制薬の効果は個体の気質に依存し、競走能力の低下のみならず向上をもたらす場合もあり、安静時と運動時とでは薬物の影響が異なることを明らかにしている。

 第4章では、トレッドミルを用いた運動負荷試験により、doping drugの評価を行うための運動負荷条件および測定項目について検討している。その結果、運動負荷条件としては短時間の強度の高い運動負荷(最大酸素摂取量の105%に相当する走速度による運動)が最適であること、測定項目として酸素摂取量、動脈圧、心拍数、ヘモグロビン、ヘマトクリット、血漿中乳酸濃度および血漿中カテコールアミン、コルチゾール、ACTH濃度などを指標とすれば、カフェインや塩酸プロマジンのdoping効果を十分評価できることを実証している。

 第5章ではdoping drugを評価するトレッドミル運動負荷試験法の簡便化を試みており、大がかりな設備と手間のかかる最大酸素摂取量や動脈圧の測定を行わなくても、酸素摂取量と相関の高い心拍数を指標として、最大心拍数の80%および105%に相当する走速度による運動を組み合せた運動負荷条件を設定し、測定項目には心拍数、ヘモグロビン、ヘマトクリット、血漿中乳酸濃度および血漿中カテコールアミン、コルチゾール、ACTH濃度を指標とすれば、カフェインおよび塩酸プロプラノロールのdoping効果が適切に評価できることを示している。また、これらの成績は先の屋外走路における結果と高い相関をもつことが示されている。

 以上を要するに、doping drugが競走馬におよぼす効果は安静時と運動時では異なって発現することから、その評価法としては、まず、安静状態で一般挙動や血漿中カテコールアミン濃度を指標とした評価を行い、ついで、トレッドミル運動負荷簡便法により呼吸循環系の諸項目および血漿中ホルモン濃度を指標として運動時における評価を行ったのち、両者の成績を総合的に評価することが望ましいと提言しており、本研究の成果は競馬界におけるdoping規制に科学的根拠を与えるものである。したがって、学術上、応用上貢献するところが少なくないと判断し、審査員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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