学位論文要旨



No 213756
著者(漢字) 石井,信行
著者(英字)
著者(カナ) イシイ,ノブユキ
標題(和) 構造物形態が有する力動性の認知科学的解釈
標題(洋)
報告番号 213756
報告番号 乙13756
学位授与日 1998.03.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13756号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 篠原,修
 東京大学 教授 藤野,陽三
 東京大学 教授 前川,宏一
 東京大学 助教授 天野,光一
 九州大学 助教授 行場,次朗
内容要旨

 建築物や橋梁のような構造物の形態に内在する力や動きのイメージについては,哲学的心理学やゲシュタルト心理学の分野での研究がなされていたが限定的な成果しか上げられておらず,1970年代以降には新たな展開は見られていない。形態から力や動きのイメージが喚起されることを脳に於ける視覚情報の処理として捉えると,力や動きのイメージは1980年代に大きく発展した認知科学の研究対象であると位置付けられると考えた。そこで,人間が構造物に内在すると認知する力や動きを「構造物の力動性」と定義すると共に,構造物の形態的特徴と力動性との関係を表す法則を「視覚的力学」と定義し,認知科学に基づく論理的枠組みを構築して「構造物力動性認知モデル」及び「力と動きのイメージとその要因に関する仮説」として示した。また,これらの論理的枠組みを用いて,橋梁と抽象彫刻を統一的に分析・解釈し,提案した認知モデルと仮説の検証とし,更に心理学的実験による検証も行った。

(1)構造物力動性認知モデル(図-1)

 「構造物力動性認知モデル」は,構造物を認知対象に認知科学の知見である「形態の認知に於ける階層的構造記述」「フレーム理論」等を統合したものであり,モデルが適用される範囲を「客観的な視対象を,分析的な意識で観察した場合の認知」としている。

図-1 構造物力動性認知モデル

 この認知モデルでは,認知に際して対象と既得情報との同定が試みられると仮定し,構造物に関する既得情報として6つに分類されるプロトタイプを提案した。6つのプロトタイプは,形態とその目的・意味,機能といった属性とを関連付けた物プロトタイプ,形態と力学とを関連付けたシステムプロトタイプ,そして形態と属性と力学とを関連付けた物システムプロトタイプという3つと,その情報が正しい場合である正-プロトタイプと誤っている場合である誤-プロトタイプという2つとの組み合わせで定義されている。これらの内,システムプロトタイプ及び物システムプロトタイプは力学の認識であるので,それらには力動性が具備されていると考える。

 そして,視覚情報が入力されてから力動性に関する認知が完了するまでの過程を,初期認知,認知確定,新たなプロトタイプ形成の3段階に区分し,初期認知段階では概略的な情報による形態とプロトタイプとの同定,認知確定段階では初期認知段階での認知の位置付けを特徴選択的な情報により確認・確定するものであると位置付け,更にここまでの認知を経ることにより新たなプロトタイプを形成することも考えられるので新たなプロトタイプ形成段階を第3段階として位置付けた。従って,この認知モデルは参照体系として各人が持っているプロトタイプの形成も説明できるものである。

 初期認知段階での認知の位置付けは,対象と同定される(または同定が試みられる)プロトタイプとの関係で,正しく認知,正しく翻訳認知,間違って翻訳認知,同定不可,同定拒否という5通りとなる。正しく認知では物プロトタイプまたは物システムプロトタイプで,正しく翻訳認知では類似のシステムプロトタイプで,間違って翻訳認知では別のシステムプロトタイプでそれぞれ対象を同定する場合であり,同定不可では対象を同定するプロトタイプを有していないために同定ができない場合であり,同定拒否では同定を試みると形態,物プロトタイプ,システムプロトタイプが相互に矛盾してしまうので結果として同定を諦めてしまう場合である。

 認知確定段階では,それぞれの認知の位置付けに対応して異なったメカニズムにより力動性を認知すると考えた。つまり,上で述べたように,システムプロトタイプまたは物システムプロトタイプで同定する場合には,プロトタイプが有する力動性を喚起し,物プロトタイプのみで同定する場合には力動性を喚起せず,同定不可または同定拒否の場合には形態的特徴に依拠した,プロトタイプでは説明できない力動性を喚起する可能性があるとした。

(2)力と動きのイメージとその要因に関する仮説

 「力と動きのイメージとその要因に関する仮説」は,認知モデルにおけるプロトタイプでは説明できない力動性を狭い意味での「視覚的力学」と定義し,認知科学の知見を援用して形態的特徴と喚起する力動性との関係を論理的に示したものである。

 この仮説は,視対象の形態的特徴から構造物に重力が作用していることが認知され,その結果として構造物内部に生じている何らかの力,及び構造物の全体または一部の動きが認知されるという流れに基づいている。構造物の形態的特徴の違いにより喚起される力動性が異なることから,変位増大の仮説,変形増大の仮説,変形減少の仮説,変位発生の仮説,変形発生の仮説,力動的安定感の仮説,不安定感の仮説という7つの仮説を提示した。これらの仮説の内,変位発生の仮説,変形発生の仮説,力動的安定感の仮説,不安定感の仮説においては,長さ,断面,材料に関する抽象的な力学的バランスという材力性能プロトタイプを仮定し,変位増大の仮説,変形増大の仮説,変形減少の仮説においては,形態の状態が認知された段階で,部材性能が自動的に形態上に付与されたと見なしている。

(3)橋梁及び抽象彫刻の分析・解釈

 「構造物力動性認知モデル」及び「力と動きのイメージとその要因に関する仮説」を用いて,橋梁については13橋,17通り,抽象彫刻については33作品,33通りの力動性を統一的に分析,解釈した。また,橋梁の解釈に於いては力動性に個人差が生じることも認知モデルにより合理的に説明できることを示した。

(4)仮説検証の心理学的実験

 「力と動きのイメージとその要因に関する仮説」を実験的に検証するために,単純図形を用いた一対比較による心理学的実験を行い,有意な結果を得た。

 以上から,本研究の目的である,1)認知科学の知見に基づき,「構造物の力動性」に関する論理的な認知モデルを提示し,2)構造物の形態的特徴と「構造物の力動性」との関係を,「視覚的力学」として記述する仮説を提案することは達成されたと言える。

 また,今後の課題として,1)構造物力動性認知モデルを心理学的実験によりより精緻に検証すること,2)視点移動の影響,スケールの影響を考慮した構造物力動性認知モデルに発展させること,3)力と動きのイメージとその要因に関する仮説の,具体的な構造物の形態に対する妥当性を心理学的実験により検証すること,4)個人が有する構造物のプロトタイプ及び材力プロトタイプを同定する方法論を提案することが導かれた。

審査要旨

 本論文は「構造物形態が有する力動性の認知科学的解釈」と題し、全6章から構成されている。

 「第1章 序」では、研究の背景と目的を述べ、土木・建築構造物の形態が喚起する力学的な感覚を認知科学の研究対象として捉えることが示され、認知科学に基づく論理的枠組みを構築する必要性が述べられている。また、人間が構造物に内在すると認知する力や動きを「構造物の力動性」と定義すると共に、構造物の形態的特徴と力動性との関係を表す法則を「視覚的力学」と定義している。

 「第2章 既存研究のレビュー」では、形態と力学的感覚に関して、認知科学の研究、芸術やデザインの分野での研究、哲学的心理学やゲシュタルト心理学の分野での研究、及びこれらの分野での研究方法論がレビューされ、既存研究の限界が指摘されている。そして本論文に於いて構築しようとする論理的枠組みの基礎となる認知科学の知見が整理されている。

 「第3章 力と動きの認知」では、構造物を認知対象に認知科学の知見である「形態の認知に於ける階層的構造記述」「フレーム理論」等を統合した「構造物力動性認知モデル」と、認知科学の知見を援用して形態的特徴と喚起する力動性との関係を論理的に示した「力と動きのイメージとその要因に関する仮説」が著者独自の論理的枠組みとして提案されている。

 適用される範囲を「客観的な視対象を、分析的な意識で観察した場合の認知」とした認知モデルの構築に於いては、人間の構造物に関する認識についての著者の分析・考察に基づき、形態とその目的・意味・機能などの属性とを関連付けた物プロトタイプ、形態と力学とを関連付けたシステムプロトタイプ、そして形態と属性と力学とを関連付けた物システムプロトタイプという3つと、その情報が正しい場合である正-プロトタイプと誤っている場合である誤-プロトタイプという2つとの組み合わせで定義される6つのプロトタイプの存在を仮定している。構造物に関する認識をこれら6つのプロトタイプで捉えることは既存研究には無かったものであり、このことにより構造物の力動性を認知するメカニズムの論理性を担保している。認知は、対象と同定される(または同定が試みられる)プロトタイプとの関係で、正しく認知、正しく翻訳認知、間違って翻訳認知、同定不可、同定拒否という5通りの何れかに位置付けられ、それぞれに於いて力動性を喚起するメカニズムが異なるとしている。これにより、同一対象に対して喚起される力動性に差異が生じる可能性を示すことができるとしている点で、既存研究とは違った立場をとっている。

 認知モデルに於けるプロトタイプのみでは説明できない部分を補完する「力と動きのイメージとその要因に関する仮説」は、変位増大の仮説、変形増大の仮説、変形減少の仮説、変位発生の仮説、変形発生の仮説、力動的安定感の仮説、不安定感の仮説という7つの仮説からなり、認知科学の知見を援用して形態的特徴と喚起する力動性との関係を論理的に説明している。

 章の結果では、これらの認知モデルと仮説により、既存研究における構造物の力動性の議論が統一的に再解釈可能であることが示されている。

 「第4章 彫刻と橋梁の力動性認知の解釈」では、第3章で提案された認知モデルと仮説の検証として、抽象彫刻については33作品、橋梁については13橋の力動性を統一的に分析、解釈している。また本章の結果から、橋梁デザインに於ける力動性の表現手法が提案されている。

 「第5章 仮説検証の心理学的実験」では、第3章で提案された仮説の検証の一つの手法として、仮説から導き出された単純図形を用いた一対比較による心理学的実験を行い、有意な結果が得られることを示している。

 「第6章 結論」では、本論文における論理構築とその検証結果を整理し、本論文の目的である、1)認知科学の知見に基づき、「構造物の力動性」に関する論理的な認知モデルを提示し、2)構造物の形態的特徴と「構造物の力動性」との関係を、「視覚的力学」として記述する仮説を提案することが達成されたことが述べられている。また本論文の成果を受けて構造物形態の認知に関する研究の展望及び構造物デザインへの展開が述べられている。

 以上の通り、本論文は、認知科学という観点から、構造物形態の認知において力動性を喚起するメカニズムを表すモデルを構築し、従来単に「経験的」に捉えられていた構造物に対するイメージを論理的に分析・解釈する論理を構築しており、この点で注目に値すると言える。この研究成果は、橋梁を始めとする土木構造物や大規模建築物に対して多様な造形性が望まれる現在の社会環境に於いて、今後の構造デザインやエンジニア教育の方法論の発展に大きな意義を持ち、土木や建築の景観デザイン論及び構造工学に貢献するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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