文化学院の創立者として知られる西村伊作は、大正期およびその前後において建築活動や住宅改良に関わる啓蒙活動を行った。そして今日多くの研究者から、我が国近代の住宅改良において忘れることができない人物として紹介されている。 しかし彼の建築の分野の活動について従来知られていることは、自邸や自伝、彼の著書などから得られた事柄がほとんど全てであって、彼の活動の全容は明らかにされているとは到底いえず、その歴史的意義は明確になっていない。 筆者は、彼は我が国の居間式住宅の成立に関わって非常に重要な役割を果たした人物とみている。本論では彼の建築活動や住宅改良に関わる啓蒙活動についてその全容を明かにし、歴史的意義を明確にするとともに、活動の思想的背景を明らかにしようとするものである。 なお、本論では第1章から9章までの他に、資料編として筆者が把握した彼の建築68作品、工作物等2作品についても報告している。 まず建築活動について。彼の初期の建築活動、三棟の自邸の建築については第4章2、3、4節と5章で報告し、第6章では西村建築事務所について述べ、第7章ではいくつかの主な残存作品について報告している。第8章では資料編から得られたデータとその他の史料と併せて建築作品、主に住宅作品の全容に迫っている。 彼が最初に建築したものは当時和歌山県新宮町の日和山山頂付近に1906年頃に建築した小バンガローである。バンガローは我が国における居間式住宅の祖型とされているものであり、従来これを最初に建築したのは1910年あめりか屋であるとされていたが、西村はそれよりも早く建築しており、彼は我が国で最初に居間式住宅を建築した人物として記されるべきである。 彼はこの当時、オレゴン州立大学で医学を学び帰国した医師で、後に大逆事件に連座し刑死した、叔父の大石誠之助から刺激を受け、米国の生活改善や住宅改良に強い興味を持っていたのであった。 彼は1914年には三番目の自邸を竣工させている。この自邸はそれまでの自邸よりより大規模な洋風建築であって、外観には紀伊半島の山間の民家の意匠を導入している。また、平面形はA.J.ダウニングの著書『カントリーハウス建築』にみられるものと類似している。 彼はこれらの自邸建築の経験を基に初めての著書『楽しき住家』を1919年に出版し好評を得、さらに大阪毎日と東京日々新聞に1920年に連載された論文「文化生活と住宅」で大きな反響を呼び、新しい住宅を熱望する全国の人々から住宅設計の依頼や相談を受けることとなった。彼は裕福な山林資産家であって建築を生業とする必要はなかったが、このことが大きな契機となって人々に貢献すべく建築事務所を開設したのであった。彼はこの年、与謝野寛、晶子夫妻や石井柏亭らの協力を得て文化学院も創立し、同時に全く異なった分野の活動を開始したが、何れも人々の生活改善に寄与したいという一つの視点からであった。 西村建築事務所は1921年阪神間の兵庫県御影町に開設され、1924年に隣接する住吉村へ移転、そして1937年に閉鎖された。東京での事務所活動は文化学院の校舎建築終了後から始まったものと考えられ、活動の拠点は文化学院であった。そのほか倉敷や銀座にも出張所を設けていた。御影住吉や東京事務所で設計監督等を行う所員は両事務所とも概ね4〜5人であったという。なお、西村は1930年頃より事務所活動から離れていったものとみられる。 西村事務所は一時期、森本厚吉や有島武郎、吉野作造らが中心となって発足した文化生活研究会と密接な関係にあり、事務所は研究会の建築設計相談部との位置づけがなされていた。 彼は東京や阪神間において多くの作品を残したが、倉敷では大原孫三郎らを中心とした倉敷紡績のいわゆる労働理想主義と呼ばれた施策に、直接あるいは間接に関わる教会、保育所、住宅などを残しているのが注目される。 彼や西村事務所の作品総数は昭和戦前までで百四五十で、約7割が住宅と推測される。平面構成は共通な点が多くみられ、居間の床面積はその住宅内で最も大きく、彼の主張どおり明確な家族本位の住宅、居間式住宅となっている。寝室は個室である。内外とも彫物、刳形、レリーフなどの装飾的要素はほとんどみられず、外観はイングリッシュ・コッテージに倣ったものが多い。 西村の住宅改良啓蒙の歴史的意義については主に第4章5、6節で述べた。 筆者は彼の昭和戦前までの著述90数稿を把握している。それらをみると彼が啓蒙しようとした住宅形式は家族本位の洋風住宅、居間式住宅であったことが明かである。 我が国における居間式住宅の成立に、生活改善同盟会の住宅改善調査委員会が1920年発表した「住宅改善の方針」が大きな役割を果たしたとされている。このことから1920年までに国内で発表された建築関係雑誌やその関係の単行書を調査した結果、彼の初期の著述、「バンガロー」(1915年)と、初めての著書『楽しき住家』(1919年)は、前者は居間式住宅を今後の我が国の住宅にすべきと主張した最初の著述であり、後者はその主張を行った最初の単行書であることを筆者は明らかにした。もちろん、当時の住宅関係の出版物等にはこの形式の海外住宅を紹介したものや家族本位の主張など、この形式の主張に通ずる主張は数多くみられるが、彼の著述のような明快なこの形式の主張は彼のものが発表される以前は皆無であった。 さらに筆者は彼の記述、当時の新聞記事、上記した1920年までに発表された雑誌や単行書などの調査から、西村のこの二つの著述の中でも特に『楽しき住家』の出版は当時大きな反響を呼んだことを明かにし、この形式の住宅を許容し支持する世論が形成される大きな契機となり、生活改善同盟会の住宅改善方針の決定においても大きな影響を与えたと推測した。 このようなことから『楽しき住家』は我が国の居間式住宅成立に極めて重要な役割を果たしたと考えられ、ここに彼の住宅改良に関する啓蒙活動の最大の歴史的意義があり、この書について語ることなしに居間式住宅成立の過程を明白にすることはできないことを筆者は主張した。 そのほか彼の啓蒙活動として重要なものは「文化生活と住宅」(1920年)がある。これについては第6章2節A)で報告している。この歴史的意義は一つは居間式住宅をより人々に広めたこと、そしてもう一つは居間式住宅の先駆者である西村に建築事務所を開かせる契機となったことである。 西村の建築に関わる活動の思想的背景について。このことに関連する章は主に第2、3章である。 彼の父は極めて熱心なピューリタン的キリスト教徒であって、彼はこの父を大層尊敬し、父の行動を自分の規範としていた。このような彼の生育歴、彼の発言、周囲の人々の証言などから明治初期に主に米国より我が国に伝道されたプロテスタンティズムが彼の活動の主なバックボーンであったことはまず誤りはないであろう。 この宗教の重要なキーワードはreformationであって、特に初期に伝道されたこの宗教はこの傾向を強く持っていた。彼はさまざまなことがあって信仰面においてはこの宗教から離れていったが、日常生活やその器である住宅のreformationをめざしたのであった。 そのほか、彼は我が国における草創期の社会主義思想、社会改良主義にも影響を受けている。ただ我が国の社会主義は上記宗教を一母体としており、両者の彼への影響を明確に分けて論じることはあまり意味がないであろう。彼は叔父大石誠之助を通じてこのような思想に触れ、民衆への視点をより強固なものにしていった。彼が主張する住宅、居間式住宅は民主的な家族観にもとづくものであって、民衆のための住宅、バンガローは彼の主張の柱となった。 以上のほか本論では、彼の文化学院における活動、絵画陶芸の創作活動についてもまとめている。前者は既に報告されているようにその教育史的意義は小さくはなく、また、後者をみることによって彼が世に出てゆく初期の段階を知ることができる。 |