学位論文要旨



No 213765
著者(漢字) 溝端,一秀
著者(英字)
著者(カナ) ミゾバタ,カズヒデ
標題(和) 準古典的分子衝突計算に基づく分子振動緩和・解離・再結合の連成的解析
標題(洋)
報告番号 213765
報告番号 乙13765
学位授与日 1998.03.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13765号
研究科 工学系研究科
専攻 航空宇宙工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 久保田,弘敏
 東京大学 教授 長島,利夫
 東京大学 教授 松為,宏幸
 東京大学 教授 森下,悦生
 東京大学 教授 安部,隆士
内容要旨

 近年の再使用型宇宙往還機計画の進展に伴って,その機体設計のために,極超音速流れが機体に及ぼす空気力及び空力加熱を詳細に見積もることが求められている.極超音速条件においては物体周辺の衝撃層流れの温度は数千から数万度の高温になり,そこでは様々の物理化学現象が発生する.この物理化学現象によって流れ場の構造が著しく変化し,ひいては流れが物体に及ぼす力・加熱が大きく変わってくること(実在気体効果)が知られている.従って,極超音速領域における空気力・空力加熱の見積もりのためには,種々の物理化学現象を適切に考慮することが必要となる.

 諸々の物理化学現象の内,極超音速衝撃層流れの構造に最も大きい影響を与えるものとして,空気分子の振動緩和と解離・再結合反応がある.微視的に考えれば,振動緩和も解離・再結合反応も,分子衝突に際しての振動遷移に起因する現象であるから,単一の方程式系(マスター方程式)によって一元的に取り扱うことが可能である.この取り扱いの際には,単位時間,単位体積中で所定の2つの振動準位の間で遷移が何回発生するかを表すstate-to-stateの振動遷移速度定数の値が必要となる.遷移速度定数の値がどの程度正確に推算されているかが,マスター方程式解析の信頼性を決定づける.

 極超音速衝撃層流れの高温条件においては実験データが充分には存在しないため,state-to-state遷移速度定数の推算の為には,巨視的実験データに依存する既存の手法は無効であり,巨視的実験データに依存せず分子レベルの情報だけを用いた推算法が必要である.それは,ポテンシャル場の中での原子運動として分子衝突を数値的に解き,多数の分子衝突の統計的平均量の一つとして遷移速度定数を推算するMonte Carlo分子衝突解析である.また,原子の運動の解き方としては,今般の計算機資源の能力や既存の解析例の蓄積状況を鑑みて,準古典的方法を採用することが最も現実的である.

 このような準古典的分子衝突解析とマスター方程式解析を組み合わせた手法を空気分子に適用する研究は,これまであまり実施されてきておらず,空気分子に対するこの手法の定量的妥当性は未だ検証されていない.そこで,本研究は,準古典的分子衝突解析とマスター方程式解析との組み合わせによる分子振動緩和・解離・再結合の一元的解析法を空気分子に適用し,その定量的妥当性の範囲を検証することを目的としている.気体種としては,衝撃波管実験値との定量的比較のために,実験値が蓄積されている「アルゴンに大希釈された酸素分子」を想定した.また,原子分子の電子的状態としては,解析の簡単のために基底状態のみを扱うこととした.

 まず,state-to-stateの振動遷移速度定数及び詳細解離速度定数の推算式を,その厳密な定義に立ち返って構成した.これは,個々の分子衝突において所定の遷移が起こるかどうかを表す二値関数を,7つの衝突変数について重み付き平均化(定積分)する形の式となった.この多重積分計算は解析的には実行不可能であるので,Monte Carlo法の原理に従って衝突前状態を乱数的に指定し,多くの分子衝突計算を行った結果,衝突計算本数に占める所定遷移の発生本数の割合として近似的に計算された.

 分子衝突計算は古典的に,則ちHamiltonの正準方程式を時間積分することによって行われた.但し,衝突前状態と衝突後状態においては,量子論的分子内エネルギー準位と古典的分子内エネルギーとの対応付けが成された.量子論的分子内エネルギー準位の定式としては,解析の簡便の為にHuber& Herzbergの分光データに基づくDunham級数式が用いられ,古典的分子内エネルギーの定式としては,2原子間ポテンシャル関数に回転エネルギーを付加したrotating oscillatorモデルが採用された.ポテンシャル関数としては,酸素分子のMorse関数とO-ArのLennard-Jones(12-6)関数との単純和が用いられた.一方,酸素分子の分子内ポテンシャルとしてHulbert-Hirschfelder関数を用いた解析も行い,Morse関数による解析結果との差は小さいことが示された.

 この分子衝突解析によって,2,000〜22,000[K]の温度範囲において,すべての振動準位の間の励起・失活の遷移速度定数と,すべての振動準位からの詳細解離速度定数が推算された.温度12,000[K]の場合の推算値をFig.1に示す.各準位への詳細再結合速度定数は,詳細解離速度定数推算値に微視的可逆性を適用することによって推算された.

Figure1,Rate coefficients for vibrational transitions and detailed dissociations of O2 colliding with argon at a temperature of 12,000[K].Values only for vibrational quantum number increments │8 are plotted.

 次に,推算された遷移速度定数を用いて,衝撃波管実験に対応する条件でマスタ方程式を解くことにより,振動緩和と解離再結合反応の経時推移が捉えられた.則ち:

 ・室温からの瞬間的加熱に追随して振動励起が生じ,これによって解離反応が立ち上がる.

 ・やがて,振動励起と解離反応が釣り合って振動分布,解離速度定数,単位質量当たり振動エネルギ,等に経時変化の見られない準定常状態が現れる.

 ・この準定常状態では,解離酸素の濃度が小さいため再結合反応は殆ど生じない.また,各準位からの詳細解離速度は準位によってあまり異ならないが,高準位の分子数密度が小さいことが相俟って,高準位においてボルツマン分布からの分子濃度欠損が発生する.

 ・やがて解離によって酸素原子濃度が増すことによって再結合反応が立ち上がり,準定常状態は終了して,並進温度に対応した平衡ボルツマン分布・平衡状態に向かう.

 ・その間,各準位からの詳細再結合速度は準位によってあまり異ならないが,高準位の分子数密度が小さいことが相俟って,解離による分子濃度欠損を再結合が相殺する効果は高準位におけるほど大きい.そして最終的平衡状態では,詳細解離と詳細再結合とが完全に相殺する.

 また,最終的な平衡分布が並進温度に対応したボルツマン分布に概ね一致したことや,解離・再結合速度を強制的に0に設定した場合の定常分布が並進温度に対応したボルツマン分布に一致したことから,分子衝突解析によって推算された振動遷移速度定数が微視的可逆性を概ね良好に満たすことが示された.

 さらに,解離によって失われる振動エネルギは,加熱直後の振動緩和と解離反応の立ち上がりに応じて,室温に対応した小さな値から急激に増す,また,準定常状態・平衡状態におけるその値は並進・回転温度によって大きく異なる,という事が示された.このことから,既存の衝撃層流れの数値解析で通常用いられている「解離熱のうちの一定割合が振動モードから供給される」或いは「分子一個当たりの平均振動エネルギの定数倍の振動エネルギが解離によって失われる」との仮定は正確ではないことが判明した.

 マスタ方程式の解から準定常解離速度定数・解離誘導時間・振動緩和時間・再結合速度定数を推算し,これらについての衝撃波管実験値を再現出来るかどうかを検討した.また,もう一つの比較対象として,既存のLandau-Teller型の4通りの遷移速度定数モデルによるマスタ方程式解析を行い,その得失について考察した.

 準定常解離速度定数については,Fig.2に示された様に,実験値の存在する3,000〜18,000[K]の温度範囲で実験値を概ね良く再現した.一方,解離誘導時間・振動緩和時間については,Fig.3,Fig.4に示されたように実験値より小さい値を得た.これは,振動遷移速度定数の相対的大小関係や詳細解離速度定数の絶対値が良好に推算された反面,振動遷移速度定数の絶対値が過大評価されたためと推察される.その過大評価の程度については,詳細解離・再結合の速度定数の推算値はそのままにして振動遷移速度定数の推算値を定数倍した解析から,温度3,000[K]付近で概ね20倍,温度10,000[K]付近で概ね10倍であったと推定された.また,O-Arのポテンシャル関数の近距離斥力指数を小さくした解析の結果から,この不一致の一部はポテンシャル関数の改良によって改善されると見込まれたものの,温度が低いほど過大評価の程度が大きいことから,誤差の内,古典近似に起因する割合が大きかったと推察された.但し,この古典近似による誤差の程度を見積もるためには,量子論的分子衝突解析の結果との比較が必要であるから,量子論的解析が成されるのを待たなくてはならない.

 また,分子衝突解析を行えば振動緩和時間が衝突周期より短く勘定されることはあり得ず,Parkのcollision limiting条件に相当する特性が自動的に勘定される,ということが示された.

 再結合速度定数については,2,000〜3,000[K]の温度範囲において実験値との良い一致を見た.4,000[K]以上の温度においては既存の理論で予測されている温度依存性を再現できず,解離速度定数の実験値を平衡定数で除した値の約3倍の値となった.4,000[K]以上では,再結合速度定数そのものの実験値が全く取得されておらず,また,解離速度定数を平衡定数で除した値が再結合速度定数に一致する事(詳細釣合)の成立性が不確実であることから,今回の解析結果の妥当性については確定的な判定は出来ない.また,今回の微視的可逆性原理に基づく再結合の扱い方が「高圧極限条件」に対応することから,詳細再結合速度定数が大きく見積もられたものとも考えられる.

 今回の手法に比較して,Landau-Teller型の遷移確率モデルによるマスタ方程式解析には,ベス・テラー式に基づいて推算された振動緩和時間の実験値が内包されているため,ベス・テラー式から遠ざかるようなモデル改良には定量的意義が無いことが示唆された,また,Landau-Teller型モデルは振動緩和を記述する事には向いているが,振動中・低準位からの解離を捉え得ないため解離・再結合を記述する事には適さず,解離に関するモデル方程式ないしは実験式を別途用意する必要があると判明した.

 以上を総合して,準古典的分子衝突解析とマスター方程式解析とを組み合わせた分子振動緩和・解離・再結合の連成解析法は,解離・再結合反応については概ね定量的妥当性を有するものの,振動緩和の定量的再現性の面で改善の余地が有ることが判明した.その改善方途としては,第一に分子衝突解析に量子論的取り扱いを取り入れること,第二に振動回転高準位における分子内エネルギー準位の記述精度やポテンシャル関数の精度を高めること,第三に原子分子の電子励起を考慮に入れること,が必要である.

Figure2.Quasi-steady-state bulk dissociation rate coefficients of O2 highly dilute in argon.Figure3.Dissociation induction times of O2 higly dilute in argon.Figure4.Vibrational relaxtion times of O2 highly dilute in argon.Figure5.Bulk recombination rate coefficients of O2 highly dilute in argon.
審査要旨

 工学修士溝端一秀提出の論文は「準古典的分子衝突計算に基づく分子振動緩和・解離・再結合の連成的解析」と顕し、本文5章から成っている。

 宇宙往還機等が大気飛行中に遭遇する極超音速衝撃層流れにおいては、その温度が数千度から数万度に達するため、空気のさまざまな物理化学現象が流れ場の構造を支配するようになる。往還機の空力特性や空力加熱特性を推定するためには、この極超音速高温領域での物理化学現象を適切に考慮することが必要である。種々の物理化学現象のうち、極超音速衝撃層流れの構造に最も大きく影響するのは空気分子の振動緩和と解離・再結合反応である。従来、振動エネルギーの各準位にある分子の数密度の時間変化はマスター方程式と呼ばれる方程式系で表現され、これは解離・再結合反応とは独立に解析されてきた。すなわち、振動エネルギーの緩和は単量子遷移のみを考慮したLandau-Teller遷移確率モデルに基づいてBethe-Teller方程式で表されるとし、解離・再結合反応による影響は反応生成項を付加することで代表させるのが一般的であった。このような扱い方は、微視的現象の正確な把握という目的からは極めて不十分である。振動緩和も解離・再結合反応も分子衝突に際しての振動遷移に起因する現象であることを考えれば、単一のマスター方程式によってこれらを一元的に取り扱うことが望ましい。

 このような観点から、著者は準古典的分子衝突解析とマスター方程式解析との組み合わせによる分子振動緩和・離離・再結合の一元的解析を行い、その定量的妥当性の範囲を検証することを本論文の目的としている。衝撃波管実験値との比較を行うために、気体種としては実験値の蓄積されている「アルゴンに大希釈された酸素分子」を想定している。

 第1章は序論で、極超音速空気力学における物理化学現象の扱いの重要性と分子振動・解離・再結合の連成現象の概念を述べ、それに関する従来の国内外の研究状況を概観し、本論文の目的と意義を明確にしている。

 第2章では、分子振動・解離・再結合を一元的に表現するマスター方程式を構成し、振動遷移速度定数および詳細解離速度定数の推算式をその定義に基づき定式化している。さらにこれら速度定数の推算のためのモンテカルロ法の定式化を行っている。

 第3章では、分子衝突における原子の運動を解くためのアルゴリズムを準古典的手法に基づいて構成している。さらに、このアルゴリズムに従って酸素分子とアルゴン原子との衝突を解析し、振動遷移速度定数・詳細解離速度定数を実際に推算している。その際、ポテンシャル関数の選択、および量子論的分子状態と古典的分子状態の対応づけに留意している。また、推算された詳細解離速度定数に微視的可逆性原理を適用することにより、詳細再結合速度定数を推算している。

 第4章では、推算された遷移速度定数を用いて、アルゴンに大希釈された酸素分子の振動・解離・再結合に関するマスター方程式を衝撃波後方の条件で解いている。その解から準定常解離速度定数、解離誘導時間、振動緩和時間、再結合速度定数を推算し、衝撃波管実験値と比較することにより、著者の提案する手法が振動・解離・再結合の連成解析にどの程度適しているかを検討している。また、既存の遷移速度定数モデルの代表であるLandau-Tellerモデルによるマスター方程式解との比較を行っている。

 第5章は結論で、本研究において明らかになったことを総括している。

 以上要するに、本論文は準古典的分子衝突解析とマスター方程式解析との組み合わせによって分子振動緩和・離離・再結合を一元的に解析し、その手法の定量的妥当性の範囲を検証したものであり、その成果は熱空気力学上新しい知見を与え、航空宇宙工学に貢献するところが大きい。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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