学位論文要旨



No 213792
著者(漢字) 櫻井,美栄
著者(英字)
著者(カナ) サクライ,ミエイ
標題(和) イチゴ培養細胞を用いたアントシアニン生産に関する基礎的研究
標題(洋)
報告番号 213792
報告番号 乙13792
学位授与日 1998.03.16
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13792号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 古崎,新太郎
 東京大学 教授 渡邊,正
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 助教授 関,実
 東京大学 講師 上田,宏
内容要旨

 二次代謝産物の中でも色素とりわけアントシアニンを植物培養細胞により生産することに関しては多くの研究がなされ、その生産量は様々な因子により促進されることがわかってきている(植物ホルモンの種類,Ozeki and Komamine,1986;培地の種類,Yamakawa et al.,1983b;UV照射,Wellmann et al.,1976;光照射,Takeda,1988;浸透圧,Do and Cormier,1991a;エリシター,Schnitzler et al.,1989)。イチゴ培養細胞によるアントシアニン生産に関しても、生産されるアントシアニンの構造解析がMoriら(1993)によりなされ、しょ糖と窒素源(Mori and Sakurai,1994)やリボフラビン(Mori and Sakurai,1995)の他に、一度細胞培養に使用した細胞懸濁液をフィルターろ過して得られた培養ろ液(conditioned medium;以下略称CMと呼ぶ)により、アントシアニン生産が促進されることが報告されている(Mori et al.,1994)。このことから、イチゴ培養細胞の場合、培養している間に細胞から培地中にconditioning factorと呼ばれる植物培養細胞の細胞増殖促進因子に似た未知の物質が放出され、その物質がアントシアニン生産を促進している可能性が示唆された。さらに、イチゴ培養細胞において生産されるアントシアニンの組成比は、培地中の窒素やリボフラビンの量やCMの割合により変化することも示されている(Mori and Sakurai,1994;Mori and Sakurai,1995;Mori et al.,1994)。

 そこで本研究では、イチゴ培養細胞におけるCMによるアントシアニンの生産量やアントシアニン組成比への影響をより詳しく調べ、さらに、CMと光がアントシアニン合成代謝系酵素の活性やその遺伝子の発現に与える影響を調べることを目的とした。

 初めに、このイチゴ培養細胞のアントシアニンの生産を最も促進するCMを作成し、その最適CMを凍結乾燥して培地中に加えることにより、イチゴ培養細胞におけるアントシアニンの生産量を高めることについて検討した。また、CM中のアントシアニン生産促進物質の化学的性質を調べた結果、分子量10,000以下の酸・アルカリに耐性な物質と分子量10,000以上でアルカリにより分解される物質の2種類が存在する可能性が示された。

 次に、このイチゴ培養細胞のCMをそのまま、あるいは凍結乾燥して新鮮培地中に加えて細胞を培養した時の、主なアントシアニン成分であるペオニジン-3-グルコシドとシアニジン-3-グルコシドの含量への影響を調べた。その結果、新鮮培地中に含まれるCMの割合が高い程、両方の主成分の含量が増加することがわかった。しかし、CMを凍結乾燥して培地に加えていくと、培養初期にシアニジン-3-グルコシドの含量を著しく高めることがわかった(図1)。さらに、このイチゴ培養細胞のCMを用いると、異種の植物(バラ)の培養細胞においてもアントシアニンが生産されることが示された。

 次に、イチゴ培養細胞におけるアントシアニン合成代謝系の鍵酵素であるchalcone synthase(以下CHSと略す)遺伝子の発現を調べるため、イチゴ培養細胞のcDNAライブラリーを作成し、CHS遺伝子をスクリーニングして、その塩基配列を解析した。このクローニングしたイチゴ培養細胞のCHS cDNAを用いて、まず初めに、光照射下におけるイチゴ培養細胞でのCHS遺伝子発現誘導に関して調べた。また、イチゴ培養細胞のアントシアニン合成代謝系酵素であるphenylalanine ammonia-lyase(以下PALと略す)とCHSおよび二次代謝系との連動が報告されているシキミ酸代謝系の酵素3-deoxy-D-arabino-heptulosonate 7-phosphate synthetase(以下DAHP synthaseと略す)の光照射による活性への影響を調べた。その結果、MnタイプのDAHP synthaseとPALおよびCHSは光照射量が高いほど、それらの酵素活性が高くなることがわかった。また、この時のCHS遺伝子の発現は、暗所や弱光下では培養時間を経て消失するが、強光下で培養した場合は最も強く発現することが示された。

 さらに、CMがPAL、CHS、DAHP synthase活性とCHS遺伝子発現誘導に与える影響ついて調べた。その結果、CMでのPALとCHSの活性はコントロールのそれらの値より有意に高くなることがわかった(図2)。しかし、この時のCHS遺伝子の発現の強さは両培地間ではあまり変わらないことがわかった(図3)。

 以上の結果より、このイチゴ培養細胞のCMそのもの、または、そのCMを凍結乾燥して新鮮培地に加えることにより、植物培養細胞における二次代謝物質生産としてのアントシアニン生産の向上に有益であることが判明した。さらに、アントシアニン生産において、アントシアニンの色調をコントロールし、紫赤色を呈するシアニジン-3-グルコシドの生産を促進することに対しても、このCMを用いることが有効であることがわかった。さらに、CMはアントシアニン合成代謝系酵素の遺伝子発現そのものよりも、むしろ酵素活性の促進に働きかけている可能性があると考察された。

図1 CMのアントシアニン組成への影響凍結乾燥したCMの粉(0.5,1,3,5g)をLS培地(100ml)中に加えて2gの細胞接種量を8,000luxの光照射下で培養した時のペオニジン-3-グルコシド含量(●)とシアニジン-3-グルコシド含量(▲)と細胞生重量(◆)を測定した。(○)、(△)、(◇)は、それぞれコントロール(凍結乾燥したCMの粉の代わりにCM中に含まれる糖類を同量加えた培地で培養した)のペオニジン含量、シアニジン含量、細胞性重量を示す。培養期間(a,d:3days;b,e:7days;c,f:15days)図2 CMによるアントシアニン合成代謝系酵素の活性への影響(A)DAHP synthase活性:●,▲,CoタイプのDAHP synthase活性;○,△,MnタイプのDAHP synthase活性(B)PAL活性(C)CHS活性 培地:●,○,コントロール培地(CM中に含まれる主栄養源の濃度を同量に調整したLS培地);▲,△,CM LS培地で1週間培養したイチゴ培養細胞(1g)をCMとコントロール培地に接種して8,000luxの光照射下で培養した。細胞接種後0,6,12,24,36,48,60,72,84,102時間目にそれぞれの培養液中の細胞を収穫し、酵素活性を測定した。図3 CMによるCHS遺伝子の発現への影響CMで培養したイチゴ培養細胞のCHS遺伝子の発現をコントロール培地(CM中に含まれる主栄養源の濃度と同量に調整したLS培地)で培養した細胞のCHS遺伝子発現と比較した。 (A)細胞から抽出した全RNA10gを電気泳動し、イチゴ培養細胞のcDNAライブラリーからスクリーニングしたCHS cDNAをプローブとしてノーザンハイブリダイゼーションを行った。収穫した細胞の培養期間;lane1:Oh,lane2:6h,lane3:12h,lane4:24h,lane5:36h,lane6:48h,lane7:60h,lane8:120h,lane9:168h (B)CHS mRNAの相対量の変化を(A)に示したノーザンハイブリダイゼーションのバンドをデンシドメトリーでスキャンすることにより測定した。最高値を示したmRNAの発現量に対する相対比率で示した。培地:●,コントロール培地;▲,CM
審査要旨

 植物培養細胞を用いるアントシアニン色素の製造は、食品添加物へ応用が期待され注目されている。植物細胞においてよく観察される現象としてコンディショニング効果というものがある。これは、細胞自身の生産するコンディショニング因子(CF)が細胞の増殖や細胞による物質生産を促進する現象を指している。本研究においては、イチゴ培養細胞によるアントシアニン生産に関して、このコンディショニング効果に着目し、CFを含むコンディション培地(CM)のアントシアニン生産への影響を調べたものである。論文は序章から第6章までの7章からなっている。

 まず、序章においてはアントシアニン合成経路、同経路に関与する酵素およびその遺伝子についての概要と既往の研究について紹介し、本論文の目的を述べている。

 第1章においては、イチゴ培養細胞におけるアントシアニンの誘導が、イチゴ細胞を培養して得られたCMをLinsmaier-Skoog(LS)培地に加えることにより促進されることを示した。更に、このコンディショニング効果の最も大きく得られるCM製造の条件についても検討した。CMと見かけ上全く同じ(CFがない)培地を調合により作成し両者の効果を比較したが、CMの方がアントシアニン生成に対する効果が著しいことがわかった。CMを凍結乾燥して得られた粉末を培地に加えても同様に効果のあることがわかった。これらのことから培養中に何らかの物質(CF)が培地中に放出され、それがアントシアニンの生産を促進していることが示された。更に、CFは分子量10,000以下の酸、アルカリに耐性のある物質と分子量が10,000以上のアルカリで分解される物質の2種類が存在する可能性を示した。

 第2章では、CMをそのままあるいは凍結乾燥してLS新鮮培地に添加したときのアントシアニン組成比への影響を調べた。新鮮培地へのCMの添加量が多い程、培養初期(ほぼ2日目)の細胞内アントシアニン含量が増加するが、とくにシアニジン-3-グルコシドの割合が高くなった。培養後期(5-7日目)ではペオニジン-3-グルコシドが多くなった。また、培養始めの細胞接種量によっても組成比に変化が見られた。また、アントシアニン生産能を失ったバラの培養細胞に対しても、イチゴのCMを与えるとアントシアニンを生産するようになることも示した。この結果はイチゴのCFがバラに対して有効であるというCFの共通性一般性を示すものとして注目される。

 第3章では、アントシアニン合成経路の重要な酵素であるカルコン合成酵素(CHS)のクローニングを行った。アントシアニンを生産しているイチゴ細胞から全RNAを抽出し、そのcDNAライブラリーを得た。ニンジンのCHSのcDNAをプローブとしてスクリーニングを行い、ポジティブクローンからCHSのDNAを得た。その塩基配列からCHSは大きさが 1,410bpで分子量が42.5kDの390アミノ酸コード領域を持つタンパク質であることがわかった。このアミノ酸配列はニンジンCHSとの相同性が80%であった。

 第4章では、イチゴ細胞に対する光の影響を検討した。細胞をLS培地中、暗所、800lux、8,000luxの3通りの条件下で培養し、アントシアニン合成系の酵素(フェニルアラニンアンモニアリアーゼ(PAL)およびCHS)と一次代謝系酵素((3-deoxy-D-arabino-heptulosonate-7-phosphate(DAHP)Synthase)のうちMn2+依存型のもの(DS-Mn)およびCo2+依存型のもの(DS-Co))、更にCHS遺伝子の挙動を調べた。その結果、PAL、CHSおよびDS-Mnの酵素活性が光照射量が大きい程高くなっていることを認めた。これらの時間経過も測定したところ、酵素活性は0.5-3日目に最大活性を示した後に次第に減衰することが認められた。DS-Coに対しては光の影響は無かった。なお、CHS遺伝子は光照射量が8,000luxのときは培養6時間目から強く発現し、培養1週間後まで強いままであった。

 第5章においては、CFがアントシアニン合成代謝系のどの反応に活性を与えるかをCMおよびCFを含まない合成培地を用いて検討した。その結果、DAHP Synthaseはふたつの培地における差はみられなかったが、PALとCHSの活性はCMの方が高いことがわかった。CHS遺伝子の発現は両培地間で差はみられなかった。つまり、第4章の結果と合わせて考えると、光照射でPALとCHSの発現が増加するが、更にCFが存在すると両者の発現がいっそう大きく活性化されることが示唆された。

 第6章においては、以上の検討結果を総括し、CM中にはアントシアニン生産を促進するCFが含まれ、このものは既往の研究からも同定されていないが、二次代謝酵素活性に影響を与えると推定される点を述べている。その上で、CM添加によりアントシアニン生産の向上が期待される旨記して、結論としている。

 以上、本論文はイチゴ培養細胞によるアントシアニン色素の生産についてコンディショニング因子(CF)を含むコンディション培地(CM)の効果を、酵素活性への影響を中心として広範に検討したもので、この成果はイチゴのアントシアニン製造のみに止まらず、広く植物細胞の応用に関する生物工学に寄与するものと評価できる。よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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