学位論文要旨



No 213799
著者(漢字) 中林,孝和
著者(英字)
著者(カナ) ナカバヤシ,タカカズ
標題(和) ピコ秒時間分解アンチストークスラマン分光法による溶液中の振動分布緩和過程の研究
標題(洋) Studies on Vibrational Population Relaxation Dynamics in solution by Picosecond Time-Resolved Anti-Stokes Raman Spectroscopy
報告番号 213799
報告番号 乙13799
学位授与日 1998.04.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13799号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 濱口,宏夫
 東京大学 教授 中村,栄一
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 助教授 朝倉,清高
 東京大学 教授 小林,孝嘉
内容要旨

 振動分布緩和過程(振動緩和過程)は,光励起ダイナミックスにおいて最も基本的な過程の一つであり,振動分布緩和の理解は,光励起ダイナミックスの解釈において本質的な重要性を持つ。時間分解アンチストークスラマン分光法は,ポンプ光パルスで振動励起状態を作り,ある遅延時間の後で,別の光パルス(プローブ光パルス)を照射して,振動励起状態のみの振動スペクトルを測定する時間分解振動分光法の一つである。この方法は振動励起状態のみの変化を,振動スペクトルの変化として観測するため,凝縮相の振動緩和を調べる強力な手法の一つである。本論文では,このピコ秒時間分解アンチストークスラマン分光法を用いた溶液中の振動緩和過程の研究結果について報告する。本論文の目的は次の二つに大別される。(1)振動緩和を研究するための新しい方法論を提案する。今までは,アンチストークスラマン散乱のポンプ光パルスとプローブ光パルスの遅延時間に対する依存性のみから定性的な解釈が行われていた。しかし,ポンプ光やプローブ光パルスの波長を変化させることによって,さらに多くの情報が得られることを示す。とくにプローブ光波長依存性から,観測される振動励起状態の振動量子数を特定できることを示す。(2)光生物学,光化学的に重要な分子の振動分布緩和過程について,他の手法からは得ることができない詳細な情報を得る。

 以下,章を追ってその内容を記述する。

(1)ジメチルアミノニトロスチルベンの光誘起分子内電荷移動過程

 ジメチルアミノニトロスチルベンを極性溶媒中において光励起した後の緩和過程において,許容電子励起状態の他に分子内電荷移動を起こしたcharge transfer(CT)状態の存在が示唆されている。しかし,このような光過渡種を直接観測した例はなかった。今回,波長527nmのピコ秒パルスを用いて,CT状態のピコ秒時間分解ストークスおよびアンチストークスラマンスペクトルを測定することができた。アンチストークスラマン強度が,常温の熱平衡分布から予測される強度よりも大きいことから,振動励起状態にある分子が常温よりも多量に存在していることが示唆された。この結果は,許容電子励起状態からCT状態への転換に際して,その余剰エネルギーによって,振動励起状態の分布が増加したものとして解釈される。

(2)カロテノイドのアンチストークスラマン励起プロフィルの解析と振動緩和研究への応用の可能性

 振動緩和の研究において,光励起で生成した振動励起過渡種がどのような振動量子数の状態にあるかを明らかにすることは,重要な意味を持つ。しかし,溶液中の場合,多原子分子の振動量子数を明確に示した例はほとんどなかった。そこで,観測される振動励起過渡種の振動量子数を明らかにする方法として,アンチストークスラマン散乱の共鳴励起プロフィル(共鳴ラマン散乱強度の励起波長依存性)を用いる方法を新たに提案する。この方法は,共鳴ラマン励起プロフィルが,ラマン遷移の始状態の振動量子数によって,異なる概形(波長依存性)を示すことを利用する。まず,始状態として様々な振動量子数をもった振動励起状態を仮定して,アンチストークスラマン散乱の励起プロフィルを理論的に計算する。次に振動励起過渡種のアンチストークスラマン強度のプローブ光波長依存性の測定を行う。実験結果を最もよく説明する計算結果を与える振動励起状態が,観測されている振動励起過渡種の状態であると同定できる。

 この方法を適用するには,アンチストークスラマン励起プロフィルが理論計算によって再現できることを確かめる必要がある。そこで,室温溶液中でのカロテノイド(-カロテンとカンタキサンチン)の共鳴ラマン励起プロフィルをストークス側,アンチストークス側の両方で測定し,計算結果との比較を行った。その結果,ストークス,アンチストークスともに測定された励起プロフィルを理論計算で再現できることがわかった。次に,様々な振動量子数を始状態としたアンチストークスラマン励起プロフィルを同様に計算した。始状態の振動量子数によって,アンチストークスラマン励起プロフィルの概形が大きく異なり,実験が十分な精度で行なわれれば,始状態の振動量子数を同定することが可能であることがわかった。

(3)カンタキサンチンの振動分布緩和ダイナミックス

 上記の方法の有用性を確かめるため,カンタキサンチンの振動緩和過程の研究を行った。可視光ポンプパルスによりカンタキサンチンを基底電子状態(S0)から第二励起一重項状態(S2)へ励起する。二段階の内部転換(S2→S1→S0)を経て,数ピコ秒後にはカンタキサンチンのS0状態の振動励起過渡種が生成する。別の可視光プローブパルスを用いて,生成した振動励起過渡種のピコ秒アンチストークスラマンスペクトルを測定した。

 実験は2台の色素レーザーを用いて,ポンプ光とプローブ光の波長を独立に選択できる配置で行った。モードロックNd:YLFレーザーの2倍波を用いて,2台の同期励起色素レーザーを励起し,それぞれの出力光を色素増幅器によって増幅した。色素増幅器の励起光源には,再生増幅器出力の2倍波を用いた。繰返し率1kHz,パルス幅3-4psである。ラマン散乱光はトリプルポリクロメーターとCCDを用いて検出した。

 プローブ光によるアンチストークスラマン強度は,ポンプ光とプローブ光の遅延時間に依存し,遅延時間12psで最大になり,その後減少する。これは,S1→S0の内部転換によるS0の振動励起過渡種の生成,およびその振動緩和による消滅に対応する。C=C伸縮振動バンドについて,光励起で生成した振動励起過渡種によるアンチストークスラマン強度のプローブ光波長依存性を測定し,様々な振動励起状態を始状態としたC=C伸縮振動モードのアンチストークスラマン励起プロフィルの計算結果との比較を行った。その結果,C=C伸縮振動モードについては,実測された振動励起過渡種のプローブ光波長依存性は,最低振動励起状態からの基本遷移(1→0)と同様の挙動を示すことがわかった。従って,観測されている振動励起過渡種は,C=C伸縮振動モードについては最低振動励起状態であることがわかった。

 カロテノイドのS1とS0ではC=C部分の構造が大きく異なると考えられており,そのためS10の内部転換の直後にはC=C伸縮モードの高振動励起状態にある過渡種が生成すると考えられる。今回の結果は,S1→S0の内部転換の直後には高い振動励起状態にあるC=C伸縮振動モードが,ピコ秒以下でエネルギーを散逸することを示唆している。

(4)trans-スチルベンの最低励起一重項状態の振動緩和ダイナミックス

 紫外光ポンプパルスによって,S0状態のtrans-スチルベンをS1状態へ遷移させ,可視光プローブパルスでS1状態のアンチストークスラマンスペクトルを測定した。ポンプ光の波長をS1←S0吸収の0-0バンドよりも短波長にすることで,ポンプ光のエネルギーとS1←S0吸収の0-0バンドのエネルギーとの差(余剰エネルギー)を,振動励起エネルギーとして分子に与え,このようにして生成するS1状態の振動励起過渡種をプローブ光で観測した。余剰エネルギーは励起直後にはいくつかの特定の振動モードに局在し,時間とともに他のモードに散逸して,最後にはすべてのモードに統計的に分配されると考えられる。

 まず,励起後の,余剰エネルギーが特定のモードに局在した状態が検出されるかどうかを検討する目的で,ポンプ光に0-0吸収帯より波長の短い光(余剰エネルギー5200cm-1,以降SWPと略す)を用いた場合と0-0吸収帯付近の波長(余剰エネルギー400cm-1,LWPと略す)を用いた場合のS1trans-スチルベンのアンチストークスラマンスペクトルを比較した(プローブ波長は一定)。SWPの遅延時間20psにおけるスペクトルとLWPの0psと20psにおけるスペクトルの概形は一致し,これらは常温の熱平衡分布で生じた振動励起状態によるものであると考えられる。しかし,SWPの0psのスペクトルは,これらのスペクトルとは大きく異なり,オレフィン部分の振動に由来するバンド強度が大きく増大した。このスペクトルに現れるバンド強度はどんな温度を仮定しても説明することができず,SWP,0psではオレフィン部分に余剰エネルギーが局在した振動励起過渡種が,多量に生成していることがわかった。S1←S0吸収スペクトルの振動構造には,オレフィン部分の伸縮振動の寄与が大きいといわれており,SWPの光励起に伴って,オレフィン部分の伸縮振動の高励起状態が生成すると考えられる。今回の結果は,SWP,0psではその余剰エネルギーがまだ分子内で局在し,非熱平衡状態にあることを意味している。時間分解能が5-7psであることから,ピコ秒オーダーでこのような分子内非熱平衡状態が存続していると考えられる。

 次にカロテノイドと同様に,SWPの0psのアンチストークスラマンスペクトルのプローブ光波長依存性を測定し,始状態として様々な振動励起状態を仮定して計算したアンチストークスラマン励起プロフィルと比較することによって,過渡種のオレフィン部分の伸縮振動に関する振動量子数を検討した。計算に必要となるパラメーターはストークスラマンスペクトルのプローブ光波長依存性とSn←S1吸収スペクトルを解析することによって得た。その結果,オレフィン部分(C=C,C-Ph)の伸縮振動について,高振動励起状態を始状態と仮定した計算値は実測値を再現せず,SWP,0psでは,過渡種のC=C,C-Ph伸縮振動はともに最低の振動励起状態にあることがわかった。

 以上より,SWP,0psに観測されている過渡種は,オレフィン部分に振動エネルギーが局在した分子内非熱平衡状態にあるが,光励起直後に生成すると考えられる高振動励起状態ではなく,最低振動励起状態にあることがわかった。この結果は,光励起に伴うS1trans-スチルベンの分子内振動分布緩和には,高振動励起状態から最低振動励起状態への非常に速い緩和と,それに続く分子内非熱平衡状態から分子内熱平衡状態へのピコ秒オーダーの緩和が存在することを示唆している。

審査要旨

 本論文は、Chapter I Introduction,Chapter II Picosecond transient Raman spectra of photoexcited4-dimethylamino-4’-nitrostilbene in polar solvents,Chapter III Analysis of anti-Stokes resonance Raman excitation profiles as a method for studying vibrationally excited molecules,Chapter IV Probe-wavelength dependence of picosecond time-resolved anti-Stokes Raman spectrum of canthaxanthin,Chapter V Vibrational relaxation dynamics of trans-stilbene in the lowest excited singlet state.Pump-and probe-wavelength dependence of picosecond time-resolved anti-Stokes Raman spectrum,Chapter V Future perspectiveの6章から構成されている。

 第1章では、溶液中の振動励起分子の緩和に関する一般論と、振動緩和過程を詳しく調べる有力な手法であるピコ秒時間分解共鳴ラマン分光法について述べられている。とくに筆者が注目するアンチ-ストークスラマン散乱の励起波長依存性から、振動励起状態の量子数に関する情報が得られることが示されている。

 第2章では、極性溶媒中の4-dimethylamino-4’-nitrostilbeneの電荷移動状態のピコ秒時間分解ラマン分光の結果が示されている。アンチ-ストークスラマン強度が、常温の熱平衡状態に対して予想される値より大きいことから、振動励起状態にある分子が多量に生成していることがわかった。

 第3章では、b-caroteneとcanthaxanthinについて、共鳴ラマン散乱のストークスおよびアンチ-ストークス側での励起プロフィールを、AlbrechtのA項に従って理論計算し、実験結果と比較している。この比較から、理論の信頼性が確認された。理論的に求めたアンチ-ストークス側での励起プロフィールが、始状態の振動量子数に強く依存することから、もし時間分解ラマン分光でこれを実測することができれば、振動励起状態におけるダイナミクス、とくに振動量子数に関する重要な情報が得られる可能性が示唆された。

 第4章では、前章で得られた結果に基づき、canthaxanthinの光励起振動ダイナミクスを調べた結果が述べられている。すなわち、canthaxanthinを光励起し、内部転換によって生成する基底電子状態の振動励起分子の振動ダイナミクスを、時間分解アンチ-ストークスラマン法によって調べた。その結果、光励起後ピコ秒の時間領域に存在する振動励起分子の振動量子数は、1であることがわかった。

 第5章では、最低励起一重項状態のtrans-stilbeneについて、第3章の手法を適用した研究例が述べられている。trans-stilbeneを0-0帯より短波長の紫外光で波長を変えて光励起すると、種々の余剰エネルギーを持った振動励起状態が生成する。これらの振動励起状態のピコ秒時間分解アンチストークスラマン強度を解析することにより、余剰エネルギーと振動ダイナミクスとの関係を調べることができる。その結果、光により十分な余剰エネルギーを持って生成した振動励起分子は、ピコ秒以下の時定数で速やかに最低励起振動状態に緩和し、その後熱平衡に向かうことが明らかとなった。

 第6章では、本論文にのべられた手法の可能性と、将来への展望が述べられている。

 本論文で取り扱われている振動緩和過程は、溶液中の化学において決定的な役割を演ずると考えられているにもかかわらず、その詳細が殆ど明らかにされていない、未開拓の研究対象である。論文提出者はこの振動緩和過程を研究する新しい手法として、ピコ秒時間分解アンチストークスラマン法を提案し、いくつかの系について実証した。この成果は、物理化学の発展に少なからず寄与したと認められる。本論文の第2章、第3章、第4章、第5章の内容は、岡本裕己、田隅三生との共著ですでに印刷公表されているが、提出者の寄与が最も大きく学位論文として提出することに何ら問題はない。

 よって論文提出者が博士(理学)を授与されるに十分な資格を有すると認める。

UTokyo Repositoryリンク