学位論文要旨



No 213802
著者(漢字) 大石,訓司
著者(英字)
著者(カナ) オオイシ,サトシ
標題(和) フッ素原子を持つ化合物の反応と合成に関する研究
標題(洋)
報告番号 213802
報告番号 乙13802
学位授与日 1998.04.15
学位種別 論文博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 第13802号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 柴崎,正勝
 東京大学 教授 古賀,憲司
 東京大学 教授 福山,透
 東京大学 助教授 小田嶋,和徳
 東京大学 助教授 遠藤,泰之
内容要旨 1.はじめに

 フッ素はユニークな特性を有しているため、フッ素原子を含む天然有機化合物がほとんど存在しないにもかかわらず、フロンガス、フッ素樹脂、含フッ素医薬品など多くの有機フッ素化合物が合成され使われている。特に医薬品の分野においては、フッ素の特性をいかして、数多くの含フッ素医薬品が開発され臨床応用されている。

 フッ素原子は水素原子についで小さなvan der Waals半径を有し、生理活性化合物の中の水素原子をひとつだけフッ素原子で置換しても、生体はそれを見分けることができずに、元の化合物と同じように取り込んでしまうことがある。また、C-H結合の結合解離エネルギーに比べC-F結合の結合解離エネルギーは非常に大きいため、代謝を受けやすい位置にフッ素原子を導入することによって、生理活性化合物の代謝安定性を高めることも可能である。さらに、フッ素原子はすべての元素のなかで電気陰性度が最も大きいことから、フッ素原子を導入することで化合物の電子的性質は大きく変わることが予想される。また、このような光学活性化合物が、その異性体間で薬理活性にかなりの差を示すことも少なくなく、フッ素と生理活性発現との関わりを解明する上で、光学活性含フッ素化合物の合成は重要な意味を持っている。

 ところで光学活性含フッ素化合物の一方の対掌体のみを選択的に合成する手段として、1)含フッ素キラルビルディングブロックからの変換、2)光学分割による方法、3)不斉合成による方法が考えられが、1)に関しては、入手可能な含フッ素キラルビルディングブロックがまだ数少ないという問題点がある。2)に関しては、効率よく一方が得られたとしても、残りを再利用する手段がない限り、半分が無駄になってしまう。3)に関しては、今日までに確立されたフッ素原子を持たない化合物のための不斉合成法が、フッ素原子の特異な性質により、必ずしもそのまま適用できないことが多く、思うような不斉収率が得られなかったり、反応が全く進行しなかったり、時には選択性が逆転したりすることもある。

 著者は、不斉中心に隣接してトリフルオロメチル基やジフルオロメチレン基が存在する含フッ素光学活性化合物の不斉合成法の開発を目指し検討を行った。また、本研究を通して、含フッ素化合物の反応性、とくに含フッ素化合物の不斉合成法開発の障害となっている反応の特殊性について解明することを目指した。

2.含フッ素カルボニル化合物のアルドール反応における面選択性の逆転

 ビタミンD2類縁体の側鎖部分に相当する(図1破線部)、位に不斉中心を有するビストリフルオロメチルカルビノールの構築に、ヘキサフルオロアセトン(1)を用いるEvansアルドール反応を行ったところ、予想される付加体(2)は全く得られず、面選択性の逆転した付加体(3)のみが得られることを見い出した(式1)。この面選択性の逆転現象の一般性について検討した。

図1 ビタミンD2類縁体式1 ヘキサフルオロアセトンのEvansアルドール反応

 この面選択性の逆転現象は、トリフルオロアルデヒド(4)や,-ジフルオロアルデヒド(5)を用いた際にも見られ、さらに、フッ素以外の電子求引性基を有するアルデヒド(フェニルグリオキサール6、エチルグリオキシレート7)においても観測された(表1)。予想される反応機構を、式2に示した。フッ素を含まないアルデヒドでは、ボロンエノラート8のホウ素原子とアルデヒドのカルボニル酸素が配位することにより、経路aを通り、六員環遷移状態9を経て、E1体を与えると考えられている。それに対し、フッ素を含むアルデヒドでは、フッ素原子の強い電子求引性効果により、1)カルボニル酸素上の電子密度の低下(ルイス塩基性の低下;ボロンエノラートのホウ素原子との配位能低下)および、2)LUMOのエネルギー準位の低下(カルボニルの活性化;ルイス酸による活性化が不要)により、経路bに示す非環状遷移状態(10)を経るため面選択性の逆転した付加体を与えると考えられる。

表1 N-アシルオキサゾリジノンとアルデヒドとのアルドール反応式2 Evansアルドール反応の反応機構

 同様の面選択性の逆転現象がOppolzerアルドール反応においても観測された。

 また、半経験的分子軌道法を用いた計算化学的な反応経路の考察からも、予想した反応機構を支持する結果が得られた。詳細については本文参照。

 さらに、本反応を用いて含フッ素ビタミンD2類縁体(12)を合成し、薬理活性の比較を行った(式3)。

式3 含フッ素ビタミンD2類縁体の合成
3.触媒的不斉ニトロアルドール反応

 柴崎らによって開発された希土類-リチウムーBINOL錯体(Ln-LB)は、触媒的不斉ニトロアルドール反応の優れた触媒として知られている。筆者はLnLBを,-ジフルオロアルデヒドに対するニトロアルドール反応に適用し、ジフルオロメチレン基に隣接した不斉炭素を有する光学活性化合物の触媒的不斉合成法の開発を行った。

 種々のLnLB錯体を調製し、,-ジフルオロアルデヒドに対する不斉ニトロアルドール反応における触媒能を検討したところ、サマリウムを含む触媒が最も高い不斉収率を与えることを見い出した(表2)。また、本反応におけるアルデヒドのエナンチオ面選択性は、フッ素を含まないアルデヒドにおける選択性とは逆であった。カルボニルの位に酸素原子を有するアルデヒドにおいて同様の面選択性の逆転が観測されるということが報告されていることから、本反応においてはフッ素原子が、希土類金属あるいはリチウムと相互作用することにより選択性を逆転させたものと考えられる(図2)。

表2 ,-ジフルオロアルデヒドを用いた不斉ニトロアルドール反応図2 触媒的不斉ニトロアルドール反応における面選択性

 さらに、本反応を遮断作用を有するメトプロロールフッ素誘導体(13)の合成に応用し、薬理活性の評価を行った(式4)。

式4 含フッ素メトプロロールの合成
審査要旨

 フッ素はユニークな特性を有しているため、フッ素原子を含む天然有機化合物がほとんど存在しないにもかかわらず、フロンガス、フッ素樹脂、含フッ素医薬品など多くの有機フッ素化合物が合成され使われている。特に医薬品の分野においては、フッ素の特性をいかして、数多くの含フッ素医薬品が開発され臨床応用されている。

 フッ素原子は水素原子についで小さなvan der Waals半径を有し、生理活性化合物の中の水素原子をひとつだけフッ素原子で置換しても、生体はそれを見分けることができずに、元の化合物と同じように取り込んでしまうことがある。また、C-H結合の結合解離エネルギーに比べC-F結合の結合解離エネルギーは非常に大きいため、代謝を受けやすい位置にフッ素原子を導入することによって、生理活性化合物の代謝安定性を高めることも可能である。さらに、フッ素原子はすべての元素のなかで電気陰性度が最も大きいことから、フッ素原子を導入することで化合物の電子的性質は大きく変わることが予想される。また、このような光学活性化合物が、その異性体間で薬理活性にかなりの差を示すことも少なくなく、フッ素と生理活性発現との関わりを解明する上で、光学活性含フッ素化合物の合成は重要な意味を持っている。

 ところで光学活性含フッ素化合物の一方の対掌体のみを選択的に合成する手段として、1)含フッ素キラルビルディングブロックからの変換、2)光学分割による方法、3)不斉合成による方法が考えられるが、1)に関しては、入手可能な含フッ素キラルビルディングブロックがまだ数少ないという問題点がある。2)に関しては、効率よく一方が得られたとしても、残りを再利用する手段がない限り、半分が無駄になってしまう。3)に関しては、今日までに確立されたフッ素原子を持たない化合物のための不斉合成法が、フッ素原子の特異な性質により、必ずしもそのまま適用できないことが多く、思うような不斉収率が得られなかったり、反応が全く進行しなかったり、時には選択性が逆転したりすることもある。

 大石訓司は、不斉中心に隣接してトリフルオロメチル基やジフルオロメチレン基が存在する含フッ素光学活性化合物の不斉合成法の開発を目指し検討を行った。また、本研究を通して、含フッ素化合物の反応性、とくに含フッ素化合物の不斉合成法開発の障害となっている反応の特殊性について解明することを目指した。

1.含フッ素カルボニル化合物のアルドール反応における面選択性の逆転

 ビタミンD2類縁体の側鎖部分に相当する(図1破線部)、位に不斉中心を有するビストリフルオロメチルカルビノールの構築に、ヘキサフルオロアセトン(1)を用いるEvansアルドール反応を行ったところ、予想される付加体(2)は全く得られず、面選択性の逆転した付加体(3)のみが得られることを見い出した(式1)。この面選択性の逆転現象の一般性について検討した。

図1 ビタミンD2類縁体式1 ヘキサフルオロアセトンのEvansアルドール反応

 この面選択性の逆転現象は、トリフルオロアルデヒドや,-ジフルオロアルデヒドを用いた際にも見られ、さらに、フッ素以外の電子求引性基を有するアルデヒド(フェニルグリオキサール、エチルグリオキシレート)においても観測された。予想される反応機構を、式2に示した。フッ素を含まないアルデヒドでは、ボロンエノラート4のホウ素原子とアルデヒドのカルボニル酸素が配位することにより、経路aを通り、六員環遷移状態5を経て、E1体を与えると考えられている。それに対し、フッ素を含むアルデヒドでは、フッ素原子の強い電子求引性効果により、1)カルボニル酸素上の電子密度の低下(ルイス塩基性の低下;ボロンエノラートのホウ素原子との配位能低下)および、2)LUMOのエネルギー準位の低下(カルボニルの活性化;ルイス酸による活性化が不要)により、経路bに示す非環状遷移状態6を経るため面選択性の逆転した付加体を与えると考えられる。

式2 Evansアルドール反応の反応機構

 同様の面選択性の逆転現象がOppolzerアルドール反応においても観測された。

 また、半経験的分子軌道法を用いた計算化学的な反応経路の考察からも、予想した反応機構を支持する結果が得た。さらに、本反応を用いて含フッ素ビタミンD2類縁体8を合成し、薬理活性の比較を行った。

式3 含フッ素ビタミンD2類縁体の合成
2.触媒的不斉ニトロアルドール反応

 柴崎らによって開発された希土類-リチウム-BINOL錯体(Ln-LB)は、触媒的不斉ニトロアルドール反応の優れた触媒として知られている。大石訓司はLnLBを,-ジフルオロアルデヒドに対するニトロアルドール反応に適用し、ジフルオロメチレン基に隣接した不斉炭素を有する光学活性化合物の触媒的不斉合成法の開発を行った。

 種々のLnLB錯体を調製し、,-ジフルオロアルデヒドに対する不斉ニトロアルドール反応における触媒能を検討したところ、サマリウムを含む触媒が最も高い不斉収率を与えることを見い出した(表1)。また、本反応におけるアルデヒドのエナンチオ面選択性は、フッ素を含まないアルデヒドにおける選択性とは逆であった。カルボニルの位に酸素原子を有するアルデヒドにおいて同様の面選択性の逆転が観測されるということが報告されていることから、本反応においてはフッ素原子が、希土類金属あるいはリチウムと相互作用することにより選択性を逆転させたものと考えられる。

表1 ,-ジフルオロアルデヒドを用いた不斉ニトロアルドール反応

 さらに、本反応を遮断作用を有するメトプロロールフッ素誘導体9の合成に応用し、薬理活性の評価を行った。

式4 含フッ素メトプロロールの合成

 以上、大石訓司の研究業績は、今後医薬合成上多大な貢献をすることが期待され、博士(薬学)に相当すると判断した。

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