生体物質の質量分析法において、大気圧イオン化法は液体クロマトグラフフィ(Liquid Chromatography:LC)やキャピラリー電気泳動(Capillary Electrophoresis:CE)といった液相での分離手段と質量分析法(Mass Spectrometry:MS)とを結ぶインタフェースとして広く用いられている。しかしながら、イオン源に導入できる溶液流量が限られLCとの直結が困難であったり、CEの分離溶媒に加えられる塩がイオン化を阻害するためミセル動電クロマトグラフィ(Micellar Electrokinetic Chromatography:MEKC)などの優れた分離モードを使用できないなど、現状では様々な課題が残されていた。 本研究はこれらの課題を根本的に解決するために行われたものであり、主としてLC/MS及びCE/MSの為の高性能インタフェース(イオン源、差動排気部、イオン光学系)の研究開発を行った。 第2章は、大気圧イオン化法を用いた新型高性能インタフェースの研究に関するものである。 (1)高流量に対応した静電噴霧イオン化インタフェース 静電噴霧イオン化法(Electrospray Ionization:ESI)で使用できる溶液の流量は数十L/minに限られ、LCの流量(200-1000L/min)に比べて低いため、LCとの直結が困難だった。そこで、噴霧で生成された液滴の粒径分布を計測・検討し、イオン生成効率が高い微小な液滴が多く存在する領域を取り込めるようイオン源を考案した。さらに、加熱した長い取り込み細孔を用い、液滴の気化効率を向上させた。これにより、200L/minの流量でも安定したイオン化を可能とし、実用的なESIインタフェースを初めて実現した。 (2)二重円筒型静電イオンガイド 真空中での高効率イオン輸送を目的に、二重円筒型の静電イオンガイドを開発した。 従来の静電場を用いた輸送方法ではイオン透過率は数%にすぎなかったが、本研究では98%という非常に高い透過率を実現した。イオン取り込み細孔から離れた位置に質量分析計を配置し、バックグラウンドの主因である液滴を拡散させて除去する事が可能となり、信号対雑音比が約7倍向上した。 (3)イオントラップ質量分析法のためのAPCIインタフェース 次世代の主力として期待されているイオントラップ質量分析計との結合を前提に、大気圧化学イオン化(Atmospheric Pressure Chemical Ionization:APCI)インタフェースの高感度化について研究した。差動排気部の圧力を制御し、クラスタリングが起こる断熱膨張領域を圧縮する方法や、上述のイオンガイドを更に発展させ、イオン軌道を偏向させて液滴の軌道と分離する方法などを新たに開発した。質量スペクトルを取得するモードにおいて、LC/MSでは世界最高であるpgレベルの検出感度を達成した。 第3章は、CE/MSと新しい応用展開に関する研究に関するものである。 (1)APCIを用いたCE/MSインタフェースの開発 殆どのCE/MSではESIが用いられているが、溶液中に共存する夾雑イオンにより試料のイオン化が阻害されるため、高濃度の塩を含む緩衝溶液は使用できなかった。そこで、APCIを用いた新しいCE/MSインタフェースを開発し、本手法が塩の影響を受けにくい事を実証した。CEでもっとも良く用いられるリン酸緩衝溶液をMSの分野で初めて使用可能としたほか、高濃度の界面活性剤を添加するMEKCとMSとの直結をも実現した。 (2)ペプチドマッピングによる蛋白質の同定 CE/MSによる蛋白質のアミノ酸変異の解析を研究した。蛋白質やペプチドのCE/MS分析は数例報告されているが、試料の吸着により再現性が悪化するため、変異を識別するには至らなかった。そこで、イオン化への影響を考慮しつつ吸着を防止する方法を見出し、実用分析に適した簡便かつ再現性の良い方法を確立した。ペプチドマップの比較から、種の違いに起因する蛋白質のアミノ酸変異を明確に示すことに成功した。 (3)CE/MSによる脳内物質の分析 脳科学分野におけるCE/MSの可能性を、特に感度面から研究した。アミノ酸の検出下限は約1pgであり、脳内で重要な働きを担うアミノ酸類を誘導体化せずに分析できる事が分かった。微小透析法(Microdialysis:MD)とCE/MSとの結合を初めて試み、生きたラットの脳から採取した試料から神経伝達物質の一種である-アミノ酪酸の検出に成功した。極微量分析が可能なMD-CE/MSは、組織に与える損傷が比較的少なく、かつ非常に高い選択性を有するため、脳関連の分析において有力な手段となるものと考えられる。 第4章は、結論及び本研究の総括である。すなわち、本研究で得られた結果はLC/MSやCE/MSの基本性能を飛躍的に向上させるものであり、生命科学や環境などの分野で今後広く利用されるものと期待される。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |