学位論文要旨



No 213825
著者(漢字) 松本,啓史
著者(英字)
著者(カナ) マツモト,ケイジ
標題(和) 量子推定理論の幾何学的方法
標題(洋) A Geometrical Approach to Quantum Estimation Theory
報告番号 213825
報告番号 乙13825
学位授与日 1998.04.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(数理科学)
学位記番号 第13825号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 時弘,哲治
 東京大学 教授 薩摩,順吉
 東京大学 教授 楠岡,成雄
 東京大学 助教授 矢野,公一
 東京大学 助教授 吉田,朋広
 統計数理研究所 教授 江口,真透
内容要旨

 本論文では,量子推定理論における,次の3つの側面における議論を展開した.第一はthe attainable Cramer-Rao type boundの計算,第二は量子推定理論の幾何学的理論の構築,第三は量子力学における基礎的な問題に,量子推定理論的な考察を加えることである.

 まず,the attainable Cramer-Rao type boundの計算について述べる.与えられた量子的な系を記述する密度行列を推定しようとする場合,どのような測定やデータ処理を施しても,その効率はある理論的限界を越えられないことを示すことができる.その理論的限界は,確率分布の推定理論におけるCramer-Rao boundにちなんで,the attainable Cramer-Rao type boundとよばれ,このboundを求めることは量子推定理論における重要な,そして困難な課題である.実際このboundは従来,系やGaussian model,2-parameter coherent modelなどといった極めて特定のモデルにおいて求められていたに過ぎなかった.

 本論文は,完全な解決にはまだまだ程遠いものの,かなり一般的なカテゴリーのケースにおいてこの問題を解決した.具体的には,パラメータ数が任意のcoherent modelにおいてはthe attainable Cramer-Rao type boundを求め,また,2-parameter pure state modelにおいては,局所不偏推定量の分散行列全体がなす集合をもとめた.また,任意のpure state modelにおいて,SLD Fisher information matrixを重み行列とするthe attainable Cramer-Rao type boundが求まった.

 特に,これらの結果はdirect approachという本論文ではじめて提案される系統的な方法を適用することで得られた点をここに強調する.

 次に幾何学的理論の構築について述べる.まず,the attainable Cramer-Rao type boundは,量子統計モデルの幾何学的な性質,すなわちUhlmann接続の曲率を反映しているらしいことを,boundが具体的に求まっている場合において確認することができた.Uhlmann接続とは物性理論などで有名なBerry’s Phaseを一般の混合状態にまで拡張したもので,密度行列のランクをrとすると,密度演行列全体を底空間,r次元ユニタリ群を構造群にもつ,主ファイバー束に導入された接続である.

 このUhlmann curvatureが大きいほどboundのなかの,異なるパラメータ間の非可換性による効果の部分が大きくなることが,2-parameter pure state modelにおいて確かめられた.また,SLD Fisher information matrixを重み行列とするthe attainable Cramer-Rao type boundにおいたも同様の傾向が現れた.さらに,curvature freeの時,boundに対する非可換性の影響は表れないことが,一般のpure state modelおよびfaithful modelで確かめられた.したがって,このUhlmann接続は推定理論の幾何学で重要な役割を果たすと思われる.

 推定理論の幾何学といえば,甘利及びその共同研究者が建設した情報幾何学がある.この理論はまず,確率分布の推定論や検定論の高次漸近理論に於いて威力を発揮し,1989年,甘利の共同研究者の長岡によって量子推定理論にまで拡張された.彼の幾何学は密度行列の空間の接ベクトル束に導入された,tortionをもつ双対接続である.

 本論文では,この量子情報幾何とUhlmann接続とがw-接続という概念を媒介にして,両者が密接に関係していることを示した.w-connectionは,上記の主ファイバー束の全空間の上の接ベクトル束上の極めて自然な接続であり,長岡の情報幾何のe-接続はw-接続のある種の射影と見倣すことができる.すなわち,底空間の接ベクトルを水平持ち上げし,そこでw-接続に基づく並行移動をし,しかるのちに低空間の接ベクトル射影をすると,e-接続による並行移動と一致する.同じ様にe-接続のtoritionはw-接続を射影したと見倣すことができるが,この時の残差がUhlmann curvatureを与える.

 上述のthe attainable Cramer-Rao type bound及び幾何学理論における仕事の副産物として,従来の量子推定理論の研究者の漠然とした思い込みを修正する二つの結果をえた.第一は,direct approachの基礎付けの副産物として,Hilbert空間がモデルのパラメータ数に比して十分高い次元をもつならば,the attainable Cramer-Rao type bound単純測定,すなわちprojedtion valuedな測定によって達成されることを示した.従来,複数のパラメータをもつモデルでは,量子力学的な非可換性からprojedtion valuedでない測定が不可欠であると思われていたのである.

 第二に,量子推定理論の研究者全体の次のような思い込みに対する反例を与える.すなわち,従来,SLDといわれる一種のパラメータのジェネレーターの可換性と,SLD Cramer-Rao boundの達成可能性は同値であると思われてきた.なぜなら,SLD Cramer-Rao boundは確率分布の推定論におけるCramer-Rao boundの素直な拡張であり,局所不偏推定量の分散に,行列不等式の意味で達成可能な下限が存在するとすれば(一般的には存在しない),このSLD Cramer-Rao boundしかありえないからである.古典=可換というアナロジーもあってか,このconjectureは無意識のうちにこの分野の研究者の共通認識となっていた.本論文では,第13章1節で,可換なSLDは存在しないがSLD CR boundが達成可能である例を構成する.

 最後に,量子力学の基礎的な問題への応用について述べる.第一に,位置・運動量の不確定性関係を,位置及び運動量の期待値の推定と考えた時,常識とはかけはなれた結果を得た.すなわち,位置演算子および運動量演算子の分散が大きければ大きいほど,期待値の推定は正確にできるのである.したがって,いわゆる最小不確定状態はこの観点からみると最大不確定であり,また,理論的に最適な推定量の分散は状態をうまくとればいくらでも小さくなり,プランク定数による下限は存在しない.具体的には,状態は調和振動子の固有状態で,非常にエネルギーの高いものをとってくればよい.

 第二に,時間・エネルギーの不確定性の,論理的に整合性と明解な物理的な意味を兼ね備えた定式化を試みた.すなわち,系の状態が初期状態と判別がつかないようなtime interval tを時間の不確定性とみなし,検定論の立場からこれを求め,それが系のハミルトニアンの分散に反比例することを示した.

 第三に,熱平衡状態にある系について,系と熱浴のあいだの量子的相関の自然な特徴付けを推定論の立場から行なった.まず,温度を密度行列に入っているパラメータとみなす.また,熱平衡分布はある純粋状態の熱浴部分のpartial traceをとって得られるとする.この時,熱平衡分布においては,系に関する測定,熱浴に関する測定,熱浴と系をあわせた全系に対する測定のうちどれを用いても,温度パラメータの推定の効率は同じである.逆にこの条件がなりたつなら,モデルのパラメータは密度行列の固有値のみに入り,モデルに属する全ての密度行列は共通の固有ベクトルを持つことを示した.

審査要旨

 松本啓史の論文「A Geometrical Approach in Quantum Estimation Theory」では,量子推定理論における,次の2つの側面における議論が展開されている.第一はattainable Cramer-Rao type boundの計算,第二はいわゆる「情報幾何学」の量子版の提案である.

 まず, attainable Cramer-Rao type boundの計算について述べる.与えられた量子的な系を記述する密度行列を推定しようとする場合,どのような測定やデータ処理を施しても,その精度には理論的限界があり,その限界は確率分布の推定理論におけるCramer-Rao boundにちなんで,attainable Cramer-Rao type boundとよばれる.これを求めることは量子推定理論における重要な課題であるが,Positive operator valued measureについての最適化問題を解かなければならないために非常に困難であり,実際このboundは従来,spin-1/2系やGaussian model,2-parameter coherent modelといった極めて特定のモデルにおいて求められていたに過ぎなかった.

 松本啓史はこの論文で,あるケースにおいてはpositive operator valued measureについての最適化問題が,有限次元複素ベクトルの有限個の組についての最適化に帰着できることを示し,この結果を応用して以下のような非常に一般的なクラスのモデルについての解を得ている:

 1)パラメータ数が任意のcoherent model.

 2)2-parameter pure state model.

 3)pure state modelでSLD Fisher information matrixを重み行列とする場合.

 従来,boundの計算には次のような手法が用いられてきた.すなわち,boundを下から押える量を一つみつけ,それが問題にしているモデルにおいては達成可能であることを,推定方法の具体的な構成によって証明するのである.この方法では,個々のモデルに対して個別なアプローチをとらなければならない.それに対し松本は,positive operator valued measureについての最適化問題を(pure state modelで)より扱い易い問題に帰着させることにより,(1)〜(3)の結果を得ている.したがって,松本のこの仕事は,得られた結果の広さだけではなく,pure state modelのattainable Cramer-Rao type boundの今後の研究の土台となり得る点でも評価される.

 次に,この論文の幾何学的側面について述べる.松本は本論文で,上記の(1)〜(3)の結果からattainable Cramer-Rao type boundの大小は,量子統計モデルの幾何学的な性質,すなわちUhlmann接続の曲率を反映しているいう予想を立てている.Uhlmann接続とは物性理論などで有名なBerry’s Phaseを一般の混合状態にまで拡張したもので,密度行列のランクをrとすると,密度演行列全体を底空間,r次元ユニタリ群を構造群にもつ,主ファイバー束に導入された接続である.

 推定理論の幾何学といえば,甘利及びその共同研究者が建設した情報幾何学がある.この理論はまず,確率分布の推定や検定の高次漸近理論に於いて威力を発揮した.1989年,甘利の共同研究者の長岡が密度行列の空間の接ベクトル束に双対接続を導入し,これを用いて量子推定理論での有効推定量の存在を特徴付けている.

 本論文では,この量子情報幾何とUhlmann接続とがw-接続という概念を媒介にして密接に関係していることが示されている.w-接続は,上記の主ファイバー束の全空間の上の接ベクトル束上に定義された自然な接続であり,長岡の情報幾何のe-接続はw-接続の射影と見倣すことができる.すなわち,底空間の接ベクトルを水平持ち上げし,そこでw-接続に基づく平行移動をし,しかるのちに底空間の接ベクトル束に射影をすると,e-接続による平行移動と一致する.同じ様にe-接続のtorsionはw-接続のtorsionを射影して得られ,この時の残差がUhlmann curvatureを与える.

 この仕事を情報幾何学の量子化と捉えると,以下のような意義をもつ.すなわち,双対接続は,divergenceといわれる擬距離関数が導入されるとき,そのdivergenceを軸とした豊富な構造をもつ.ところが,長岡の定義した接続はtorsionを持つため,divergenceが導入できない.そこで,量子情報幾何が幾何学として豊かであるためには,torsionとからんだなんらかの幾何構造が導入される必要がある.松本の上記の議論は,このような方向の最初の一歩であると考えられる.また,微分幾何においてtorsionを正面から扱った研究はあまりないので,その観点からも興味深い.

 このように松本のこの論文は,attainable Cramer-Rao type boundの計算においては有用な補助定理および極めて広いケースにおいての解を与え,情報幾何学の量子化としては,divergenceに代わる新しい幾何構造の導入への糸口を与えている.attainable Cramer-Rao type boundを求めることは非常に重要かつ困難な問題で,それに大きな進歩をもたらした松本の仕事は高く評価される.加えて,情報幾何への新しい幾何構造の導入は野心的な試みであり,同じく高く評価される.

 よって本論文提出者である松本啓史は博士(数理科学)の学位を授与されるに十分な資格があるものと認める.

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