内容要旨 | | 日本がどのような国家を構築しようとしたかという問題は,日本古代史を理解する糸口の一つである。律令国家を運営する主体は「天皇」(=天皇・太上天皇と令制中宮)と官僚機構であり,官僚機構がどのようなシステムの下に編成されているかということを具体的に検証することにより,律令国家の具体像が多面的に理解できるものと思う。 第I論文「律令官制の内部構造-八省体制の成立-」では,現在ではほぼ尽くされた感のある官僚機構もしくは個々の官司に関する研究に新たな展開をもたらすため,それぞれの官が有する位(くらい)に注目した。官の位の本質は,その官に付与された職務権限の大きさの指標であり,律令国家の官制システムは,政治的判断を行う「議政官」と称された三位以上官の下に,四位官たる八省卿が様々な政務を総括し,五位官がこれを補佐して,六位官と七位以下官が各官司の実務を遂行するものであり,職・寮・司という被管官司の規模の格差は,各官司に付与された職掌の重要度に対応していた。 また,大化改新から平安時代までを大きく官制の発展過程ととらえて,大化の段階で律令官制の基本構造がすでにある程度成立しており,職掌内容の充実がはかられていく中で八省体制が成立し,その一方,大化前代の職掌を引き継ぐかたちで次々に成立した原初的官司は,前代の性格を一部に残しながらも,令制官司としての条件を整備していき,官僚機構の中で重要な地位を獲得した官司が職・寮となったことを明らかにした。 以上のごとき基本的な内部構造に対して,律令官制には例外的に,特異な構造を有する官司があったり,また,四等官には組織されない品官が見られ,さらに品官が被管とは異なる別局構造を取る場合もあった。第II論文「神祇少副について」では,神祇官が中宮職と同じ官制構造を取りながらも,正六位上官として少副を置いた例外的事実に注目した。神祇官が祭官から神官を経て,広く国家祭祀を掌る官司になる中で,前代からの太陽神祭祀をも管掌するために,祭主に就く中臣氏のために少副が置かれたのである。 第VI論文「内薬侍医について」では,内薬侍医が所属する内薬司もしくは典薬寮に干渉されることなく職務を遂行しており,そのような自由な職務遂行を保証する地位こそが品官であったことを指摘した。また,平安時代に行われた官司の統廃合は,奈良時代に充実した官制システムのさらなる発展的政策であったこと,官司間の関係は所管・被管関係だけでなく様々な関係が随事設定されていたことを併せて明らかにした。 第V論文「監物小考」では,監物が典鑰・主鑰と相互監視的な関係を保ちつつ天皇=国家が保有する調庸物の出納業務に重要な役割を果たしたこと,そのような重要な職掌を担う監物に権力が集中し国家機構の権力バランスが偏重をきたす危険性を回避するために,監物は中務省の品官・別局として配置されたことを明らかにした。 官制の発展過程という側面では,第III論文「知太政官事一考」において,国家は大臣になりうるような高級官僚の養成に力を入れながらも拙速な人材養成は避け,大臣職代行の機能を親王・孫王に期待して知太政官事を創設し,新大臣の任命後は太政官の一員として機能する柔軟性を付与して円滑な国家運営を実現したことを明らかにした。 また第IV論文「草創期の内覧について」では,内覧は天皇への奏上を独占する役職・権限で,摂政・関白は内覧の権限を強化して成立した役職であり,これらはあくまでも官僚の突出した一形態であって,このようにほとんど官僚機構だけで実質的に国家運営が行えるようになった状況は,官僚機構の発展過程の最終形態であることを指摘した。 一方,地方に目を転ずると,大宰府の特異な位置づけが注目される。第VII論文「鎮西府について」では,鎮西府の置廃を糸口に,大宰府は外交・軍事を掌った筑紫大宰を継承すると同時に,筑紫嶋(=九州島)の民政を掌った筑紫総領の性格をも併せ持ったこと,大宰府が筑前国を管したことは筑紫大宰の経済的基盤に由来するもので,摂津職・和泉監・河内職および鋳銭使と同じく一国の全調庸物を経済的基盤として消費するシステムであったこと,さらに,このような独自の経済的基盤を放棄し,西海道諸国の調庸貢納の上に存立する体制を取った時,はじめて大宰府が「遠の朝廷」(=小中央政府)たりえたことを明らかにした。 第VIII論文「仗小考」では,従来の通説的理解に疑問を挟むことから,仗は軍政面をも担当することが期待された一種の員外史生であり,その性格づけには補任手続きにおける天皇の役割が極めて大きかったことを明らかにした。 第IX論文「内侍考-宣伝機能をめぐって-」では,女性官僚の代表例として内侍を取り上げた。国家官僚機構は男性官僚と女性官僚とが共同して運営したが,従来の研究は男性官僚機構のみに限定されがちで,何ら根拠もなく女性官僚の役割を軽視していたのは,女性官僚に関する理解が不十分だったことに起因する。そこで,詔勅発給過程で内侍と男性官僚とがどのように機能していたかを具体的に検証し,次のような結論を得た。 内記は中務省の監督下にはなく,内侍〔掌宣伝〕の指示を受けて詔勅を起草し,(詔書の場合は御画日を得た上で)それを中務省に伝えた。中務省〔掌宣旨〕は,天皇の意思を国家意思に昇華させる機能を果たし,起草案を写して太政官に送った(第1次施行)。太政官はそれをさらに写して諸司・諸国に施行した(第2次施行)が,詔書の場合は,大納言〔掌宣旨〕が宣命の場を設定し全官人に天皇の意思を宣告した。 国家官僚機構は有機的結合を強化すべく,太政官に権力集中をはかる傾向にあり,中務省は大宝令で底(省の留案)と宣(太政官送付案)を作成したが,養老令では底作成が省かれた。また,天皇と男性官僚機構とが直接結びつくシステムに変更される中で,内侍の機能も蔵人に取って代わられ,内侍の役割は極めて縮小したものとなった。 第X論文「勅符小考」では,勅符も内記が起草し,起草案を受けた太政官(正確には弁官)が施行案を作成したこと,大宝令施行後に詔勅に内印が押捺されるシステムに変更になり,少納言によって(太政官の不干渉下に)起草案が押印されることにより,この手続きが天皇の意思を国家意思に昇華させる機能を果たすにいたったことを明らかにした。 以上,律令国家の建設に際してはかなり明確なイメージがあり,官僚機構もそれに則したものが構想された。そこでは,システムの根本は先進の中国に学び,極めて合理的かつ組織的な官制が構築された一方で,前代から引き継いだ日本独自の制度も多く盛り込まれていた。これを前代の遺制を払拭できなかったとマイナス評価するのは正しくなく,律令国家が先進的なシステムと日本独自のシステムとを融合させたことこそ高く評価すべきで,奈良・平安時代を通じてしばしば行われたシステムの変更も,漸次生じた不都合に対処するものではなく,継続した発展過程における段階的発展であったと理解すべきである。 |