本論文は、日本古代史料を素材として、日本史研究あるいは歴史学の基礎的方法分野としての史料学の新たな理論体系を、歴史情報理論の視点から構築するものである。 初めに、正倉院文書や売券・免除領田文書などの古文書、及び律令や続日本紀などの典籍、すなわち歴史資料の内でも主として史料についての、自らの史料調査研究の経験から帰納した史料学の体系を提示する。 本論文で提示する史料学は、史料体論、歴史的情報過程論、歴史情報伝達行動論、歴史情報テキスト構造論の諸分野から構成される。 第一は、史料体論である。従来使用してきた史料の語は、主として、歴史情報の核心としての文字で書かれたメッセージ(伝達のために書記された言語情報)に注目した表現である。これに対して、歴史情報を積載・定着させた物体としての史料の性格に注目して、史料体という概念を提示する。 1. 史料体は、メッセージ・搬送体・様態の三要素からなる構造体である。メッセージは伝達される情報で、文字・図像からなる。メッセージには、史料体が形成された後に一定の時間を経過してから付加された付加メッセージがある。搬送体は、メッセージが積載・定着させられている物体及び積載・定着させる物質(墨・顔料)あるいは方法(線刻・角筆など)を要素とする。様態は、メッセージ・付加メッセージが搬送体に積載・定着されている状態である。メッセージが文字列、搬送体の素材が長方形の紙で、メッセージ定着媒体が墨の場合の史料体は、一般に紙本墨書と称され、日本史史料の基本型となっている。なお、史料体は、いわゆる文書・典籍の原本も写本も包括する概念であり、より広義には歴史情報体とも称することができる。 2. 史料体は、標準的形態において搬送体の平面形状を基盤とする幾何的構造を有する。この搬送体の平面は、典型的には、定形的形状を呈する料紙の貼り継ぎや重ねにより構成される。この平面の上に文字列が言語の線条性と分節構造にしたがい配列される。史料体の幾何的構造と文字列の規則的配列により、断片化したり一部が欠失した史料から、その原形を復原することができる。その事例として、大宝令の注釈書の唐招提寺所蔵古本令私記、紅葉山文庫本令義解巻十巻頭関市令第一条の復原を分析した。 3. 史料体は、メッセージの追加、あるいは史料体からの史料体の派生により、歴史情報を多層的時間層として包含する。このような史料体の構造を時系列的重層構造と称する。共時的構造体としての史料体は、実は時系列的重層構造を有する構成的構造体にほかならない。このような事例として、蓬左文庫所蔵の金沢文庫旧蔵続日本紀をあげることができる。金沢文庫本続日本紀は、13世紀書写の写本であるが、尾張の徳川義直の修史事業の資料として、17世紀前半期に角倉素庵により校訂の筆が加えられている。 第二は、歴史的情報過程論である。 1. 歴史的情報過程とは、歴史事象から情報が生成され、情報が歴史情報として定着して史料体(一般化すれば歴史情報体)等の形態で伝存され現在に至り利用される過程である。 2. 歴史的情報過程とは、史料体が一般に有する時系列的重層構造を媒介として、不可逆的時間進行のもとに生成・蓄積されてきた歴史情報を、時間逆行的に遡行することにより歴史事象に接近することが可能になる過程でもある。 第三は、歴史情報伝達行動論である。 1. 歴史事象からの歴史情報の生成過程と、歴史情報の伝存過程(二次的生成・派生過程)の連続的過程として歴史情報生成をとらえる。歴史情報生成は、一般的に、情報発信者から情報受信者への情報の伝達として現象する。このような、歴史的情報過程における歴史情報生成の基本行動を歴史情報伝達行動とする。 2. 歴史情報伝達行動は、史料体を核心的要素とし、それを作成する発信者と、それを受取る受信者、史料体が関説する歴史状況、史料体のメッセージの言語規則、史料体授受のための発信者と受信者の接触等の基本要素から構成される。 3. 歴史情報伝達行動においては、史料体上の言語情報の伝達だけが行われるのではなく、多くの場合、財貨・人間・労役の移動が随伴し、あるいはそれらの移動のために歴史情報伝達行動が生起される。このような、歴史的な場における主体間の意志、財貨・人間・労役の交換こそ、政治的・経済的・社会的諸関係にほかならない。 4. 意志、財貨・人間・労役の交換・移動を随伴する史料体の事例として、正倉院文書の布施申請解案(写経所の給与支給申請文書)、月借銭解(写経所による高利貸し経営の史料)を分析した。それにより、史料体としての文書は、発信者機構内における生成から受信者機構による処理、処理結果としての返送・転送などにより、連続的交互的に生起する複合的歴史情報伝達行動において多回数の移動、多主体間の移動を行うこと、文書は移動による機能付加により複合情報体となることを明らかにした。 第四は、歴史情報テキスト構造論である。 1. 歴史情報伝達行動において情報発信者から情報受信者へ伝達される核心的要素としての史料体上の言語情報を分析することにより、意志、財貨・人間・労役の交換の分析が可能となる。このような史料体のメッセージの有する構造が歴史情報テキスト構造である。歴史情報テキスト構造論は、歴史情報伝達行動において移動する史料体が搭載する言語情報のテキスト構造の諸類型を通じて、歴史的な言語情報に変容し固化した歴史事象の原形を探るための分析方法である。 2. 歴史情報テキスト構造には、大別して、生成過程状態のテキスト構造と、生成終了状態のテキスト構造とがある。 3. 生成過程状態のテキスト構造には、必須構成要素が段階的に付加されていく追記構造と、テキスト生成過程でテキストが派生する派生構造とがある。追記構造の事例として、売券の元慶3年(879)矢田郷長解と免除領田文書の長和2年(1013)弘福寺牒を分析し、文書を構成する事象の遷移過程として文書の生成過程を分析できること、すなわち文書は事象の集合として構成されていることを明らかにした。テキスト派生構造としては、公式令に定める詔の作成・施行過程を事例として分析した。 4. 生成終了状態のテキスト構造には、並列構造と包含構造がある。並列構造には、法による現実社会の編成過程を明示する令のような社会編成テキストがある。包含構造には、典拠を明示するために過去の法令等を入れ子構造で包摂する太政官符などがある。 5.搬送体上に配列されるメッセージのこのような表層的構造は、例えば売券・詔のように固有の特殊テキスト構造として類型化される。これらの多様で具体的な特殊テキスト構造が、どのような分野の政治的・経済的・社会的諸関係の表現様式として機能しているのかを分析することにより、テキスト構造を媒介にして実体的諸関係に接近することができる。 このように、歴史現象から生成された歴史情報を、歴史情報伝達行動における史料体あるいは歴史情報体という構成的構造体として認識することにより、歴史情報から歴史現象に遡及するための史料学の方法を構築していくことが可能になる。 本論文の後半においては、史料学体系の前提となる史料の基本構造の検出を行う。 第一には、史料体の線条構造の検出を、天平10年(738)駿河国正税帳(正倉院文書)を事例として行う。ここでは、古代公文書の多くが縦1尺弱、横2尺弱の定形的形状の料紙に、一紙毎に一定の行数で記載されることに着目した「料紙の使用法に基づく古代公文書の復原方法」の手法を用いて、半ばが欠失し17の断簡が残る駿河国正税帳の全体構成を復原する。断簡の長さと残存行数の計測から完形料紙長と料紙毎の行数を推計して正税帳全体の料紙構成を復原し、正税帳という会計帳簿におけるメッセージの線条性と分節構造の分析により、現存断簡をその復原料紙構成の中に定位した。さらに、搬送体自体が、行・料紙の集合として線条性と分節構造、及び時系列的重層構造を有することを明らかにした。 第二に、史料体の時系列的重層構造の検出を、紅葉山文庫本令義解・律を素材にして行う。紅葉山文庫本令義解・律は、13世紀に北条実時が清原教隆等から伝授された金沢文庫本を、16世紀末または17世紀前半期に書写した写本である。紅葉山文庫本令義解・律には、令宗氏・小野氏・中原氏・坂上氏等による10〜13世紀の明法道における令義解・律の伝授・研究の過程が訓点・書入れとして転写されて保存されている。写本への書入れによるメッセージの重層化とその転写による平面化の反復的過程を、時間に逆行して分層して行くことにより史料の原形に遡及することが可能となる。また、紅葉山文庫本令義解・律の写本としての性格を解明するために、金沢文庫本令集解についての従来の誤解を指摘して金沢文庫には二つの令集解写本があったことを指摘し、さらに近世における二種類の金沢文庫本令集解及び金沢文庫本令義解・律の転写本の展開について明らかにした。 |