学位論文要旨



No 213870
著者(漢字) 平野,元久
著者(英字)
著者(カナ) ヒラノ,モトヒサ
標題(和) 摩擦の原子論に関する研究
標題(洋) Study on Atomistic Friction
報告番号 213870
報告番号 乙13870
学位授与日 1998.05.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13870号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 長谷川,修司
 東京大学 助教授 藤森,淳
 東京大学 教授 福山,秀敏
 東京大学 助教授 小森,文夫
 東京大学 助教授 河野,公俊
内容要旨

 固体の表面同士が接触してすべると摩擦が現れる。摩擦力は、固体のすべり運動の抵抗力として発生する。古くから、摩擦発生の起源を説明しようとして多くの研究がなされいくつかのモデルが提案されてきた。最初のモデルでは、二つの表面がすべるときに表面の凸凹同士が引っ掛かり、系の重力位置エネルギーの変化から摩擦が発生すると考えられた。しかし、このモデルでは重力は保存力のためエネルギ散逸を説明できなかった。もう一つのモデルでは、二つの表面がすべるときに表面間の原子間相互作用によって表面の接触部が凝着し、その凝着部をせん断するのに必要な力が摩擦力と考えられた。このモデルでは、観測される摩擦力の大小を現象論の立場から説明することに主眼が置かれ、摩擦の存在は予め仮定された。従来から摩擦発生の原子論的起源の解明が切望されてきた。

 一方、最近になって摩擦研究は一新されつつある。従来、摩擦の多要因を明確化した理想系の構成は実験技術上困難であったが、近年の走査型トンネル顕微鏡(Scanning Tunneling Microscopy)や原子間力顕微鏡(Atomic Force Microscopy)などの測定技術や表面の制御技術の進展によって、モデルと実験との直接対比が可能となった。最新の測定技術によれば、原子スケール分解能で摩擦力を測定することも可能となっている。応用上でも、摩擦はミクロンサイズの微小機械であるマイクロマシンなどの将来技術にとって克服すべき重要課題である。

 本論文は、摩擦発生の原子論的機構を実験、理論の両面から明らかにする。

 本論文は、以下のように構成されている。

 第一章は本論文の序論であり、本研究の背景、目的、概要を述べる。

 第二章では、清浄表面の摩擦と接触面の格子整合性との関係を実験的に明らかにし、先に提案した摩擦発生の理論の妥当性を示す。白雲母のへき開面同士の摩擦力測定によって、理論予測と一致する摩擦力の接触面の格子整合性に対する異方性を観測する。すなわち、接触面に格子ミスフィットが存在して、表面同士が格子不整合の条件で互いにすべるときに摩擦力は減少し、逆に接触面に格子ミスフィットが存在しないで表面同士が格子整合の条件で互いにすべるときに摩擦力は増大する。

 第三章では、原子レベルの清浄表面を用いて、第二章で調べた摩擦と接触面の格子整合性との関係をより厳密に測定し、摩擦の格子整合性に対する異方性を観測する。実験では,タングステンの針先の(011)面とシリコンの(001)面の、表面清浄度、弾性接触、および格子整合性を超高真空下で厳密に特定し、摩擦力を高精度に測定する。表面間の弾性接触を保証し接触面で塑性変形が起こらないように、走査型トンネル顕微鏡を用いて表面間のトンネルギャップを制御する。測定により、理論予測と一致する摩擦力の格子整合性に対する異方性を示す。すなわち、接触面に格子ミスフィットが存在しないで表面同士が格子整合の条件で互いにすべるときに理論値と同等の摩擦力:8×10-8Nが現れ、一方、接触面に格子ミスフィットが存在して、表面同士が格子不整合の条件で互いにすべるときに摩擦は測定分解能:3×10-9N以下になる。

 第四章では、清浄表面の原子論モデルに基づいて、摩擦と超潤滑の発生機構を理論的に明らかにする。原子論モデルの解析によって二つの摩擦発生の機構を示す。一つの機構はアトミスティック・ロッキング、もう一つはダイナミック・ロッキングである。アトミスティック・ロッキングは、固体同士がすべるとき、任意の強さの原子間相互作用に対して、接触面の原子配列が連続的に変化するときに生ずる。これに対し、ダイナミック・ロッキングは、原子間相互作用がある臨界値を越え、接触面の原子配列が非連続的に変化するときに生ずる。ダイナミック・ロッキング発生の条件式を導き、その条件式を金属結合が作用する現実系で調べ、ダイナミック・ロッキングは現実系で生じないことを結論する。さらに、ダイナミック・ロッキングが発生しない条件下で清浄表面の接触を実現すれば、摩擦ゼロとなる超潤滑が現れることを示す。

 第五章では、動摩擦におけるエネルギ散逸の機構を理論的に明らかにする。動摩擦の問題では、一定のすべり速度を保つために固体に与える外力に釣り合う抗力の発生機構を議論する。具体的には、外力の作用下で、ある初期すべり速度で固体を押した後すべり速度が減少する理由、すなわち、重心の運動エネルギーが内部運動エネルギーに転化される散逸の起源を問題とする。二つの異なる発生機構が一次元FK(Frenkel-Kontorova)モデルの解析に基づいて結論される。一つの発生機構は弱い凝着領域で現れ、すべりの運動エネルギーは固体内の原子の集団的内部運動(格子振動)に散逸する。このとき、少数原子摩擦系では、内部運動とすべりの重心運動との間でエネルギーが規則正しく往来する再帰現象が起こる。この結果、動摩擦は再帰時間で平均化するとゼロになる。しかし、再帰時間は系の原子数が増加すると増大し、十分多くの原子からなる系では観測時間内で再帰現象は起こらず動摩擦が発生する。もう一つの発生機構は強い凝着領域で現れ、この場合には固体内原子の集団運動の考え方は破綻し、原子の個別運動にすべりの運動エネルギーが散逸する。この散逸は内部のいろいろな運動が複雑に絡り合う混合性(mixing)から生ずる。

 最後に、第六章で本研究で得られた結果を総括する。

審査要旨

 本論文は、二つの固体表面が接触して滑る時に発生する摩擦について、その発生起源を原子論的な立場から実験的かつ理論的に明らかにした研究である。実験的には、超高真空中での走査トンネル顕微鏡の探針と試料表面との間の摩擦を高精度で測定したり、白雲母の劈開面同士の摩擦の異方性を測定することによって、接触面同士の結晶格子整合性が摩擦の大きさを決定する重要な因子であることを明らかにした。特に、滑り方向に沿って、接触面同士の結晶格子間隔がマッチングしていない場合、摩擦力が著しく低下することを見いだした。またこの現象を理論的にモデル化して解析し、結晶格子がマッチングしていない状態で滑っているときに、接触表面上の原子配列が連続的に変化すれば、摩擦力がゼロの超潤滑状態が実現することを示し、実験結果を定性的に説明することができた。

 本論文は六つの章から構成され、第1章では本研究の背景と目的が述べられ、第2章では大気中で測定した白雲母劈開面同士の摩擦力と結晶方位との関連を明らかにした実験が述べられている。第3章では走査トンネル顕微鏡のタングステン探針表面とシリコン表面との間の摩擦力の異方性を超高真空中で測定し、第2章で得られた結果と同様の結晶方位と摩擦力との関連を明らかにした。第4章では、上述の実験で得られた結果を理論的に解析するために、清浄表面の原子論モデルに基づいて摩擦の発生機構を検討した。第5章では、動摩擦におけるエネルギー散逸の機構を理論的に検討した。最後に第6章で本論文で明らかにされた結果および、それに基づく今後の研究の展望をまとめている。

 摩擦力の起源は古くから様々な角度から研究されてきたが、接触面の原子構造までも考慮にいれた原子論的な立場からの研究は最近までなされていなかった。最近、走査トンネル顕微鏡や原子間力顕微鏡などの測定技術や表面制御技術の進歩によって、原子スケール分解能での摩擦力測定が可能になり、理論と直接比較しうるほど実験精度が向上した。また、マイクロマシンなどの将来技術にとっても摩擦現象は重要な課題として最近盛んに研究されるようになった。本論文は、接触面同士の結晶方位と摩擦力の大きさに強い相関があることを実験および理論の両面にわたって明らかにし、特に、摩擦力の極めて小さい「超潤滑」と呼ばれる状態の可能性に示唆をあたえる先駆的研究である。

 論文提出者が行った第一の実験は、白雲母の劈開面同士の大気中での摩擦測定である。その結果、滑り方向に沿って、二つの接触面の結晶格子間隔がマッチングしている場合に摩擦力は大きく、マッチングしていない場合には摩擦力が著しく小さくなることが明らかとなった。第二の実験では、第一の実験で見いだした結晶格子の方位関係と摩擦力の相関をさらに原子レベルで清浄な表面を用いて厳密に調べた。つまり、超高真空中で走査トンネル顕微鏡を用い、その探針である清浄なタングステン(011)面とシリコン(001)清浄表面の間で、両者を弾性接触させて摩擦力を測定した。その結果、W(011)表面の[11-1]方向とSi(001)表面の[010]方向を揃えると、両者の格子間隔が整合し、その方向に滑らすと理論値と同程度の8×10-8Nの摩擦力が現れた。一方、この結晶方位からずらして両者を滑らせると、摩擦力は測定分解能の3×10-9N以下になることを見いだし、第一の実験結果を裏付けることができた。

 これらの実験結果を理論的に説明するために、清浄表面の原子論モデルに基づいて摩擦と超潤滑の発生機構を検討した。その結果、滑りながら接触面の原子配列が連続的に変化するならば、摩擦力がゼロとなる超潤滑の状態が現れることが明かとなった。上述の実験で、接触面の二つの結晶格子がマッチングしていない時に摩擦力が著しく減少したのは、この理論モデルに近い状態が実現されているものと考えられる。一方、二つの接触面の結晶格子がマッチングした方位では、滑りながら接触面の原子配列が不連続的に変化するため、大きな摩擦力が生じるものと考えられる。

 最後に動摩擦でのエネルギー散逸機構を理論的に考察した。その結果、接触面の凝着が弱い場合、滑りの運動エネルギーが固体の原子の集団的内部運動(つまり格子振動)に散逸するが、接触面の凝着が強い場合、原子の集団運動という描像ではなく、接触表面の個々の原子の個別運動にエネルギーが散逸し、その後に内部の様々な運動に散逸していくことを明らかにした。

 以上のように、論文提出者は、摩擦の発生起源を原子論的な立場から、実験・理論両面にわたって明らかにした。特に、接触面同士の結晶格子の滑り方向の整合性が摩擦の大きさを決定する重要な因子であることを明らかにした。このように本研究は、摩擦の原子論的理解にとって、新しい重要な知見をもたらした研究であり、その独創性が認められたため、博士(理学)の学位論文として十分の内容をもつものと認定し、審査員全員で合格と判定した。なお、本論文は、共同研究者らとの共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験および解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。

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