学位論文要旨



No 213877
著者(漢字) 原田,光一郎
著者(英字)
著者(カナ) ハラダ,コウイチロウ
標題(和) 圧負荷による心肥大形成の分子機構の解析 : アンジオテンシンII受容体タイプ1a欠損マウスを用いた研究
標題(洋) Molecular Analysis of Pressure Overload-induced Cardiac Hypertrophy : Study of Angiotensin II Type 1a Receptor Knockout Mice
報告番号 213877
報告番号 乙13877
学位授与日 1998.05.27
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13877号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 岡山,博人
 東京大学 教授 脊山,洋右
 東京大学 教授 大内,尉義
 東京大学 助教授 後藤,淳郎
 東京大学 講師 平田,恭信
内容要旨

 近年の臨床研究により心肥大が虚血性心疾患の独立した危険因子と判明しているため、心肥大の分子機構の解明は重要である。心肥大は高血圧等による血行力学的負荷だけでなく、アンジオテンシンII(Ang II)といった液性因子によっても引き起こされることが知られている。高血圧性心肥大においてアンジオテンシン変換酵素(ACE)阻害薬によるAng IIの産生阻止は、実験動物モデルだけでなくヒトの研究においても著しい成果をあげていることより、レニン-アンジオテンシン系(RAS)とその中心的な生理活性ペプチドであるAng IIは最も注目されている。

 RASは、血圧・水電解質調節に重要な役割を果たしていることが一般に知られている。この系は、1950年代に内因性昇圧物質であるAng IIを産生する、主に血行を介するendocrine系機構として明らかにされた。近年、分子生物学の手法を用いたRASの研究の進歩により、各臓器局所でもAng IIが産生されることが明らかにされ、心血管系においても、RASは単にendocrine系としてのみではなく、組織局所で独立したautocrine/paracrine系として存在し、かつ独自の生理的作用を発揮していることが広く認識されつつある。またACE阻害薬は臨床上心肥大を抑制すること、心臓内にレニン、アンジオテンシノージェン(AGT)、ACE、Ang II受容体が独自に存在し、肥大心において増加すること、Ang IIの添加により培養心筋細胞肥大が起こることより、Ang IIは心肥大形成過程に重要な役割を果たしていることが示唆されている。

 一方、血行力学的負荷による心肥大形成の分子生物学的機序は長く不明であったが、最近in vitroの実験系において血行力学的負荷が局所のRASを活性化し心肥大を誘導する可能性が示された。すなわち、機械的刺激によって心筋細胞よりAng IIが分泌され、autocrine/paracrineの機序により分泌されたAng IIが機械的刺激による心筋細胞肥大に重要な役目を果たしていることが明らかにされた。しかし機械的刺激により引き起こされる心筋細胞肥大はAng II 1型受容体拮抗薬により完全には抑制されないことや、最近の研究において心筋細胞ではAng IIにより活性化する情報伝達経路と機械的刺激により活性化する情報伝達経路の間にはいくらかの相違があることが報告されている。よって機械的刺激による心筋細胞肥大形成にはAng II非依存性の情報伝達経路が存在することが予想される。

 Ang IIは、標的組織細胞に存在する特異的受容体を介して細胞内情報伝達経路を活性化するが、その受容体はAng II type 1 receptor(AT1)とAT2に分類され、AT1はさらにAT1aとAT1bに分類される。従来よりAng IIの心血管系作用の多くはAT1を介していると認識されてきたが、遺伝子組換え動物であるAT1a欠損(KO)マウスを用いることによりAT1aを介する情報伝達経路は血圧の維持に必須であることが証明された。一方、心血管系におけるAT2の生理的役割は多くが不明であったが、AT2 KOマウスを用いることによりAT2も血圧の維持に関与していることが明らかになった。このように遺伝子組換え動物は、心血管系におけるRASの複雑な病態生理を明らかにする目的に対して非常に有効な実験系であると考えられる。よって本研究では、AT1aを介する情報伝達経路の存在しないAT1a KOマウスの心臓を用いて、圧負荷が引き起こす心肥大形成におけるAng IIの役割を解析した。圧負荷による情報伝達系の活性化を急性圧負荷モデルにて、圧負荷による心肥大形成過程を慢性圧負荷モデルにて検討した。以下にその結果をまとめる。

1:急性圧負荷による情報伝達経路の活性化。(1)急性圧負荷前後のAT1,AT2,ACE,AGTのmRNA発現量の変化。

 AT1a KOマウスではごく微量のAT1b遺伝子の発現とAGT遺伝子の基礎値での発現亢進を認めた。しかしKOマウスと野生型(WT)マウスの両マウス群におけるAT1,AT2,ACE,AGTの発現量は急性圧負荷30分間により変化を認めなかった。

(2)Ang II注入によるc-fos遺伝子の発現。

 急性圧負荷による心肥大反応へのAT1bの関与を否定するために、非昇圧量のAng IIの注入を行い、早期心肥大反応の1つとしてc-fos遺伝子の発現を観察した。Ang IIの注入により、WTマウス心でのみc-fos遺伝子の発現を認めた。よってAT1bは、Ang IIを介した急性圧負荷による心肥大反応に関与しない、または非常に減弱していると考えられた。

(3)大動脈弓部縮窄による血行力学的効果。

 急性圧負荷は、両側頚動脈への圧トランスデューサー挿入により正確な圧負荷モニターが可能である上行大動脈弓部縮窄モデルを用いた。縮窄後の圧変化は、WTマウスで43.8±10.7mmHg、KOマウスで43.3±8.8mmHgであり、両マウスの心臓に同等の圧負荷がかかっていることが示された。

(4)急性圧負荷前後のc-fos,c-jun,BNP遺伝子の発現とMAPKの活性化。

 30、60、120分間の縮窄にて急性圧負荷を行った。培養心筋細胞に伸展刺激を加えるとmitogen-activated protein kinases(MAPKs)の活性化に引き続き、c-fos、c-jun、brain natriuretic peptide(BNP)などの遺伝子群が発現することが報告されているが、本研究のin vivoの実験系においても圧負荷後30分をピークとして負荷心筋にこれら遺伝子群の発現を認め、両マウスにおいてほぼ同等の発現経過を示した。MAPKsは、細胞質内に存在する分子量42ないし44kDaのserine/threonine kinasesであり、伸展刺激による心筋細胞肥大過程においても細胞内情報伝達分子として重要な機能を担うことが報告されている。急性圧負荷によるMAPKsの活性化を観察したところ、圧負荷によりAT1a KOマウスだけでなくWTマウスにおいてもMAPKsの活性化が引き起こされることが明らかになった。これらの結果より、AT1aを介する情報伝達経路が存在しないAT1a KOマウスの心臓でも、圧負荷によりWTマウスの心臓で誘導される心肥大過程がほぼ同様に生じることが明らかにされた。また興味深いことに、これらMAPKsの活性化や前項で示した遺伝子群の発現は、基礎値、刺激後値共にKOマウスの方が活性が大きかった。

 AT1a KOマウスではAT1aを介する情報伝達経路が存在しないことにより、心肥大反応を活性化しうる何らかの因子が活性化されている可能性が示唆された。

2:慢性圧負荷による心肥大形成過程。(1)慢性圧負荷後のAT1,AT2のmRNAの変化。

 慢性圧負荷により、WTマウス心でAT1は1.5倍に増加したが、AT1a KOマウス心におけるごく微量のAT1bは変化しなかった。AT2の発現量は両マウスにおいて、慢性圧負荷により変化を認めなかった。

(2)Ang II持続注入による心肥大形成と遺伝子発現。

 慢性圧負荷による心肥大形成へのAT1bの関与を否定するために、非昇圧量のAngIIを2週間持続注入した。Ang IIの注入によりWTマウスでのみ心重量の増加、心筋細胞肥大、atrialnatriuretic peptide遺伝子の発現を認めた。よってAT1bは、圧負荷による心肥大形成に関与しないと考えられた。

(3)慢性圧負荷による心肥大。

 慢性圧負荷として腹部大動脈縮窄モデルを使用した。この実験系も圧負荷によりRASが活性化すると報告されている。縮窄40日後、圧負荷はWTマウスで37±7mmHg、KOマウスで43±7mmHgであり、同等の圧負荷であった。心重量はWTマウス同様KOマウスでも増加を認めた(WTマウス29%、KOマウス33%)。

(4)慢性圧負荷後の胎児型遺伝子の発現。

 慢性圧負荷により肥大心に誘導される心臓特異的遺伝子の発現様式は両マウスで同様の変化を示した。

(5)慢性圧負荷後の心臓の形態学的変化、心機能、組織学的変化。

 心エコーを用いて圧負荷後の心臓の形態学的変化と心機能を観察したが、両マウスにおいて心室壁の著しい肥厚、心収縮機能の低下を同程度認めた。またAng IIはAT1を介して心筋細胞肥大や線維化などの心筋リモデリングに重要な役割を果たすことが報告されているが、両マウスにおいて、心筋細胞肥大だけでなく線維化もやはり同等に認められることが明らかとなった。

 以上の結果をまとめると、AT1a KOマウスにおいても、圧負荷によりWTマウスにおける心肥大を引き起こす情報伝達系は同様に活性化し心肥大を誘導した。両マウスで形成された肥大心における心臓特異的遺伝子の発現形式、機能的/組織学的リモデリングはほぼ同様の変化を示した。よってAng IIによるAT1aを介した情報伝達系の活性化がなくても、圧負荷による心肥大形成は進行し完成されることが示された。本研究では、圧負荷による心肥大形成において少なくとも2つの経路(Ang II依存性の情報伝達経路とAng II非依存性の情報伝達経路)の存在を明らかにし、またAng II非依存性の情報伝達経路がAng II依存性の情報伝達経路による作用をほぼ完全に補償することをin vivoの実験系で初めて明らかにした。さらに今後、AT1a KOマウスにおいて心肥大を誘導する因子の解明が心肥大の新しい予防・治療方法に大きく貢献が期待されるものと考えられる。

審査要旨

 本研究は、圧負荷を受けた心臓が心肥大形成に至る機序を分子レベルで明らかにするため、遺伝学的にアンジオテンシンII(Ang II)タイプ1a型受容体を欠損させたknockout(KO)マウスを用いて、圧負荷による心肥大形成の調節機構を解析したものであり、下記の結果を得ている。

1.急性圧負荷による情報伝達経路の活性化。

 (1)AT1a KOマウス心において、ごく微量のAT1b遺伝子の発現とアンジオテンシノージェン遺伝子の基礎値での発現亢進を認めた。しかしKOマウスと野生型(WT)マウスの両マウス群におけるAT1,AT2,アンジオテンシン変換酵素遺伝子、アンジオテンシノージェン遺伝子のmRNA発現量は急性圧負荷30分間により変化を認めなかった。急性圧負荷による心肥大反応へのAT1b遺伝子の関与を否定するために、非昇圧量のAng IIの注入を行い、早期心肥大反応の1つとしてc-fos遺伝子の発現を観察すると、WTマウス心でのみc-fos遺伝子の発現を認めた。よってAT1bは、Ang IIを介した急性圧負荷による心肥大反応に関与しない、または非常に減弱していると考えられた。

 (2)上行大動脈弓部縮窄モデルを用いて、30、60、120分間の縮窄にて急性圧負荷を行った。圧負荷後30分をピークとして負荷心筋にc-fos,c-jun,brain natriuretic peptide遺伝子の発現を認め、両マウスにおいてほぼ同等の発現経過を示した。細胞内情報伝達分子として重要な機能を担うことが報告されているMAPKs(mitogen-activated protein kinases)の活性化を観察したところ、圧負荷によりKOマウスだけでなくWTマウスにおいてもMAPKsの活性化が引き起こされることが明らかになった。これらの結果より、AT1aを介する情報伝達経路が存在しないAT1a KOマウスの心臓でも、圧負荷によりWTマウスの心臓で誘導される心肥大過程がほぼ同様に生じることが明らかにされた。また興味深いことに、これらMAPKsの活性化や前項で示した遺伝子群の発現は、基礎値、刺激後値共にKOマウスの方が活性が大きかった。AT1a KOマウスではAT1aを介する情報伝達経路が存在しないことにより、心肥大反応を活性化しうる何らかの因子が活性化されている可能性が示唆された。

2.慢性圧負荷による心肥大形成過程。

 (1)慢性圧負荷により、WTマウス心でAT1は1.5倍に増加したが、AT1a KOマウス心におけるごく微量のAT1bは変化しなかった。AT2の発現量は両マウスにおいて、慢性圧負荷により変化を認めなかった。慢性圧負荷による心肥大形成へのAT1bの関与の否定のために、非昇圧量のAng IIを2週間持続注入した。Ang IIの注入によりWTマウスでのみ心重量の増加、心筋細胞肥大、atrial natriuretic peptide遺伝子の発現を認めた。よってAT1bは、圧負荷による心肥大形成に関与しないと考えられた。

 (2)腹部大動脈縮窄モデルにより、40日間の慢性圧負荷を行うと、心重量はWTマウスだけでなくKOマウスでも増加を認めた。慢性圧負荷により肥大心に誘導される心臓特異的遺伝子の発現様式は両マウスで同様の変化を示した。心エコーを用いて圧負荷後の心臓の形態学的変化と心機能を観察したが、両マウスにおいて心室壁の著しい肥厚、心収縮機能の低下を同程度認めた。両マウスにおいて、心筋細胞肥大だけでなく線維化もやはり同等に認められることが明らかとなった。

 以上、本研究では、圧負荷による心肥大形成において少なくとも2つの経路(Ang II依存性の情報伝達経路とAng II非依存性の情報伝達経路)の存在を明らかにし、またAng II非依存性の情報伝達経路がAng II依存性の情報伝達経路による作用をほぼ完全に補償することをIn Vivoの実験系で初めて明らかにした。近年の臨床研究により心肥大が虚血性心疾患の独立した危険因子と判明しているため、心肥大の分子機構の解明は非常に重要であり、今後の心肥大の新たな予防法・治療法への臨床応用も期待される。圧負荷による心肥大形成過程の解明において重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考える。

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