学位論文要旨



No 213887
著者(漢字) 植野,弘子
著者(英字)
著者(カナ) ウエノ,ヒロコ
標題(和) 台湾漢民族社会における姻戚関係 : 女性をめぐる連帯と対立に関する分析
標題(洋)
報告番号 213887
報告番号 乙13887
学位授与日 1998.05.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第13887号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 伊藤,亜人
 東京大学 教授 末成,道男
 東京大学 教授 船曳,建夫
 東京大学 教授 若林,正丈
 東京大学 助教授 長谷川,博子
内容要旨

 本論文は、台湾台南県の漢民族社会におけるフィールドワークによって得られた資料をもとに、姻戚関係の社会的・儀礼的重要性、姻戚関係の展開の原理、さらに男女による姻戚関係の差異のもつ意味を明らかにし、漢民族の親族・婚姻体系に対する再考を行うことを目的としている。

 台湾における姻戚関係は、父系出自の連続・家族展開に儀礼的あるいは経済的に深く関与している。また、男性の姻戚関係は特に家族を超えた社会活動や儀礼的行為に、女性の姻戚関係は家族内の関係に大きな意味を持っているが、こうした差異も姻戚関係の機能や展開の原理と関連したものである。これまでの漢民族の親族研究は、父系出自原理を中心的課題とし、姻戚関係の重要性は指摘されながらも、その本格的研究は現在にいたるまで、ほとんど行われてこなかった。

 本論文でいう「姻戚関係」とは、自己にとっての父系関係以外の「非父系」関係すべてを含めたものである。つまり、「姻戚関係」とは、自己の配偶者の親族関係とそこに派生する親族・婚姻関係、父系親族員の配偶関係とそこに派生する親族・婚姻関係を含むものである。この定義では、母方親族も姻戚関係に含むが、こうした定義を行ったのは、漢民族における「父系」・「非父系」の親族区分に基づくものであり、さらに、婚姻関係を結んだ家族の複数世代にわたる考察、検討する対象の拡大、男性と女性の姻戚関係の差異の明確化という分析上の利点によるものである。

 本論文のフィールド資料は、台湾台南県の一村落-佳榕林(仮称)におけるものである。この村落は、現在の台湾農村の典型的姿を呈しているといえる。農業は兼業化が進み、工場労働などの賃金収入が生活を支えている。村落ではある一つの姓の者たちが多数を占めているが、宗族といえるものは存在しない。

 これまでの台湾漢民族の姻戚関係に関する研究においては、ギャリンによって姻戚関係が経済的・社会的・政治的場面において、重要な機能をもつものであることが明らかにされてきた。また、エイハンが「妻の与え手」が「妻の受け手」に対して種々の贈与を行い、儀礼的に優位にたつことを指摘している。特に、姉妹の息子に対する母の兄弟の優位性は、姻戚関係について考える際の一つの鍵となってきた。本論文においても、贈与慣行について詳細に分析を行い、「妻の受け手」の繁栄を「妻の与え手」が、経済的・儀礼的に保証するものであることを明らかにした。さらに、「妻の受け手」と「妻の与え手」の役割の差異に注目し、それぞれが果たすべき役割について分析を行った。その結果として、姻戚関係は、父系関係では果たし得ない機能を補足するだけのものでなく、それ自体が果たすべき義務をもった規範に支えられた関係であることが明確なものとなった。また、人生儀礼や家族展開の節目に、姻戚関係が重要な役割を果たすことによって、こうした慣行が階層差がなく受け容れられており、いずれの人にとっても、姻戚関係が重要な関係であることが明らかである。

 本論文の分析の一つの特徴は、姻戚関係を結んだ家族間の関係を、ある世代に限定するのでなく、世代の経過によっていかにその関係が変化していくかを追ったことである。その結果として、これまでの研究ではふれられなかった岳父と娘婿の関係の重要性を見いだした。娘婿は岳父の社会的活動を援助するとともに、妻と共に岳父に対して尽くし、その死に際しても儀礼的な義務を果たすことになる。「妻の与え手」から「妻の受け手」に対して一方的な贈与が行われるとし、それに従って姻戚関係全体を理解してきた従前の研究に対して、本論文においては、姻戚関係を結んだ家族間の関係が互酬的なものであることを明らかにした。また、世代の経過を視点に入れて、姻戚関係による贈与慣行や儀礼的義務の分析を行うことによって、姻戚関係は締結から2世代においては特別の意味ある関係であるが、3世代目においては特別の役割をもたなくなり、その後に関係が断絶するという展開の原理が明確になった。

 また、「妻の受け手」と「妻の与え手」とされるものの実体と、そこにみられる男子均分制の原理に基づく、姉妹に対する兄弟の義務の均等性の原理を明らかにした。本論文においては、婚姻を結んだ夫方の家族を「男家」、妻方の家族を「女家」という用語で示すこととした。この家族は家族展開によって変化するものであり、台湾の家族が系譜性を内在させて展開することの特質を含んだ定義をおこなった。結婚当初は、「男家」は夫の父の家族であり、ここには財産分与を伴う分家をまだ行っていない夫の兄弟たちが含まれる。その後、兄弟たちが分家すれば、「女家」にとって婚姻を結んだ単位-「男家」はその夫婦の家族のみとなる。また、「女家」も、結婚当初、妻の父の家族であるが、妻の兄弟たちの分家によって分裂する。しかし、この兄弟のすべてが「女家」としての役割をもつことになる。兄弟の間の平等性は、財産相続だけではなく、姉妹に対する義務においても機能し、姉妹の家族に対して「女家」としての贈与などが必要な際には、兄弟はその出費を平等に分担するのが原則である。つまり、婚出した姉妹に対する姻戚関係としての機能によって、すでに分家した兄弟の協同性が維持されることになる。漢民族の家族の大原則である男子均分制は、姻戚関係のあり方とも相互的関連をもつのである。

 また、男女における姻戚関係の差異については、以下の点を明らかとした。佳榕林における姻戚関係が関わる儀礼や社会的活動は、男性が主体となって行われる。本論文においては、儀礼の際の祝儀や、村の廟の再建資金の寄付行為を取り上げたが、これらの出費は、男性の名によって行われている。こうした行為は姻戚関係者以外の第三者の目に触れることになり、その者の財力、度量の大きさが計られる。姻戚として面子をかけた交際を行うことによって、男性は威信を表現する場を得ることになる。

 対して、女性にとって重要な姻戚関係とは、婚姻によって移動してきた新たな家族のなかにある。同じ立場にある夫の兄弟の妻、あるいは夫の母や夫の姉妹こそ、女性にとってもっとも関心をもつ相手となる。彼女たちの関係は、緊張関係として現れ、夫の兄弟の間の分裂を起こす一因となることは、これまでの研究においても指摘されてきた。また、本論文においても同様の結論が導きだされた。しかし、この要因の背後にある夫婦の「女家」の存在の大きさについては、これまでの研究においては明確に示されて来なかった。「女家」からの贈与は、女性の婚入の際の持参財に始まり、分家に際しても、ふたたび「女家」から、夫婦の生活を維持できるような贈与が行われることが予定されている。婚入してきた女性達は、分裂に向けて、夫方の家族のなかの女性の姻戚を、権利の衝突する相手と認識し、対立を生み出すのである。

 夫の家族においては分裂を引き起こす女性は、夫と「女家」とを引きつけ、連帯を生み出す役割を果たす。この結果、姉妹の夫同士が、ひとつの「女家」に共通の義務を果たす者として、緊密な関係を維持していることも明らかになった。女性が「女家」においてつなぐ男性は、夫だけではない。彼女の兄弟たちも姻戚として、つまり彼女とその夫婦家族に対して、「女家」としての役割を果たす時に、この義務は兄弟たちにおいて平等に分担されなければならない。このため分家した兄弟たちは、姉妹の家族に対する姻戚としての共通の義務を果たすため、彼らは協同性を維持する必要がある。父の家族から分裂した兄弟たちの家族を、婚出した姉妹が結びつけている。女性たちは、夫の家族を女性同士の姻戚関係の対立によって、分裂に向かわせる。しかし、女性は、「女家」においては、姻戚関係によって、男性たちの連帯を生みだす役割を果たす。

 本論文のフィールド資料や先行の研究を検討することにより、台湾における姻戚関係は、父系出自関係が有効性をもちえない多くの諸場面で機能する重要な関係であるが、しかし、それだけでなく、さらに、家族における父系的連続を支える存在であることが明確になった。儀礼的行為においても、父系出自と姻戚関係とは対立的な関係としてはとらえられず、父系的連続に姻戚関係が必要であることが表現される。また、こうした儀礼は階層を問わず共有され、姻戚関係は、いずれの階層の者にとっても意味ある関係となっている。こうした姻戚関係のあり方は、宗族が社会経済的、そして文化的にも支配的でないような漢民族社会において、姻戚関係の一つのモデルとなりうるものである。

 姻戚関係を主題とする本研究を通じて、漢民族の親族研究のバイアスはより明確に見えてきた。これまでの漢民族の親族研究は、父系出自にその焦点をおき、父系出自の論理を優先させて、親族体系を分析してきた。その結果、出自という親子の連続や家族展開に関して、女性の役割を無視したり、あるいは出自の原理との対立をより強調することになった。また、姻戚関係は、明確な規範を欠くものとして理解されてきた。このような出自と姻戚関係の対立という構図とは異なる視点で台湾の資料を分析したのが、本研究の特色である。佳榕林の研究を通して明らかになったのは、女性つなぐ姻戚関係によって支えられる父系出自の継続であり、姻戚関係を積極的に活用して、政治・経済的活動を行う男性の姿である。父系偏重の漢民族の親族モデルを、姻戚関係を包括して再考することの必要性を、本研究を通じて指摘しうる。

審査要旨

 本論文は、台湾の漢民族社会における姻戚関係の社会的・儀礼的重要性および男女による姻戚関係の差異を分析することによって、これまでの漢民族社会の親族研究に新しい視座を提起する目的で執筆されたもので、その論証は1982年から84年にかけての2年間の現地調査とその後4回の補充調査で得られた資料に拠っている。

 論文の構成は、序章において課題と方法を提示した後、第1章では漢民族の婚姻関係研究をレヴュウした上で、台湾における姻戚関係研究の重要性を提示しており、第2章では調査地の歴史的背景と村落の現状を記述している。第3章では、家族関係における男性と女性の性差として、生殖観を背景とした骨と肉の表象とそれに因る婚姻規制、家族展開と居住の変遷、相続と分家の慣行、姻戚関係と親族関係およびその名称と呼称について、また第4章では、祖先観と祖先祭祀における男性と女性の地位の差について民族誌的な記述がなされている。第5章では、通婚関係と祭祀活動との関連性が指摘されている。以上の記述を踏まえたうえで、第6章では婚姻時および婚姻後における財の交換の記述に、ついで第7章は、女性の生家から様々な機会に行われる贈与の実態についての記述と分析に当てられている。また第8章では、夫から妻の生家に対して行う財政的な寄与について当てられ、特に廟の再建と葬礼に際しての財政的な役割と奉仕的活動について具体的な民族誌資料の提示とその分析が行われている。第9章では、冥婚によって成立する姻戚関係について同様に詳細な事例の記述と分析に当てられている。第10章では世代の移行に伴う男女の地位と役割の変化と贈答・奉仕によって展開する姻戚関係のモデルを提示して、その中での女性の占める位置が明らかにされており、最終章の結論に結んでいる。課題と方法の提示と、従来の研究による論点と認識の整理を踏まえ、対象社会の背景と現状、関連する諸領域と局面についての民族誌的な資料を提示した上で、本題に直接関わる実態についての記述と分析に精力を注いで結論を導き出しており、構成と論旨の展開および資料の提示において完成度の高い論文となっている。

 フリードマンを初めとする従来の漢民族社会の文化人類学的研究では、いずれも父系出自原理に基づく親族体系を基本的な枠組みとしており、男性の地位を重視し地域社会の脈絡についても主として男性が主体となる公式な制度や体制を重視する視点に立って家族や親族が論じられてきた。そのため、女性の地位や姻戚関係については父系出自体系や公式の社会経済体制を補完するものとして二次的な位置づけがなされていた。

 こうした従来の研究に対する批判と反省に立って、本論文では、親族における女性の地位を、生殖観念、婚姻規制、居住空間の展開、相続と分家の慣行、親族用語、祖先祭祀などの各局面について、自身の観察資料に基づいて詳細に検討した上で、父系出自の原理とは別個に婚姻関係とそれにともなう姻戚間での儀礼や奉仕的活動に注目しており、とりわけ姻戚関係にある男性が主体的かつ積極的に担っている贈与活動や援助義務について、詳細な記述に基づく分析を行っている。しかも従来の親族分析の静態的なモデルによる分析とは異なり、一世代に限定することなく世代の移行に伴って各成員の役割が変化していく過程を視野に入れて動態的に分析を試みている点で画期的である。その結果、姻戚間の贈与は、嫁いだ妻の生家から婚家への贈与ばかりでなく、娘婿から岳父に対しても人生儀礼や廟の儀礼を機会として贈与と援助がおこなわれていることを明らかにしている。しかもそれが、女性自身がおこなうものではなく、女性の兄弟あるいは夫にあたる男性によって、両家族の間で互酬的におこなわれており、姉妹を介して成立する婚家に対する贈与のための協力が父系出自を共有する兄弟間の連帯を強めていること、また、娘の婚姻を契機とした娘婿との関係は、その親族関係網をたどることによって、生家の親や兄弟にとって社会関係を拡げることによって社会的威信をもたらす契機となっていること、しかもそれが父系出自による祖先祭祀に劣らず儀礼的な表現様式をともなうことによって文化的にも意味づけられていることを明らかにしている。つまり、従来の親族研究にみられたように、姻戚関係を父系出自に付随しこれを補完する非公式のものとして副次的に捉えるのではなく、父系出自の理念を全体の親族体系のなかに位置づける重要な実践の体系として存立することを論証しており、言い換えれば、姻戚関係を基礎として親族体系を捉え直す視点を提唱している。その周到な論述は、具体的な民族誌の資料によって裏付けられており、また従来の研究の拠って立つ脈絡についても検討を怠っていない。

 姻戚関係を媒介とした人脈による政治経済的な関係の重要性については、近年の大陸部の漢族社会研究においても指摘されているところである。しかしそれは、社会主義政策のもとで父系出自原理が「宗派主義」の名のもとに否定され、それに基づく組織や儀礼がすっかり弱体化してしまった後に、開放政策のもとでの政治経済活動のための新たな人脈形成の有効な契機として、有力な人物との姻戚関係が一挙に浮上したことによるものであって、どこまでも実態としての父系出自の崩壊に伴うものである。こうした研究とは異なり本論文では、父系出自が基本的理念として尊重される親族体系のもとで、その構造論的な視点のもとで軽視されてきた姻戚関係について重要性を指摘したものである。

 また、これまでの日本人研究者による台湾社会に関する人類学の研究は、いずれも少数民族である高山族を対象とするものばかりであって、漢族社会を扱うものはなかった。本論文は日本人によって書かれた台湾の漢族社会に関する最初の本格的な研究である。中国において歴史的にも文化的にも周縁に位置する台湾の事例は、これまでの漢族研究において位置づけが必ずしも充分でなかった。その台湾の事例研究に拠りながら、方法論の面でもこれまでの父系出自の原理や男性を主体とする観点からではなく、女性の立場と感性を生かして贈答や援助といった実践に注目する独自の観点に立って、漢族社会研究全般に関わる再考を迫っている点でも、本論文は独創的な研究として評価される。それは、文献研究の厚みに加えて長い時間をかけた現地調査によって成しえたものであり、完成度の高い論考となっている。本論文が今後の漢族社会の研究において避けて通ることのできない基本的な業績となることは間違いない。

 以上のとおり、本論文は従来の漢族社会の親族研究に対する批判的検討を踏まえた上で、文化人類学による調査と記述と分析の方法に拠って、姻戚関係の本質とその重要性を明確に提示したものとして、その学術的な貢献は高く評価される。

 したがって当審査委員会は、本論文が博士の学位授与に相応しい業績であると認める。

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