学位論文要旨



No 213888
著者(漢字) 宮崎,章
著者(英字)
著者(カナ) ミヤザキ,アキラ
標題(和) 水素結合性対イオン系により変調された分子導体の結晶構造および電子構造
標題(洋) Crystal and Electronic Structures of Molecular Conductors Modulated by Hydrogen-Bonded Counter Ion System
報告番号 213888
報告番号 乙13888
学位授与日 1998.05.28
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第13888号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小島,憲道
 東京大学 教授 菅原,正
 東京大学 教授 鹿児島,誠一
 東京大学 助教授 阿波賀,邦夫
 東京大学 助教授 松下,信之
内容要旨

 機能性を有する分子性固体の典型例として、分子性導体は近年研究が盛んに展開されている。これらの系は物性面からは、系の低い次元性にもとづく電荷密度波・スピン密度波、あるいは構成分子の高い電子分極に基づく電子相関、さらにはこれらの両方の要因に基づくスピンと電荷の分離など、固体物理の立場からも興味深い話題を提供しつづけている。

 通常の分子性導体では共役系を有する平面状分子が部分酸化状態にありつつ積層することによりキャリア移動の舞台となり、部分酸化によって生じた電荷を補償する役割を対イオンが担っている。物質開発の立場からは、これまでは共役系分子の設計を中心として研究がなされており、共役系の拡大・より分極率の大きいカルコゲン原子への置換等の手法により、より高い電導性を得るための方法論はほぼ確立されてきたといえる。しかしながらもう一方の構成要素である対イオンについては、対イオンの同型置換による実効的な圧力印加を除けばこれまであまり関心を持たれてきてはいなかった。本研究ではこの点に着目し、対イオン系に水素結合を導入することにより系の結晶構造・電子構造に対しどのような摂動を加えうるかについて検討を行った。

水素結合を有する対イオン系の結晶構造に与える影響

 分子間相互作用としての水素結合には、方向性のある分子間力であるということ、ならびにプロトン供与能、受容能を有する置換基を分子に導入することにより、水素結合ネットワークに基づいた高次構造がある程度予測可能であるという特徴が挙げられる。この特徴を生かすためには対イオンにはプロトン供与能・受容能を共有するものが望ましいが、通常の無機イオンにはこのような性質を有するものを見出すのは困難である。そこで本研究では対イオンとして、下図のような分子内にプロトン供与基・受容基を共に有する有機アンモニウムイオン類を用いた。これらのイオンは結晶内では下図に表されるような水素結合様式を取り、この高次構造が電導層に構造的な摂動を与えるものと予想される。そこで電導層の構成要素として分子末端に水素結合受容基を有するNi(dmit)2分子を用い、得られた塩の結晶構造・電子構造を検討した。

図.プロトン供与基・受容基を共に有する有機アンモニウムイオン類の可能な水素結合様式。上:模式図、中:2-メトキシエチルアンモニウムイオン、下:モルフォリニウムイオン。

 2-メトキシエチルアンモニウム塩では分子間水素結合により2分子の対イオンが右列のようなhead-to-tailダイマーをなし、剰余のプロトンサイトに結晶化溶媒のアセトニトリル分子が水素結合したクラスターを形成している。カラム状に積層したNi(dmit)2分子は三量体構造をなし、カラム間を対イオン-溶媒クラスターが水素結合により結んでいる。一方モルフォリニウム塩では対イオンが分子間水素結合により左列のような一次元鎖をなしており、これらの間をやはり三量体化したNi(dmit)2カラムが水素結合により連接している。対イオンとNi(dmit)2分子との間の強い水素結合により、三量体両側のNi(dmit)2分子は平面から大きく歪んだ構造を有している。これらの塩は半導体的挙動を示したが、これはバンド絶縁体的電子構造を与える計算結果と対応している。

水素結合を有する対イオン系の電子構造に与える影響

 分子性導体には平面分子が二量体化した構造がしばしば見られるが、強相関系の物理の立場からは、二量体を一つのユニットとして議論することが可能であることを意味する。この場合、二量体の有効オンサイトクーロン反発は二量体を形成する分子間の重なりによって決定されるため、分子配列のわずかな変化により有効オンサイトクーロン反発と二量体間の移動積分の比が大きく変わり、系の電子状態に著しい変化を与えることが指摘されている。以上の議論はそのまま三量体構造を有する系にも適応可能と考えられる。このような構造を有する系は非常に少ないが、代表的な例としては(BEDT-TTF)3(ClO4)2、および本研究で取り上げた(BEDT-TTF)3(HSO4)2があげられる。これらの塩はともに金属-絶縁体転移を示すが、(BEDT-TTF)3(ClO4)2の場合には室温付近の金属相で下図の紙面に垂直なCl-O結合の周りに回転していた対イオンが温度低下と共に凍結し、CH…O型水素結合を介してドナー分子の配列が変化しバンド絶縁体化を引き起こすものと説明されている。一方同型物質である(BEDT-TTF)3(HSO4)2も金属-絶縁体転移を示すが、この塩の転移温度はClO4塩と比較して著しく低い。また構造的にはHSO4塩では対イオンの回転がすでに分子間水素結合により抑制されている。したがってHSO4塩の相転移機構はClO4塩とは異なること、さらにはClO4塩では構造相転移により覆い隠されていた電子的な特徴がHSO4塩では現れていると予想される。

図.(BEDT-TTF)3(ClO4)2(左)、(BEDT-TTF)3(HSO4)2(右)の対イオン・ドナー分子末端六員環の配置。薄い灰色は対イオン、濃い灰色はドナー分子末端のエチレンジチオ鎖を表す。点線はCH…O、あるいはOH…O型水素結合。

 電気伝導度・ESRおよび静磁化率の測定により、HSO4塩が金属-絶縁体転移点において物理量の不連続的な跳びを示すことが明らかになった。これらは転移が一次相転移であることを示しているが、これは示差走査熱測定で得られた転移点における潜熱の存在により確認された。この結果はClO4塩が転移点で電気伝導度・ESR線幅・スピン磁化率がいずれも連続的に変化することから二次相転移的であることと対照的である。ドナー分子の水素、あるいは対イオン間の水素結合部位をそれぞれ重水素化した試料を合成し、転移温度を軽水素体と比較したところ、転移温度の上昇は重水素化の部位によらず、水素結合の同位体効果がほとんど見られなかったことから、転移に対イオン間の水素結合が直接関与していないことも明らかになった。また転移における構造変化の寄与を評価する目的で、転移温度前後の結晶構造解析を行った。しかしながら得られた構造は室温で乱れが見られたドナー分子末端の六員環の配座が秩序化した以外には明白な差は認められなかった。またこの配座の秩序化は転移温度以上で既に起こっており、転移の直接の原因ではないことが示された。さらに絶縁体相の構造をもとに強結合近似バンド計算を行ったところ室温とほぼ同じ形状のFermi面が出現したことから、この転移がClO4塩の場合のような構造変化によるバンド絶縁体化によるものではないことが示された。

 この塩は金属相において大きなPauli磁化率を与えることから、その転移機構には電子相関の寄与が考えられる。そこで三サイト系に対するHubbardハミルトニアンを解析的に解くことにより、三量体構造を有する電子系における有効オンサイトクーロン反発を見積もった。その結果三量体の場合にも二量体の場合と同様、有効オンサイトクーロン反発はユニット内の分子間移動積分に比例するが、二量体の場合と比べてその大きさはに抑制されることが明らかになった。低温X線結晶構造解析による分子面方向と横方向の熱膨張率の違いにより、温度低下に伴う熱収縮の効果は三量体間と比較して三量体内により顕著に表れるため、有効オンサイトクーロン反発と三量体間の移動積分との比が大きくなり、これが系の絶縁化を引き起こすという図式により、この塩の相転移機構を半定量的に説明することができた。

審査要旨

 有機化合物を構成要素とする分子固体は従来、絶縁体・非磁性体とみなされてきたが、近年分子性金属・超伝導体・強磁性体がそれぞれ見出されるなど、有機分子集合体の物質設計・開発研究は著しい進展を見せている。中でも、分子固体に特有な電子構造上の特徴として、比較的大きな電子相関を連続的に変化・調節しうる点が指摘され、最近関心を集めている。これら分子性固体の特徴を最大限に発揮させる上で、構成分子の適切な分子設計が肝要なことはいうまでもないが、それに加えて、結晶中における分子配列をいかに制御するかは、現時点での最大の課題となっている。

 このような状況を踏まえ、申請者は本論文の第一章である緒論において、1)結晶内で周期的分子配列を有するラジカルイオン塩の対イオン系に水素結合を導入することにより、結晶内での分子配列・電子構造を制御すること。2)さらにこのような水素結合系により、結晶内における分子回転などの内部自由度に起因する構造相転移を抑制し、それにより相転移に覆い隠された電子相関の本質を解明することの2点を、目標として掲げている。

 第二章においては第一の観点から、まず、水素結合性有機アンモニウムイオンを対イオンとし、dmitという配位子をもつニッケル錯体Ni(dmit)2の幾つかのイオンラジカル塩が合成された。さらにこれらの塩の水素結合様式について、X線結晶構造解析に基づく詳細な検討がなされた。ここで特筆すべきことは、水素結合パターンの予測に基づいた結晶構造が設計どおり出現した点にある。この成果は、「分子間に適切な相互作用を導入することにより、望みどおりの結晶構造を実現する」というクリスタルエンジニアリングの手法が、分子性導体の設計にも有効であることを示すものといえる。また、対イオンにモルフォリニウムイオンを含む系においては、窒素-硫黄間に極めて強い水素結合が形成されたことにより、本来平面であるNi(dmit)2分子が著しくたわむ現象を見出している。これは「水素結合により構成分子の電子構造にも大きな摂動を与えうる」ことを示す格好の例となろう。

 第二章で開拓したイオンラジカル塩の中には、しばしば伝導部位を構成する分子が三倍周期構造を示すものが見受けられた。第三章において申請者は、このような構造を有する系の電子構造についてさらに知見を得るべく、新たな物質探索を行なっている。その結果、有機ドナー分子BEDT-TTFのラジカルイオン塩(BEDT-TTF)3(HSO4)2が、三倍周期構造をもつ導電体における電子相関を検討する上で、最適な系であることを見出した。この錯体中で硫酸水素イオン(HSO4)は、水素結合により2量体を形成しているところに特色がある。一方、非水素結合性の過塩素酸イオン(ClO4)を対イオンとする(BEDT-TTF)3(ClO4)2を対照化合物として選び、両者の相転移機構を結晶構造解析・電気伝導度・静磁化率・電子スピン共鳴・熱測定と多岐にわたる測定により、詳細に比較検討している。さらに硫酸水素酸の重水素置換体も、比較の対象として合成された。

 これら2つのイオンラジカル塩は、共に金属-絶縁体転移を起こすことが明らかになった。そこで室温金属相および低温絶縁相の結晶構造解析を行い、見事にそれらに成功している。まず両塩にみられるBEDT-TTF分子の両端の非平面六員環の配座の乱れを、cavityという新しい概念を導入しつつ解析し、次いで結晶内分子配向の変化を、電子スピン共鳴におけるg値の角度依存性の測定、および拡張ヒュッケル法強結合近似に基づくバンド構造計算により、実験的・理解的に検討した。その結果、両塩の相転移機構に大きな差異があることを見出している。過塩素酸塩では、転移点近傍で分子配向に変化が起こる。この構造相転移により、分子間の重なりが減少するため、半金属のバンド幅が狭まり、状態密度にギャップが生じ、金属-絶縁体転移が引き起こされている。これに対し硫酸水素塩では、転移の前後で配座の乱れの消失・分子配向の変化は全く認められず、この塩の相転移機構は構造相転移由来のものではないことが、明確に示された。

 さらに第三章の後半では、硫酸水素塩の相転移機構を電子相関に求むるべく、結晶構造を特徴付ける三量体ユニットに対する基底状態エネルギーを、ハバードハミルトニアンを解析的に解くことで求め、有効オンサイトクーロン積分の計算を行っている。この結果から三量体においては、有効オンサイトクーロン反発がユニット内の移動積分に比例すること、および移動積分の値が同じであれば、三量体における有効オンサイトクーロン反発の値は二量体の場合のとなることを明らかにしている。この結果および、格子定数の温度変化の異方性から、硫酸水素塩の相転移機構は、「温度低下による結晶の異方的な熱収縮により三量体内外の移動積分比が変化し、その結果電荷の局在化が生じたものである」と結論付けている。さらに過塩素酸塩で見られた構造相転移が、硫酸水素塩で抑制された原因については、「対イオン間に水素結合が形成されたため、対イオンの回転自由度が抑え込まれ、本来それと連動し起こるはずのドナー分子の配向変化が抑制されたことによる」と理由づけている。

 そもそも分子性金属・超伝導体開発の過程において金属-絶縁体相転移は、しばしば見られる現象であるが、系の複雑さゆえに相転移の原因についての議論はともすれば避けられる傾向にあった。こうした中で申請者は、この困難な課題に正面から取り組み、種々の実験および理論的手段を多面的に用いることにより、「電子相関の変化が主因となって金属相から一重項状態絶縁相への転移が引き起こされること」を、理論的・実験的に解明した姿勢は高く評価される。

 ところで、現時点での物性科学の挑戦的課題の一つとして、「複数の機能をもつ物質を開拓し、その機能を固体内ダイナミックスを通じ制御する方法論の確立」が挙げられている。このような展望の中で本研究の成果は、その基盤の一角を担う重要なものとして、位置付けることができよう。本研究を、該当分野の関連研究にも大きく貢献する内容として完成させた申請者の着眼点、ならびに優れた論理構築力は、いずれも審査員に感銘を与えるものであった。

 以上のことから、審査委員会は本論文を博士(学術)の学位授与の対象として十分なものであると判定した。

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