有機化合物を構成要素とする分子固体は従来、絶縁体・非磁性体とみなされてきたが、近年分子性金属・超伝導体・強磁性体がそれぞれ見出されるなど、有機分子集合体の物質設計・開発研究は著しい進展を見せている。中でも、分子固体に特有な電子構造上の特徴として、比較的大きな電子相関を連続的に変化・調節しうる点が指摘され、最近関心を集めている。これら分子性固体の特徴を最大限に発揮させる上で、構成分子の適切な分子設計が肝要なことはいうまでもないが、それに加えて、結晶中における分子配列をいかに制御するかは、現時点での最大の課題となっている。 このような状況を踏まえ、申請者は本論文の第一章である緒論において、1)結晶内で周期的分子配列を有するラジカルイオン塩の対イオン系に水素結合を導入することにより、結晶内での分子配列・電子構造を制御すること。2)さらにこのような水素結合系により、結晶内における分子回転などの内部自由度に起因する構造相転移を抑制し、それにより相転移に覆い隠された電子相関の本質を解明することの2点を、目標として掲げている。 第二章においては第一の観点から、まず、水素結合性有機アンモニウムイオンを対イオンとし、dmitという配位子をもつニッケル錯体Ni(dmit)2の幾つかのイオンラジカル塩が合成された。さらにこれらの塩の水素結合様式について、X線結晶構造解析に基づく詳細な検討がなされた。ここで特筆すべきことは、水素結合パターンの予測に基づいた結晶構造が設計どおり出現した点にある。この成果は、「分子間に適切な相互作用を導入することにより、望みどおりの結晶構造を実現する」というクリスタルエンジニアリングの手法が、分子性導体の設計にも有効であることを示すものといえる。また、対イオンにモルフォリニウムイオンを含む系においては、窒素-硫黄間に極めて強い水素結合が形成されたことにより、本来平面であるNi(dmit)2分子が著しくたわむ現象を見出している。これは「水素結合により構成分子の電子構造にも大きな摂動を与えうる」ことを示す格好の例となろう。 第二章で開拓したイオンラジカル塩の中には、しばしば伝導部位を構成する分子が三倍周期構造を示すものが見受けられた。第三章において申請者は、このような構造を有する系の電子構造についてさらに知見を得るべく、新たな物質探索を行なっている。その結果、有機ドナー分子BEDT-TTFのラジカルイオン塩(BEDT-TTF)3(HSO4)2が、三倍周期構造をもつ導電体における電子相関を検討する上で、最適な系であることを見出した。この錯体中で硫酸水素イオン(HSO4)は、水素結合により2量体を形成しているところに特色がある。一方、非水素結合性の過塩素酸イオン(ClO4)を対イオンとする(BEDT-TTF)3(ClO4)2を対照化合物として選び、両者の相転移機構を結晶構造解析・電気伝導度・静磁化率・電子スピン共鳴・熱測定と多岐にわたる測定により、詳細に比較検討している。さらに硫酸水素酸の重水素置換体も、比較の対象として合成された。 これら2つのイオンラジカル塩は、共に金属-絶縁体転移を起こすことが明らかになった。そこで室温金属相および低温絶縁相の結晶構造解析を行い、見事にそれらに成功している。まず両塩にみられるBEDT-TTF分子の両端の非平面六員環の配座の乱れを、cavityという新しい概念を導入しつつ解析し、次いで結晶内分子配向の変化を、電子スピン共鳴におけるg値の角度依存性の測定、および拡張ヒュッケル法強結合近似に基づくバンド構造計算により、実験的・理解的に検討した。その結果、両塩の相転移機構に大きな差異があることを見出している。過塩素酸塩では、転移点近傍で分子配向に変化が起こる。この構造相転移により、分子間の重なりが減少するため、半金属のバンド幅が狭まり、状態密度にギャップが生じ、金属-絶縁体転移が引き起こされている。これに対し硫酸水素塩では、転移の前後で配座の乱れの消失・分子配向の変化は全く認められず、この塩の相転移機構は構造相転移由来のものではないことが、明確に示された。 さらに第三章の後半では、硫酸水素塩の相転移機構を電子相関に求むるべく、結晶構造を特徴付ける三量体ユニットに対する基底状態エネルギーを、ハバードハミルトニアンを解析的に解くことで求め、有効オンサイトクーロン積分の計算を行っている。この結果から三量体においては、有効オンサイトクーロン反発がユニット内の移動積分に比例すること、および移動積分の値が同じであれば、三量体における有効オンサイトクーロン反発の値は二量体の場合のとなることを明らかにしている。この結果および、格子定数の温度変化の異方性から、硫酸水素塩の相転移機構は、「温度低下による結晶の異方的な熱収縮により三量体内外の移動積分比が変化し、その結果電荷の局在化が生じたものである」と結論付けている。さらに過塩素酸塩で見られた構造相転移が、硫酸水素塩で抑制された原因については、「対イオン間に水素結合が形成されたため、対イオンの回転自由度が抑え込まれ、本来それと連動し起こるはずのドナー分子の配向変化が抑制されたことによる」と理由づけている。 そもそも分子性金属・超伝導体開発の過程において金属-絶縁体相転移は、しばしば見られる現象であるが、系の複雑さゆえに相転移の原因についての議論はともすれば避けられる傾向にあった。こうした中で申請者は、この困難な課題に正面から取り組み、種々の実験および理論的手段を多面的に用いることにより、「電子相関の変化が主因となって金属相から一重項状態絶縁相への転移が引き起こされること」を、理論的・実験的に解明した姿勢は高く評価される。 ところで、現時点での物性科学の挑戦的課題の一つとして、「複数の機能をもつ物質を開拓し、その機能を固体内ダイナミックスを通じ制御する方法論の確立」が挙げられている。このような展望の中で本研究の成果は、その基盤の一角を担う重要なものとして、位置付けることができよう。本研究を、該当分野の関連研究にも大きく貢献する内容として完成させた申請者の着眼点、ならびに優れた論理構築力は、いずれも審査員に感銘を与えるものであった。 以上のことから、審査委員会は本論文を博士(学術)の学位授与の対象として十分なものであると判定した。 |