本論文は、日本近世の寺社境内とそこに所在した建築を通じて、近世社会と寺社との関係を具体的に論じることを目指したものである。 本論文は、境内や建築の形態面の変容過程という現象的な変容過程を追った網羅的・通史的な内容ではなく、寺社境内の空間形成に携わった人や集団が、いかなる条件のもとで何を指向しどのようなものを創り上げたかといったプロセスを、顕著な性格を有する7つの事例から解明しようとしたものである。 日本近世は、中世的世界の解体と近代化が同時に進行した時代と捉えることができる。本論文では、近世が有するこの二面性に着目して、近世社会の各時期において、境内や建築に表出した歴史的・社会的課題を抽出している。検討の対象とした各事例は、そうした課題への対応を最も顕著に現しているもので、その意味で本論文は、網羅的・通史的ではないが、近世における寺社境内空間を総括的に論じることを目指したものとなっている。 本論文の第1章「中世寺社境内の解体と近世寺社境内の出現」は、江戸浅草寺境内を例にとって、寺社境内の中世的な構造が近世権力によってどのように変革されたのかを、寺社の内部組織の変容過程と寺社が所在する周辺環境の形成・成長の両者と関係付けながら論じたものである。 近世初期は、寺社組織と周辺環境がともに大きな変容を遂げた時期といえる。中世末には武士勢力と拮抗していた寺社組織は解体され、かつての寺社の支配圏に城下町や近世村落が成立したのである。第1章では、この2つの要因から近世初期に行われた境内造営の内容を検討することで、戦国期の終結から幕藩体制の立ち上げ期において、境内の空間構造に付与された性格を規定した。 第2章「近世巨大寺院造営と幕藩権力」は、近世権力が主導して新規に行われた寺社境内造営を論じたものである。具体的には、近世最大の寺社造営である東叡山寛永寺と歴代権力の統治権の象徴である比叡山延暦寺を事例として、寺社境内造営に込められた政治的意味を解明し、併せてこの時期の境内空間の創造手法を分析したものである。 近世初期に行われた寺社の大量造営は、権力機構による支援を抜きにして語ることはできない。しかし、政治権力の側から造営を検討するという視点は、これまで寺社については等閑視され、造営が有した政治的意味については不明確だった。すなわち第2章は、幕藩権力の確立期であり、同時に寺社の大量造営時代でもあった17世紀中期を対象として、寺社境内造営が有していた社会的な意味を規定したものである。 第3章「寺社建築への法的規制」は、寺社建築形態と法制度との関係を論じたもので、具体的には1668年に発布されその後長く効力を持った三間梁規制を例にとって、法制定の目的と施行によって建築形態が受けた影響を論じている。 ここでは法制度を建築を社会に適合させるための仕組みとして捉え、三間梁規制の発令意図及びその施行対象を幕府権力側からの視点で検討した。この結果、法制度の施行と近世的な建築形態との関係を指摘すると同時に、膨大な建築活動をコントロールしようとする権力像を明示することで、現代まで続く法治社会における建築の在り方の出発点を解明できた。以上第3章は、安定期を迎えた近世社会の秩序と寺社との関係を、法制度を介在させて規定したものである。 第4章「近世的寺院本堂の成立」は、近世本堂に特有の建築的特徴がどのようにして生み出されたかを、寺院を取りまく社会状況に対する寺内組織の対応から読み解こうとしたものである。昭和50年代以降に活発化した「近世社寺建築緊急調査」により、近世寺社が有する建築的特徴は既に解明されている。この章が検証対象とした粉河寺本堂はそこで明らかとなった建築的特徴を兼ね備えたもので、現存本堂の造営(享保期:18世紀中期)にあたっての建築計画の詳細を示す絵図その他の史料が豊富に存在している。 この章では、コンセプトの段階から計画変更を経て実施に至るまでの造営事業の詳細を寺院関係者と視線を合わせて分析することで、近世社会に暮らした人間の側から建築の特徴を説明する手法を提供した。このように、第4章は近世中期に一般化する建築的特徴を有する建築の分析を通じて、成熟した近世社会から時代性の顕著な建築の形式を規定し、同時に今後集積されるであろう近世寺社建築の研究手法を提示したものである。 第5章「建築形式の変容と村落社会」は、神社本殿の造営形態の変遷に着目することで、神社建築の形式が変容していくプロセスを明らかにし、同時に近世中期における村落社会と神社造営との関係を検証したものである。 この章で事例として選択した隠岐島後には、地域性の高い固有な形式をもつ神社本殿建築が広く分布している。従来、この形式が大社造に相似しているため、出雲地方からの影響で古代に成立し伝えられたものと考えられてきた。こうした発想の根拠となる建築形式の単純な発展史観に対して、この章では中世以来数度に渡る造営の状況を明らかにすることで建築形式変容の可能性を指摘し、現在の形式が近世に成立したことを実証した。またこの章では、藩権力が直接実施した17世紀までの体制から、権力と神社組織が介在しながらも事実上の村請制度となった18世紀以降の体制への移行過程の分析から、権力・寺社・村落が一体化していく農村社会における近世の造営システム形成の論理にも言及した。これらの論証の過程では、前身建物を含めた建築の履歴を棟札を用いて明らかにしたが、これは従来は建築遺構の建築年代や造営内容の確認にしか用いられることのなかった棟札の新しい活用手法で、遺構としての建築ではなく、時代の連続性の中で変貌していく建築像を語るための史料論を提示したものである。 以上、第5章は、建築形態変容のメカニズムに言及しながら、近世社会の成熟期といえる18世紀の農村社会における寺社造営について考察し、併せて研究方法の提示を行ったものである。 第6章「近世寺社境内の経営」は、都市近郊の大型寺院境内の用途転換を、経済的側面と造形手法の両面から考察したものである。 18世紀以降、貨幣経済の進展により、幕藩権力が保証した寺社領からの収入だけでは寺社運営に不足をきたし、寺社は現金収入を目指して境内の開発経営に向かっていく。特に広大な本山級巨大寺院境内は城下周辺部の巨大な遊休地となり、その活用は大きな課題となった。この章で検討対象とした護国寺境内はそうした巨大寺院の中でも最も城下中心部から離れた条件の悪い場所に所在し、開発という観点において最も顕著な事例となっている。 この章で明らかにした護国寺境内の開発手法は、広く江戸市中から資金を集めて建築群を建設した後、そこから得られる賽銭を資金提供者に配分するという高度かつ投機的なものだった。また、その空間の造形手法は、畿内の有名巡礼寺院本堂の建築的特徴の一部を抽出し、それを連想させる建築や土地形状を造成するというものだった。 このように第6章は、近世後期以降に巨大寺社の境内が、開発・投機といった経営の対象、いわば「不動産」化していった側面を、運営手法と空間造形手法の両面から明らかにしたものである。 第7章「近世寺社境内の崩壊」は、近世後期以降に顕著となった寺社境内の宅地化の状況を考察したものである。第6章が巨大寺社境内を対象としたものであるのに対して、この章では、浅草寺の子院群を例にとって、都市内部の小型の寺社境内を検討対象としたものである。 寺町を構成するような都市部の小型寺社においては、18世紀以降財政が逼迫し、その打開策として境内の住宅地化が急速に進行した。この章では、寺社の財政状況を検討した後、門前町屋型と借家型という2つの開発手法を中心として、その具体的な内容を明らかにした。加えて、近世の都市政策という観点から、寺社境内の宅地化という状況を位置付ける試みを行った。 近世初期に成立した幕藩体制の権力機構は、基本的には幕末期まで変更されず、その体制下における寺社の地位にも構造的な変化は見られない。しかし、近世社会の成熟は寺社組織の財政状況や都市環境を大きく変え、結果として寺社境内の空間構造も大きく変容した。こうした変容の傾向は、近代以降も継続しており、その意味でこの章が明らかにした境内の様相は、近世寺社境内変容過程の最終局面であり、同時に近代への出発点と位置付けることが可能となっている。 すなわち、本論文の最終章である第7章は、近世初期に設定された寺社境内の枠組がいかにして崩壊へと至ったかを論じると同時に、近代社寺境内成立過程への視座を提供しようとしており、断絶した状況にある近世建築史と近代建築史とを繋ぐ視点を提出しようとしたものである。 |