学位論文要旨



No 213899
著者(漢字) 鏡味,治也
著者(英字)
著者(カナ) カガミ,ハルヤ
標題(和) 地方の創出 : インドネシア国家とバリ地域住民のせめぎあい
標題(洋)
報告番号 213899
報告番号 乙13899
学位授与日 1998.06.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第13899号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 山下,晋司
 東京大学 教授 関本,照夫
 東京大学 教授 船曳,建夫
 東京大学 教授 伊藤,亜人
 東京大学 助教授 中村,雄祐
内容要旨

 本論文は、近代国家が、その国内の地域とそこに暮らす人々を、国土や国民の一部として取り込んでいく過程において、それぞれの地域の人々がどのようにそれに対処し、国のなかでできるかぎり望ましい地位を確保しようとしているのかを、インドネシアのバリ島に暮らす住民の場合を例に論じたものである。広大な領土と多様な文化的伝統をもった民族をかかえて戦後独立したインドネシア共和国にとって、国家統合は存立にかかわる問題であり、政府は、とりわけ民族や宗教の違いに関して、それが分裂の火種にならないよう厳格かつ慎重な政策をとるいっぽう、共通の国民文化の創出をめざした文化政策をとってきた。それにより、国内各地の住民は、みずからの文化的伝統を政治的に主張する道は制限されつつ、それと政府が宣伝する国民文化のあいだの調整を迫られることになる。そうしたなかで、本論が対象とするバリ島の住民のあいだでは、地方行政の単位である州という器のなかに、地域住民の文化的伝統を盛り込むことで、その地位を確保し維持していこうとする動きが見られる。これを、インドネシア国家とバリ島の地域住民のせめぎあいのなかで析出してくる「地方」のかたちととらえ分析したのが本論である。

 国家統合の過程における国家と地域住民のせめぎあいのなかで、本論がとくに考察の対象とするのは、文化の領域における両者のせめぎあいである。それは、共通の国民文化の創出と地域の文化的独自性の主張を両極として展開されるせめぎあいが、国家統合の成否を握る要素のひとつだからであり、本論の序論でその点を理論的に検討している。

 本論第一章では、独立以来のインドネシアの今日にいたる経緯を追いながら、国家に取り込まれていくバリ島の状況を概観し、とくに1970年代以降のスハルト政権下において、地方行政制度が整備されるとともに、文化的な統合についても一元的な政策が展開されるようになる様を指摘して、バリ島の住民が独自の文化的主張を打ち出すようになるその背景を描写している。

 バリ島はオランダ植民地時代から、その独自のヒンドゥー教の信仰と活発な民族芸能によって特徴づけられた地域であった。共和国編入後も、その芸能活動がインドネシアの国民文化の代表として賞賛されるいっぽう、独自の信仰は国内多数派のイスラム教徒やキリスト教徒から迷信あつかいされかねない処遇を受けてきた。そうしたインドネシア国内におけるバリ島やその住民の位置づけを、第二章では全国版週刊誌のバリ関連記事の分析から探っている。

 バリ島の地域社会は、植民地時代から共和国編入、そしてスハルト政権による強力な開発政策のなかで、大きな変革を経験してきたが、そのまとまりの基盤は、地域の慣習を共有する慣習村や灌漑用水組合といった慣習組織に置かれてきた。これらの慣習組織は、それぞれの時代の社会情勢に応じてすこしづつその内容を変化させながらも、地域住民による自治的なまとまりという点は堅持してきた。第三章は著者のバリ島での調査資料をもとに、バリ島住民の地域社会の基本原理とその具体的な形態を描き出している。

 インドネシア国内におけるバリ島住民の特徴となったヒンドゥー教の信仰や芸能活動もまた、この地域社会の基盤である慣習組織と密接に結びついたものである。国家統合に対するバリ島住民の文化的主張は、この宗教、芸能、慣習を焦点にしてなされてきた。共和国編入直後には、ヒンドゥー教の国家公認の宗教としての認知をめざす運動が展開され、1960年代には国の認可がなされて、バリ島住民の宗教における地歩が固められた。本格的な観光開発が開始された70年代には、芸能と観光の調和的な発展が模索されて、国内の観光開発のモデルとされるまでになった。そして地方行政制度の整備が進むようになる70年代後半からは、そのなかでバリの地域社会の独自性を確保することをめざした慣習組織の振興政策が、バリ州政府によって積極的に手掛けられるようになる。そうしたバリ島住民の側からの国家統合への対処のあり方を、第四章では国内のヒンドゥー教の整備推進団体であるヒンドゥー教評議会や、芸能や慣習組織の振興に積極的なバリ州政府の政策や方針をもとに論じる。

 ヒンドゥー教の場合は、国による認知がなされてからは全国的な存在となり、バリ島独自のものというわけにはいかなくなった。それに対して近年バリ州政府が振興しようとしている慣習組織は、バリの地域社会の基盤であり、バリ島住民の文化的主張のまさに礎となりうるものである。州政府はそれを、州レベルで毎年催す「慣習組織コンテスト」を通じて整備し活性化しようとしている。第五章はそのコンテストの模様を記述、分析し、地域社会を国の行政制度と調整しつつそこに「継ぎ木」していこうとする具体的な手立てについて論じる。

 バリ州政府は、70年代末以来文人出身のバリ人が知事の座につき、要人もバリ人が多数を占めるなど、バリ島住民の代表としての性格がその政策に反映されているが、国家の一機関であることにかわりはない。またヒンドゥー教評議会も、やはりバリ人が要職の多くを占めるとはいえ、全国的な組織である。そうした機関がめざす慣習や宗教のあり方は、地域住民の意向とときに抵触し、きしみが生じる。そうした慣習や宗教のあり方をめぐってバリ島住民の生活の場で生じるきしみは、バリ州政府やヒンドゥー教評議会の立場からは調整しきれない、国家と地域住民のあいだにいぜん残る距離を露呈させる。

 そのいっぽうで、国家や州政府の政策が地域社会にまでおよぶようになり、また住民が開発政策の経済的な恩恵をこうむるようになる80年代半ば頃から、衣装や家屋、料理といったもののなかに、バリの地方文化を記号的に表象するようなものが現われて日常的に使われるようになる。これは州政府やヒンドゥー教評議会の方策に触発されるようにして、住民のあいだでもみずからの文化をバリという地方に一般なそれとして受けとめ、生活に取り入れていこうとする動向を示すものと考えられる。第六章は、前述のきしみを描写して、州政府などのめざす方向に地域住民の生活のあり方がそのまま収斂していくものではないことを明らかにするとともに、近年の記号的な文化要素の流行もとりあげて、それが州政府のめざす「地方文化」のあり方と地域住民の地域社会における生活のあり方のあいだをとりもつことで、両者の互いに互いを支えながらの並存が成り立っていると論じる。

 いっぽうバリ人は国内の他の地域へも移り住んできており、首都のジャカルタにはある程度まとまった数のバリ人が住んでいる。そうした首都のバリ人はとくに宗教活動の便宜を計るための互助組織を形成している。第七章ではその組織の形態と活動をとりあげて、地域の慣習に比重をおいたバリ島での文化的主張とは別のかたちの、ヒンドゥー教評議会の推進する改革的な宗教形態により忠実な活動のあり方を描写し、国家に取り込まれるもうひとつのかたちを呈示する。

 首都のバリ人の見せるあり方は、国家統合への対処のかたちが、同じバリ人でもその置かれた状況によって異なることを示し、ひいては国内の他の地域の住民の対処のかたちも、その状況に応じたさまざまなかたちがありうることを示唆する。終章では、インドネシアのなかで複数の州にまたがる広がりを見せるジャワ人や、ひとつの州のなかでも周縁に位置づけられるムラトゥス山地民の、国家政策に対する文化的な対応と比較しながら、バリ島住民のそれの特徴を指摘する。

 バリ島住民は、国内ではヒンドゥー教徒という少数派に属するいっぽう、州のなかではそのヒンドゥー教徒のバリ人がほとんどを占め、文化的な均質性を維持してきた。それを基盤にして州政府の要職も地元のバリ人が占め、地域住民の意向にそうような政策を実施してきた。本論で論じてきた「地方の創出」、つまり「地方」という枠組みのなかに、地域の文化的独自性に根ざしたかたちを盛り込むことで、国家の統合に対処し、それに取り込まれつつも主体的に参画していこうとする、地域住民の試みは、そうしたいくつかの条件が重なってはじめて可能になったと言える。

審査要旨

 本論文は、近代国家がその国内の地域とそこに暮らす人々を取り込んでいく過程において、地域の人々がどのようにそれに対処し、国家のなかでできるかぎり望ましい地位を確保しようとしているかを、インドネシアのバリを事例に論じたものである。鏡味氏は、これを1980年代初頭から1990年代中盤にかけての約15年間、長期・短期の数次にわたるフィールドワークに基づいて、インドネシア国家とバリ島の地域住民のせめぎあいのなかで析出してくる「地方の創出」ととらえ、論じている。

 本論文は、序論と七つの章、および終章からなる。序論では、ナショナリズム論、エスニシティ論、あるいは権力論に関して、クリフォード・ギアツ、ベネディクト・アンダーソン、アーネスト・ゲルナー、内堀基光、ミッシェル・フーコーらによる先行研究に言及しつつ、鏡味氏の立場が述べられている。バリの事例を念頭におきつつ、彼がたどり着く立場は、インドネシアのような多民族国家において地方は国家に従属しつつも、自らの独自性を主張するという立場である。これが本論文の「せめぎあい」というテーマである。

 第一章「インドネシアの国内政策とバリ島」では、独立以来今日にいたる経緯を追いながら、国民国家インドネシアに取り込まれていくバリ島の文化状況を概観し、とくにスハルト体制下においてバリ島の住民が独自の文化的主張を打ち出すようになる背景を記述している。第二章「インドネシアにおけるバリのイメージ」では、インドネシア国内におけるバリに関するイメージを全国版週刊誌である『テンポ』のバリ関連記事の分析から探っている。第三章「バリの村落共同体」では、自らのバリ島での調査をもとに、バリ島住民の地域社会の基本原理とその具体的な形態を描き出している。第四章「バリ州政府の文化政策」では国内のヒンドゥー教の整備推進団体であるヒンドゥー教評議会や、芸能や慣習組織の振興について、バリ州政府の政策や方針をもとに論じている。第五章「慣習組織コンテスト」では1980年代にはじまった慣習村コンテストや潅漑用水組合コンテストなどの模様を記述、分析し、地域社会と国家の行政制度とのせめぎあいの具体的な事例が検討されている。第六章「『地方文化』の生きられ方」では、今日、衣装、家屋、料理などの生活文化の領域においてバリ文化を記号的に表象するものが出現し、バリの地方文化が新しい環境のなかで生きられているという現象が検討されている。第七章「ジャカルタのバリ人」では、首都のジャカルタに移り住んだバリ人の互助組織の形態と活動をとりあげ、地域の慣習に比重をおいたバリ島での文化的主張とは別のかたちのバリ人の生活を検討している。以上を受けて、終章「国家統合と地方住民の文化的主張」では、インドネシアの民族集団のなかで最大の人口をもち、ジャワ島以外にも移住しているジャワ人や周縁に位置づけられるカリマンタンのムラトゥス山地民の国家政策に対する文化的な対応と比較しながら、国民国家インドネシアのなかのバリ島住民の文化的主張を位置づけ、本論文を結論づけている。

 本論文がインドネシアの文化人類学的研究にとってもつ意義は、インドネシアにおいて中央と地方のかかわりが本格化した1980年代初頭から90年代中盤までのスハルト体制下のインドネシアで行われた調査に基づいて、国家と地方と「せめぎあい」を十分なデータをもって記述・分析したことにある。この「せめぎあい」はこの時期にもっとも意義深いテーマであったろう。インドネシアにおいては、この時期より以前にはこのテーマは十分な展開をみていなかったし、国民国家に対する疑問が提出されている今後は複雑な修正を余儀なくされるであろう。こうした意味で、本論文は鏡味味氏が調査を行った時代の産物である。

 以上をふまえたうえで 本論文の学問的貢献は、以下の3点にまとめられる。

 第一に、「地方文化」をなにかそこにある静態的な実体としてではなく、国家の政策との「せめぎあい」のなかで動態的に創られてゆくものとしてとらえた点。とくに、従来の民族誌研究においてあまり顧慮されることのなかった国家の文化政策、それに基づいた行政的制度を細かく調査し、行政人類学とでも呼ぶべき新しい領域を切り開いたという点が特筆に値する。

 第二に、そうしながら、従来、「無意識の慣習」としてとらえられがちだった従来の文化人類学の文化概念に依拠するのではなく、とくに「慣習組織コンテスト」においてみられるような意識化され、育成されてゆく文化に注目し、民族・地方文化の動態的な研究に貢献した点。

 第三に、インドネシア政府の地方文化記録プロジェクトやバリ州政府の慣習法成文化プロジェクトにみられるように文化の書誌性が高まるなかで、インフォーマントからの聞き書きの方法だけではなく、雑誌、新聞、法令文書など従来の人類学においてはあまり取り上げられてこなかった文書資料を取り入れて、民族誌研究のスコープを拡げた点。

 以上の諸点において、本論文は現代バリに関するすぐれた民族誌的研究であり、文化人類学およびインドネシア地域研究に貢献するところ大である。審査委員会においては、用語や表現の問題、より適切な比較の必要性、また地図をつけていないことなど本論文の欠点もいくつか指摘され、出版に際しては改善すべきだとの助言が与えられた。たが、そのような欠点にもかかわらず、本論文は博士論文としての水準を満たしたすぐれた論文であると審査委員が全員一致で認めた。

 審査委員会は,平成10年4月25日に論文提出者に対し,学位請求論文の内容及び専攻分野に関する学識について口頭による試験を行った結果,本人は博士(学術)の学位を受けるに十分な学識と研究を指導する能力を有するものと認め,合格と判定した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51079