内容要旨 | | 大気中に存在するメタンは下層大気の放射収支および光化学において重要な役割を果していることから,近年の大気中のメタン濃度の増加の影響が懸念されている.濃度増加の原因を解明し,人間活動の影響を評価するためには,地球規模でのメタンの収支を正確に評価する必要がある.最近の収支見積り(IPCC,1994)によれば,水田を含む湿地は全発生量の約1/3を占め,また酸化的な土壌は大気中のメタンの年々の増加量に匹敵する吸収源であるとされている.しかし,これらの見積りの不確定幅は大きく,さらに観測データの蓄積が必要である.従来,地表面でのメタンフラックスの測定に用いられてきた閉鎖型チャンバー法は,測定環境を乱す可能性があるうえ,測定対象領域が1m2以下と狭いため,フラックスの非一様性の大きな場所での測定には不適当である.チャンバー法と他の測定手法との比較検討もほとんど行われていない.そこで本研究では,接地層内のガスの乱流輸送量を測定する方法(微気象学的測定法と総称する)を用いて,自然条件下で,しかもチャンバー法に比べて広い領域を対象とするメタンフラックスの測定法を開発し,その方法をメタンの発生源や吸収源に適用することにより,陸上生態系と大気間のメタンの交換過程に関する新たな知見を得ることを目的とした.メタンに関しては,応答の速いガス分析計が未開発のため,微気象学的測定法のなかで最も信頼性が高いとされる渦相関法の適用は困難である.このため,本研究では接地層内のガス濃度の鉛直勾配の時間平均値からガスフラックスを測定する方法を採用した.(1,2章) 濃度勾配からガスフラックスを求めるためには,ガス濃度の鉛直勾配の時間平均値の正確な測定と渦拡散係数K(積分形では拡散速度とよぶ)の正確な評価が重要である.本研究では,主として空気力学的方法を用いてKを評価した.従来の空気力学的方法では,Kの評価に必要な摩擦速度u*や安定度パラメータを水平風速や仮温位,比湿の鉛直勾配から求めていたが,本研究では渦相関法で測定したu*および安定度を用いることにより,評価精度の向上を図った.改良した空気力学的方法で評価したKを用いて水田のCO2フラックスを求め,渦相関法で測定したCO2フラックスと比較した結果,静穏な夜間(u*が約0.1ms-1以下の場合)をのぞいて両者はよい一致を示し,この方法で評価したKの精度が確認された. 接地層内のメタンの鉛直濃度勾配は,メタンの強い発生源である水田上でも日中は数十ppbv m-1の大きさである.この小さな濃度勾配を野外で連続的に測定するため,非メタン炭化水素および水蒸気の影響を除去するための前処理部を装備した非分散型赤外線分析計を使用した.本研究の前期には,絶対値型の分析計を用いて2つの高度から吸引した空気を交互に分析した.野外での分析計の性能やデータの処理法を検討することにより,30分間平均値で5ppbv程度のメタンの濃度差の検出が可能になった.本研究の後期には,2つのサンプルの濃度差を直接測定する差動型に変更し,濃度差測定の精度がさらに向上した.(第3章) 1993年から1995年の水稲栽培期間に,茨城県谷和原村の水田でメタンフラックスの観測を実施した.群落上と群落内部のメタン濃度の時間変化および鉛直分布を測定した結果,メタン濃度は高度が低くなるとともに増加し,とくに群落内部での濃度増加と時間変動が著しいこと,群落内外のメタンの濃度差は摩擦速度,すなわち群落面の摩擦応力の増加とともに減少することがわかった.空気力学的方法で求めた晴天日のメタンフラックスは,午後の早い時間帯に極大値を示し,夜間には小さくなるという,地温や摩擦速度と類似した日変化を示した.風速の変動が小さな日や曇天日のフラックスの日変化などを含めて検討した結果,メタンフラックスの日変化は主として地温の影響を受けており,摩擦速度の影響が重なっていると推定された.3年間のほぼ連続した観測で得られた水田からのメタンの日発生量は40〜370mgm-2のd-1の範囲にあり,地温の長期的な変化と湛水状態の変化に対応した季節変化を示した.すなわち,メタンフラックスは中干し(水稲の栽培中期に行われる一時的な落水)まで徐々に増加し,中干し期間中に一時的に減少した.中干し終了後は再び増加し,登熟初期にかけて高いレベルが続き,収穫前の落水時に大量の放出が見られた後は,徐々に低下した.このようなメタンフラックスの大きさとその季節変化は,化成肥料のみを施用した水田で,チャンバー法を用いて行われた既往の研究結果とほぼ一致した.湛水期間のメタンの日発生量は日平均地温とともに指数関数的に増加する傾向が認められ,この関係から求めたQ10の値は3.3から4.7と,年ごとにやや異なった.各年の日発生量と地温との関係を用いて推定した水稲栽培期間のメタンの総発生量は,低温であった1993年は8.7gm-2,高温であった1994年は12.5gm-2,1995年は平均地温が1994年より1.5℃低かったにもかかわらず17.7gm-2であった.1994年と1995年の差は,湛水深の違いによる地温の日変化の振幅の差と,中干し期間中の天候の違いによる中干し後の土壌の還元状態の差が原因と考えられた.空気力学的方法と閉鎖型チャンバー法によるメタンフラックスの比較測定の結果によれば,風上側の各区画からの寄与を考慮すれば両者は概略で一致した.ただし,チャンバー法によるフラックスは,制御環境下での測定を反映して,空気力学的方法によるフラックスに比べて時間的な変動が小さかった.本研究は微気象学的測定法を水田でのメタンフラックスの長期連続測定に適用したほぼ最初の例であり,本研究により微気象学的測定法によるメタンフラックスの測定の有効性が示された.(第4章) メタンの濃度勾配から土壌によるメタンの吸収フラックスが測定可能かどうかを検討するため,茨城県つくば市の草地で観測を実施した.地表付近のメタン濃度の鉛直分布を詳細に測定した結果,日中は有意なメタンの濃度勾配は観測されなかったが,夜間の静穏時に,高度0.7m以下で草地によるメタンの吸収に対応する濃度勾配が観測された.メタンの濃度勾配はCO2の濃度勾配と逆向きで,その大きさはほぼ比例しており,また夏季だけでなく表層地温が10℃以下に低下した12月にも認められた.メタンの濃度勾配が観測された静穏な夜間には,水田での観測で用いた空気力学的方法を適用することは困難なため,メタンとCO2の濃度勾配の比に渦相関法で測定したCO2フラックスをかけて,夜間平均のメタンフラックスを算出した.この方法で求めた4月,10月および12月の夜間のメタンの吸収フラックスは10〜14ngm-2S-1で,季節による差は認められなかった.この吸収フラックスの大きさは,チャンバー法を用いて温帯草地で実施された既往の測定結果と同程度である.土壌によるメタンの吸収は,分解層へのメタンの供給が制限因子となっているとの報告があることから,チャンバーを使わずに自然状態でフラックスを評価できたことは有意義である.ただし,日中の濃度勾配を測定するためには0.1ppbv以上の濃度分解能が要求されることから,現状ではこの方法の適用は夜間に限られる.(第5章) 本研究で開発した測定法を,自然湿地および間断潅漑を実施している水田のメタンフラックスの測定に適用した.湛水状態にある低層湿原の盛夏期(7月中旬〜8月上旬)のメタンフラックスは約200mgm-2d-1で,低温にもかかわらず,水田と同程度のメタンの発生が観測された.メタンフラックスの日変化は不明瞭で,気温が大きく異なる年次間のフラックスの差も小さかった.これは,湿原が水深1m以上の湛水状態にあり,メタンの生成層である泥炭層の温度変化が小さいことによる.空気力学的方法で求めたフラックスの値はチャンバー法の測定値に比べて24〜40%であった.湿原では水田に比べてメタンフラックスの空間的変動が大きく,またチャンバーの設置にともなって泥炭層からのメタンの放出が助長されることが,両手法間の測定値の大きな差の原因と推定された.また,間断潅漑を実施している水田での観測では,湛水時と落水時との比較やCO2フラックスとの類似性から,落水時には土壌面からの拡散によるメタンの輸送過程が重要となることを示唆する結果が得られた.以上のように,本手法によるメタンフラックスの測定が,さまざまなメタンの発生源に幅広く適用できることが示された.(第6章) 本研究では,微気象学的測定法のひとつである濃度勾配からガスフラックスを求める方法を用いることにより,水田のようなメタンの発生源でのフラックスを自然条件下で,しかもチャンバー法に比べて広い領域の平均的なフラックスを測定することが可能であることを実証した.この方法は,微気象条件とメタンフラックスとの関係の研究や,フラックスの空間変動の大きな自然湿地での測定にとくに有効である.本手法を用いた自然条件下でのフラックスの測定を,チャンバー法による制御環境下での測定と相補的に用いることにより,陸地と大気間のメタンの交換過程の研究の進展に寄与することができる.(第7章) |