近年のコンピュータの発達とあいまった分子軌道計算ソフトの普及はめざましい。分子軌道計算ソフトウェアが黎明期にあった20年前はHartree-Fock法が主流であったが、それに密度汎関数法に基づくソフトウェアが加わったというのが大きな変移である。著者は(1)密度汎関数法と(2)原子の内殻ポテンシャルをノルム保存擬ポテンシャルで置き換えるという2つの特徴を持つ分子軌道計算ソフトウェアLCPSAO(linear combination of the norm-conserving pseudo-potential atomic orbital)を13年間にわたって開発し、ようやく実用研究に耐えるレベルに漕ぎ着けつつある。このソフトウェアは計算対象としては遷移金属・貴金属・重金属の微粒子の計算に適し、計算方法としてはベクトル並列型スーパーコンピュータに適する。商用ソフトウェアの中には同じ特徴をもつものはない。本論文はこのソフトウェアを触媒モデル系の計算に適用して得られた知見についてまとめたものである。 非常に小さな微粒子であるマイクロクラスターは、原子・分子のミクロの世界と巨視的なバルクの世界との中間であるメゾスコピックな領域に属する物質の形態で、新たな物性を現出するものとして期待されている。原子の電子構造はs,p,d,…の殻で成り立っているが、これと同様に主量子数と方位量子数で識別できる離散的な電子構造がマイクロクラスターにも見られる。これを殻構造といい、マイクロクラスターの特徴の1つである。殻構造は原子の集まりである微粒子が全体として1つの量子井戸のようにはたらくために出現する電子状態である。そのためマイクロクラスターを「大きな原子」と呼ぶこともある。 Pt微粒子は触媒としてよく用いられる物質である。Pt微粒子に水素を吸着させた系では水素吸着量の多少にかかわらず、フェルミレベルの上6〜10eV付近に新たなピークが表れることがXANES(x-ray adsorption near edge structure)の実験から判っていた。このピークが何に由来するものかを調べるため、この系をPt13とH原子によりモデル化しLCPSAOで計算を行った。その結果、Ptの6s電子とHの1s電子が主となって殻構造を作ること、XANESで検出されたピークは殻構造の4p,3f,3g状態に対応することが明らかになった。今までに知られていたマイクロクラスターの殻構造は主としてアルカリ金属と貴金属のものでその元素のもつs電子で形成されるものと考えられていた。遷移金属であるPtも殻構造をとり、水素はPtに吸着するときに分子結合的なPt-H結合を形成するのではなく、殻構造に電子を供給するという形をとる、という新たな知見が得られた。 Pt13クラスターは異性体として正二十面体構造、面心立方型構造、六方最密型構造の3つの可能性がある。このうち正二十面体構造と面心立方型構造のPt13クラスターについて安定構造をPd13と対照しながらLCPSAOで求めた。安定構造を決めるための要因として(1)密度汎関数法の交換-相関ポテンシャルによる違い、(2)スピン分極の影響、(3)スピン-軌道相互作用、(4)ヤーン・テラーの効果、の4つを考慮した。密度汎関数法の交換-相関ポテンシャルの汎関数形には局所的なものとより精度の高い非局所的なものがあるが、HOMO(highest occupied molecular orbital)とLUMO(lowest unoccupied molecular orbital)とのエネルギーの差の小さいPd13クラスターに於いて顕著な違いが見られた。スピン分極は大きい方が安定(S=3〜4)ではあるが、殻構造によるエネルギー準位のギャップを越えることはなかった。ヤーン・テラーの効果は0.001Hartreeのオーダーで小さい。殻構造は対称性の高いもの程顕著になるため、ヤーン・テラーの効果と相克するのではないかと考えられる。スピン軌道相互作用の影響はマイクロクラスターに於いてはかなり大きく、Pdで0.01Hartree,Ptで0.1Hartreeのオーダーである。またクラスターの対称性でエネルギーの大きさが異なり、正二十面体構造がより安定化されることが判った。しかしどの効果ももともとの原子の構造によるエネルギーの差を覆すことはなく、Pd13,Pt13クラスターともに面心立方型構造が安定であると推定された。 Pt微粒子と同様にPd微粒子もまた触媒としてよく用いられる。またPdバルクは水素をよく吸蔵し、組成比PdHx x=0.6で相転移(相→相)し、さらに水素を吸蔵させると組成比x=0.75以上で超伝導性を示すようになる興味深い系である。Pd微粒子へ水素が吸着した系をPd13クラスター(正二十面体構造と面心立方型構造)とH原子(1〜28個)でモデル化しLCPSAOで理論計算を行った。Pd13クラスター(正二十面体構造)とH原子(8個)との距離を変化させて全エネルギーを求めたところ図1に示すような2次曲線ではない、非線形な結合エネルギーのカーブが得られた。これはPd13クラスターの殻構造に由来する量子効果であると考えられる。極小値を示す部分をPd-Pd間の距離を変えることにより最適化したところ、極小値毎に平衡距離が異なり、bとラベルされた位置でのPd間隔の膨張率(バルク内Pd-Pdの距離の5%)がPdバルクの相相相転移時の膨張率3.5%に最も近かった。さらに水素原子8個を吸着させたPd13H8クラスターは殻構造の2p状態までが閉殻で、水素原子が6個あるいは10個の状態に比べエネルギー的に安定であることがわかった。その時のH/Pdの原子数比は8/13=0.6158で相相相転移時の組成比に非常に近く、その上無限のPdバルク(面心立方格子)は面心立方型構造のPd13クラスターで完全に分割できることが判明した(図2)ため、面心立方型構造のPd13クラスターについても結合エネルギーと殻構造を調べた。面心立方型構造の13原子クラスターには、正三角形の面8つと正方形の面6つがあるが、正三角形の面については正二十面体構造のeサイトに対応するEサイトが、正方形の面については正二十面体構造のbサイトに対応するB’サイトがそれぞれの面上での結合エネルギーが最も安定であった。EサイトとB’サイトは面心立方格子バルク中では等価で、立方対称なサイト(o-site)と呼ばれる従来からPdの水素吸蔵時のHの位置と推定されていた場所にほぼ等しい。Eサイト、B’サイトへの水素吸着ではどちらもPd-Pd間の膨張は見られないが、正三角形の面上での正二十面体構造のbサイトに対応するBサイトでは、PdHバルクの相→相転移時の膨張率とほぼ等しい3.8%の膨張が計算された。これらのことからPdバルクに水素が吸蔵されるメカニズムとして、初め等価なo-site(EサイトまたはB’サイト)にランダムに水素原子がつき、Pd/H比が13/8になった段階で「13原子の面心立方型構造のクラスター」の結晶に変化し、Bサイトへの吸着が始まることにより大きく膨張する、という仮説を立てることができる。 触媒系は複雑で大きいので常に対象としている系全体をそのままモデル化して計算機でシミュレートすることは不可能である。そこで興味の対象を部分的に切り出してきてクラスターモデルを構築するという手法が触媒系の理論計算では従来から取られてきた。しかしこの方法には(1)サイズ効果、(2)ダングリングボンド、という2つの問題がある。たとえば表面と吸着種との相互作用を見るために表面を数原子のクラスターでモデル化しても、小さなクラスターは表面としての物性よりもマイクロクラスターとしての物性を示し、その程度はクラスターの大きさに依存する。これをサイズ効果という。また表面であれば表面にある原子以外は結合の相手を持つ筈であるが、クラスターモデルでは表面すべてが不対電子をもつことになるわけで、これらの状態がHOMO,LUMOの電子状態に影響を及ぼすことも考えられる。この2つの問題を回避するためLCPSAOでは以下の式で示す有効モデルポテンシャルを採用している。 をクラスターを取り囲むべき原子の位置にそれぞれ置くことにより(図3)、表面状態を近似することができる。この方法を用いてPt(111)/CO,Pt(111)/NO,W(110)/CO,W(110)/NO系をモデル化して電子状態を計算し、紫外光電子分光法による実験データと比較し凡その一致を得た。また金属-吸着種間の距離を変えて得られた全エネルギーから計算できる、金属-吸着種間の伸縮振動数は赤外線分光法による実験データと概ね一致した。 これら4例のLCPSAOを用いた分子軌道計算は、従来なされてきた触媒系の理論計算をより現実の系に近づけた点で意義深い。またこれらの計算を通して触媒系の化学結合を見るメゾスコピックな視点を確立できたという点で新規性があると考える。 図1 Pt13クラスターと水素原子の距離と結合エネルギー図2 面心立方型格子の13原子クラスターによる分割図3 Pt(111)/COの有効モデルポテンシャルによるクラスターモデル |