学位論文要旨



No 213904
著者(漢字) 信定,克幸
著者(英字)
著者(カナ) ノブサダ,カツユキ
標題(和) 水素分子-希ガス原子系における衝突誘起解離過程の量子力学的研究
標題(洋) Quantum mechanical studies of collision-induced dissociation in the system of hydrogen molecule and rare-gas atom
報告番号 213904
報告番号 乙13904
学位授与日 1998.06.22
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13904号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 市川,行和
 東京大学 教授 山下,晃一
 東京大学 教授 山内,薫
 東京大学 教授 太田,俊明
 東京大学 教授 永田,敬
内容要旨

 原子や分子同士の衝突によって引き起こされる反応素過程は物質変化の基本であり、これまでに非常に多くの研究がなされてきた。理論的な立場から言えば、量子力学が誕生して以来、量子力学による反応素過程の理解が進められ、古典力学には見られない多くの興味深い量子力学的現象を見い出してきた。現在に至っても、反応素過程の量子力学的研究は続いており、むしろその勢いは増している。反応素過程の量子力学的研究が始まった当初は、非常に簡単化されたモデルの範囲内でしか反応過程を理解することができなかった。多くの場合、このようなモデル系は定量的には信頼できるものではなく、定性的にも反応素過程の本質を与えないことも少なくはなかった。しかし最近では、原子・二原子分子(三原子系)における反応素過程だけではなく、分子同士、原子と多原子分子の衝突系(多原子系)の複雑な反応素過程を定量的に理解出来る段階にまでなってきた。ところが現在の反応素過程の研究では、興味の対象が分子の回転、振動遷移過程、及び組み替え反応(化学反応)に集中し、その際分子の振動状態はそれほど高い状態まで考慮に入れないことが多い。これは単純に振動状態を含めれば含めるほど、計算すべき振動、回転量子状態が増加し、計算を実行することが困難になるからである。現在の計算機能力を最大限に使っても高振動状態を含む反応素過程を完全に理解することは容易ではない。ましてや、衝突により引き起こされる分子の解離過程(A+BC→A+B+C)には解離連続状態まで含まれているので、その量子論的研究は格段に難しくなる。しかしながら、高振動状態、さらには解離状態が関与する反応素過程には非常に多くの興味深い問題が隠されていることも事実である。そこで、本研究においては解離過程を量子論的に理解することを試みた。本研究においては以下に示す、希ガス原子の衝突による水素分子の解離過程

 

 について研究を行った。ここでRgはヘリウム原子又はアルゴン原子を表わし、vは初期振動量子数を表わす。この水素分子・希ガス原子系では、解離過程が起こるような高エネルギー衝突の場合、組み替え反応は起こらず、さらに希ガス原子と水素分子間の相互作用ポテンシャルは単調な短距離斥力ポテンシャルである。この条件のために、他の衝突解離系に比べれば理論的に取り扱いやすい系と言える。

 上述したように、解離過程の量子論的研究は十分に行われておらず、既存の理論的手法をそのまま適用することが出来ないので、本研究に即した理論的手法の開発が必要となる。解離を考える場合、非常に多くの回転、振動状態を取り扱わなければならないが、これら全ての状態を含めて厳密な理論計算を行うことは事実上不可能である。そこで、Infinite-Order-Sudden(IOS)近似を導入する。この近似では入射軸に対して分子軸は衝突の途中で回転しないと考える。解離が起こるような高エネルギーでは分子の回転周期に対して衝突時間の方が十分に短く、また今回の衝突系の様に単調な短距離斥力ポテンシャルの場合には、IOS近似は比較的有効に働くと考えられる。この近似を導入すれば、回転運動に関する取り扱いが容易になり、計算に含めるべき非常に多くの状態を減らすことができる。また、解離過程には散乱された粒子と分子の解離状態の二つの連続状態が存在する。二重連続状態を含む散乱問題は、未だ十分に議論されておらず、解離過程の量子論的研究においても大きな問題となっている。本研究ではこの問題は超球座標と呼ばれる座標系を使うことによって、計算上は一つの運動自由度のみが連続状態を形成する通常の散乱問題に帰着することにした。シュレディンガー方程式を解くには、超球座標上で直接、波動関数を伝播する方法を使った。

 先ず、He+H2の解離ダイナミックスを明らかにする。理解を助けるために、解離過程を次の様に二種類の機構に分ける。ヘリウム原子はあらゆる角度から水素分子に衝突することが出来るが、ヘリウム原子が分子軸に対して垂直の方向から衝突する場合と、ヘリウム原子が分子軸方向から衝突する場合に大別する。直観的に考えると、前者の衝突ではヘリウム原子は二つの水素原子を引き伸ばすように解離を起こし、後者の衝突では分子を圧縮しその反動を利用して解離を起こすと考えられる。これを本研究ではそれぞれ、拡張型解離と、圧縮型解離と呼ぶことにする。このように解離過程を二種類に大別すると、解離を効率的に起こすためには、拡張型解離の方が有利であることが分かった。特にvが小さい時にこの傾向は顕著に現われ、v〜0の場合は拡張型解離でなければ解離はほとんど起こらなかった。これは圧縮型解離では3つの原子が一直線上にあるために、ヘリウム原子が水素分子に衝突し圧縮した後に、その反動で跳ね返ってきた水素原子と多重衝突を繰り返し、ヘリウム原子の並進エネルギーが効率的に水素分子の振動エネルギーに分配されないからである。特にv〜0の時は水素分子の核間距離が短いために、ヘリウム原子はより一層水素分子に近付かなければならず、多重衝突を引き起こしやすくなる。

 図は解離断面積のエネルギー依存性を全エネルギー(振動エネルギー+並進エネルギー)に対して描いたものである。エネルギーの増加に伴い、解離断面積も増加していることが分かる。また、vが高い程、解離が起こりやすいことが見てとれる。これは全エネルギーが一定であれば、そのエネルギーをヘリウム原子の並進運動ではなく、分子の振動運動に分配したほうが効率良く解離を起こせることを意味している。この現象は振動による解離促進と呼ばれており、過去の衝突解離の研究でも指摘されている。更に、興味深いことに解離断面積の立ち上がりの位置は強くvに依存しており、vが小さくなるに従って高エネルギー側にシフトしていることが分かる。(本研究では、各vに依存した立ち上がりの位置を解離しきい値と呼ぶことにする。)水素分子の解離エネルギーは4.75eVであるから、エネルギー的には全エネルギーが4.75eVを超えれば、解離を起こすことは可能である。しかしながら図は、vが小さくなるに従って解離エネルギー以上の余分なエネルギーが必要となることを意味している。v=9では余分なエネルギーはほとんど必要としないが、v=0では余分なエネルギーをかなり必要としている。これは今回の衝突系のポテンシャル面では、単調な斥力ポテンシャルが支配的だからである。つまり、vが小さいとヘリウム原子が近付けば近付くほど、強い斥力を受けその結果、ヘリウム原子は進んできた経路の逆方向に跳ね返される。一方、vが大きければそれだけ水素分子の核間距離も長く、分子に近付く前に並進エネルギーを振動エネルギーに分配し、解離を起こすことが出来る。また、本研究においては、ポテンシャル面がどの程度解離ダイナミックスを左右するかについての研究も行った。その結果、vが大きい場合にはポテンシャル面の微妙な差はほとんど影響しないが、v〜0の場合は極めてわずかな差でも、解離しきい値近傍のダイナミックスを大きく変えてしまうことが分かった。更に、量子論の結果と古典論の結果との比較も行った。大きなvでは古典論は大局的には量子論を再現している様に見えるが、v〜0の場合には特に解離しきい値近傍で量子論と大きく異なる結果を生み出すことがわかった。傾向としては解離しきい値近傍では、古典論は解離断面積を過小評価してしまう。これは、量子論的に遷移許容であるが、古典的には遷移禁制な領域を、古典論は評価することが出来ないからである。

 次にAr+H2の解離ダイナミックスを明らかにする。Ar+H2系でも組み替え反応は起こらず、そのポテンシャル面はHe+H2と同様に単調な斥力ポテンシャルに支配されている。このために、解離のダイナミックスは定性的にはHe+H2と同じ傾向を示し、そのダイナミックスは同様に理解することが出来る。ただし、質量比が異なる点及びポテンシャル面が同一ではない点が、定量的なダイナミックスの差を生み出している。先ず、質量比の違いは、多重衝突に大きな影響を与える。Heに比べるとArは質量が重いので、圧縮型解離において、水素分子をより強く圧縮する傾向にある。このために、多重衝突が起こりやすくなると考えられる。実際にvが小さいと、解離が極端に抑制されてしまうことが分かった。次に、ポテンシャル面の違いが与える影響を考える。Ar+H2のポテンシャル面はHe+H2と比べると、斥力が遠方の領域でも強く、アルゴン原子は水素分子に近付きにくい傾向にある。このために、並進エネルギーを効率的に分子振動に分配することができない。以上のことからAr+H2はHe+H2よりも解離が起こりにくい系であると言える。しかしながら、エネルギーが非常に高くなると、Ar+H2とHe+H2との差は小さくなってくる。これは解離のダイナミックスが個々のポテンシャル面に依存しなくなり、標的分子の幾何学的な断面積に比例した量で、解離断面積が決定されることを示している。

 この研究では、衝突系の配置を限定することなく、三次元衝突系における解離過程の量子力学的研究を行うことに成功した。その際、通常の理論的手法をそのままの形で解離過程に適用することは無理なので、衝突解離過程の研究に即した理論的手法を確立した。実際にこの理論を水素分子・希ガス原子系の衝突解離過程に適用し、解離のダイナミックスの詳細を明らかにした。また、これまでの衝突解離過程の研究は古典軌道計算によるものが主であったが、今回の研究の結果、解離が起こるような高エネルギー反応でも量子論的研究が非常に重要であることがわかった。

図 初期振動量子数0-9に対する解離断面積のエネルギー依存性
審査要旨

 本論文は原子衝突による分子の解離過程を理論的に扱ったものである。全部で7章から成る。第1章の序論に続いて、第2章では本論文で扱う衝突系の説明および既存の手法を用いて行われた予備的計算が述べられる。第3章では新たに開発された理論的手法の詳細な解説がなされ、さらに第4章で数値計算の詳細が述べられる。その手法を用いてHe+H2およびAr+H2についてなされた計算の結果がそれぞれ第5章および第6章で示され、最後に第7章でまとめがなされる。

 衝突による分子の解離過程はやや高いエネルギーでの衝突では必ず起こる普遍的な過程である。しかし量子論を用いたその理論的研究は種々の理由で困難であった。ここでは、例として希ガス原子と水素分子の衝突をとりあげ、次の三点について工夫をこらすことにより、解離を量子論的に扱う手法を開発した。まず運動の自由度を制限するためにInfinite Order Sudden(IOS)近似を導入する。衝突系の相互作用が短距離型の斥力であり、衝突時間も短いことからこの近似は妥当である。さらに超球座標を使うことで二重連続状態の困難を回避する。最後に得られた運動方程式(偏微分方程式)を基底関数展開によらずに直接数値的に解くことにより、計算の効率を高めた。

 本研究では種々の振動状態にある水素分子について広い衝突エネルギー範囲(全エネルギーにして5-10eV)にわたって衝突解離断面積が得られた。この結果は対応する実験がない現在、衝突解離の程度を定量的に評価するための重要な基礎データとなる。さらにそれだけでなく、本論文では解離の機構についてさまざまな新しい知見が得られた。まず原子の入射方向についての依存性が調べられ、解離に最も有効なのは分子の真横からの衝突であることがわかった。次に水素分子の初期振動状態依存性をみると、初めに高い振動状態にある方が解離が起こりやすい。すなわち同じエネルギーを与えるのなら、入射原子の並進運動に与えるよりも分子の振動状態に与える方が解離には有効である。また、初期振動状態が低いと、エネルギー的なしきい値よりもはるかに大きなエネルギーを与えないと解離が起こらない。これらの性質はいずれも相互作用ポテンシャルの特性から説明することができる。

 これまで衝突解離の理論的研究は主として古典論を用いてなされてきた。本論文ではそれら古典論的手法の妥当性も吟味された。それによると、解離のしきい値付近では量子論と古典論の結果が大きく異なり、特に初期振動状態が低いときにその違いが顕著になる。すなわち、どれだけエネルギーを加えれば解離が始まるかを示す実効的なしきい値を知るには量子論的計算が必要である。

 最後に、入射粒子がHeの場合とArの場合の比較がなされた。両者の結果は定性的にはよく似ているが、定量的にはArの方が解離が起こりにくい。これは相互作用ポテンシャルのわずかな違いおよび、Arの方が重いために多重衝突が起こり易くそれだけ解離が阻害されることによる。なお、衝突エネルギーが高くなると、解離は個々のポテンシャル面に依存しなくなり、標的分子の幾何学的な大きさに比例して解離断面積が決まる。

 以上を要約すると、本論文は分子の衝突解離を量子論に基づいて理論的に扱う新たな手法を開発すると共に、それを実際に希ガスと水素分子の衝突に応用することにより、解離の機構について詳細な知見を得たものである。本研究は気体における分子の解離ダイナミクスの定性的・定量的理解に大きく貢献したものであり、物理化学の基礎として重要な研究である。よって申請者に博士(理学)の学位を授与するのが適当であると認めた。なお本論文は崎本、恩田両氏との共同研究であるが、申請者の寄与が十分大きいと判断される。

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