学位論文要旨



No 213918
著者(漢字) 岩井,孝司
著者(英字)
著者(カナ) イワイ,コウジ
標題(和) C型肝炎ウイルスの生体からの排除に関する研究
標題(洋) Studies on the elimination of hepatitis C virus
報告番号 213918
報告番号 乙13918
学位授与日 1998.07.13
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第13918号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 中村,義一
 東京大学 教授 岩倉,洋一郎
 東京大学 教授 野本,明男
 東京大学 客員教授 伊庭,英夫
 東京大学 助教授 堀越,正美
内容要旨

 C型肝炎ウイルス(HCV)は、輸血後非A非B型肝炎の原因ウイルスとして1989年に初めてそのcDNAの一部がクローニングされ、それを元にしたスクリーニング系の開発により輸血によるC型肝炎の発生はほとんど見られなくなった。しかし、現在でも世界の総人口のほぼ1%がウイルスキャリアーであると推察され、我が国でも100万人以上のキャリアーが存在すると考えられる。C型肝炎は高率に慢性化し、肝硬変から肝細胞癌へと移行する深刻な感染症であり、新規患者の発生がほとんど見られなくなった現在では、感染者からウイルスを排除する方法を確立することが極めて重要な課題となってきている。

 HCVは現在まで十分な感受性を示す細胞培養系が存在せず、従来のようなウイルス学的手法を用いた解析が困難であり、分子生物学的手法を用いた解析が行われてきた。HCVはプラス極性を持つ一本鎖のRNAウイルスであり、そのゲノム構造からフラビウイルス科に属すると考えられている。これらのウイルスは、細胞に侵入後ゲノムRNAがそのままmRNAとして働き3種の構造蛋白(ウイルス粒子を構成する)と6種の非構造蛋白質(ウイルス粒子中には含まれない)を合成する。その非構造蛋白質の内で最も重要な役割を担っているのがRNA依存RNAポリメラーゼ(RdRp)であり、そのアミノ酸配列からウイルス遺伝子の3’末端にコードされていると推定されていた。このRdRpはHCVのゲノムRNAを鋳型としてまず相補鎖のマイナス鎖RNAを合成し、次いでこのマイナス鎖RNAを鋳型として多量のゲノムRNAを合成する。このRdRpは宿主細胞には存在しないため、その阻害剤は理想的な抗ウイルス剤となりうる可能性を秘めていると考えられる。

 まず私は、このHCV複製に最も重要であると考えられるRdRpに着目し、この酵素の性状解析を行った。当研究室にてクローニングされたHCV遺伝子より本酵素をコードする領域を切り出し、バキュロウイルストランスファーベクターに組み込み、常法に従って組換えバキュロウイルスを作製した。昆虫細胞にこのウイルスを感染させることにより、本酵素は感染細胞内に多量に発現し、その粗抽出液からRdRp活性を検出することができた。また、Heparin-SepharoseおよびPoly(U)-Sepharoseを用いて高純度のRdRpを精製し、その性状を詳細に解析した。その結果、本酵素は、至適pHは8.0、至適温度は32℃であり、2価の陽イオンが活性発現に必須で、特に10mMのマグネシウム添加時に最も強い活性を示すことを見出した。これらの性質は陽性対照として用いたポリオウイルスのRdRpと非常によく類似していた。また、本酵素はプライマーに依存して相補RNAを合成する活性ばかりでなく、既にポリオウイルスのRdRpで見出されている鋳型RNAの3’端にヌクレオチドを付加する活性も保持していた。現在まで鋳型RNAの基質特異性は見出されておらず、本酵素が選択的にHCVRNAのみを複製するメカニズムは明らかになっていない。

 次いで、本酵素の活性中心部位の検索を行う目的で、RNAポリメラーゼのconsensus sequenceと考えられる部位に変異を導入し、ポリメラーゼ活性およびRNA結合活性の有無を検討した。3カ所のconsensus sequenceに変異を導入するといずれもポリメラーゼ活性は消失し、これらの配列が活性発現に必須な役割を果たしていることが強く示唆された。一方、RNA結合活性は、3カ所の内2カ所では活性は保持されており、これらの変異を導入した場合のポリメラーゼ活性の消失はRNA結合能が失われたためではなく、変異の導入によりヌクレオチド付加反応が行われなくなったためであると推察された。残り1カ所の変異ではRNA結合活性も消失し、この部位がRNA結合能に重要であると考えられた。また、N端およびC端から欠失変異体を作製し、同様にポリメラーゼ活性およびRNA結合活性の有無を検討したところ、いずれもポリメラーゼ活性は消失したが、RNA結合活性はN端からの欠失体でのみ結合能を失ったことからN端部分にRNAとの結合に必須な領域が存在するものと考えられた。これらの知見は、不明な点の多いHCVの複製メカニズムに重要な情報を与えるだけでなく、HCVの抗ウイルス剤の開発にも有用であると考えられる。

 一般的に、生体からのウイルス排除には中和抗体が重要な役割を果たすが、HCV感染においてはウイルス排除は極めて困難である。その理由として、HCVのエンベロープ蛋白には高頻度で変異を起こす領域(hypervariable region)が存在し、宿主の免疫応答から巧妙に逃れるメカニズムが存在することが挙げられる。チンパンジーを組換えエンベロープ蛋白で免疫後HCVを接種すると一部のチンパンジーは感染から防御され、その血清中にはエンベロープ蛋白結合中和抗体(neutralization of binding antibody,NOB抗体)が検出された。このNOB抗体の測定法は、固層としてプレートの代わりにヒト培養細胞を用いるため、よりnativeに近い抗原決定基を検出できると考えられる。

 一方、慢性C型肝炎からの自然治癒は非常にまれであるが、このような患者の免疫応答を解析することは生体からのHCVの排除に有用な知見を提供するものと思われる。私は、上記のNOB抗体に着目し、慢性C型肝炎からの自然治癒例のNOB抗体価をretrospectiveに検討した。その結果自然治癒例では高率にNOB抗体価が上昇しており、その抗体価の上昇時期とウイルスの生体からの消失時期がよく一致していることを見いだした。一方、急性C型肝炎例や慢性C型肝炎で治癒しなかった例では本抗体価の上昇はほとんど見られなかった。以上の結果から、生体からのHCVの排除にNOB抗体が重要な役割を果たしていることが明らかとなった。また、現在C型肝炎の唯一の治療法はインターフェロン投与であるが、インターフェロン投与により慢性C型肝炎から治癒した例および治癒しなかった例で同様に抗体価を測定したところ、いずれの群でも抗体価の上昇はほとんど見られなかった。以上の結果より、NOB抗体は慢性C型肝炎患者からのHCVの排除に重要な役割を果たす抗体であると同時に、慢性C型肝炎からの治癒の指標に成りうると考えられる。またこの抗体が認識しているエピトープを同定できれば、治療用の組換え抗体およびpost-infection vaccineの開発にも大きく寄与するものと思われる。

審査要旨 <序>

 C型肝炎ウイルス(HCV)は、輸血後非A非B型肝炎の原因ウイルスとして1989年に初めてそのcDNAの一部がクローニングされたC型肝炎の原因ウイルスである。C型肝炎は高率に慢性化し、肝硬変から肝細胞癌へと移行する深刻な感染症であり、新規患者の発生がほとんど見られなくなった現在では、感染者からウイルスを排除する方法を確立することが極めて重要な課題となってきている。

 4章からなる本論文は、HCVの複製に重要な役割を担っているRNAポリメラーゼの分子生物学的解析を行い(第2章)。またHCVの細胞への結合を阻止する抗体が慢性C型肝炎から治癒した患者からのみ見出されることを示し(第3章)、HCVの生体からの排除に向けた新たなアプローチについて論じたものである。

1.HCVのRNA依存RNAポリメラーゼの発現と性状解析

 HCVの複製に重要な役割を果たしていると考えられているRNA依存RNAポリメラーゼ(RdRp)はNS5B領域にあると推察されていたが、本研究ではこの領域のみを発現させ、実際にin vitroで活性を有することを証明した。また、本酵素の性状解析を行い、最も強い活性を示す至適条件を見出した。また、本酵素はプライマーに依存して相補RNAを合成する活性ばかりでなく、既にポリオウイルスのRdRpで見出されている鋳型RNAの3’端にヌクレオチドを付加する活性も保持していることを見出した。次いで、本酵素の活性中心部位の検索を行う目的で3カ所のRNAポリメラーゼのconsensus sequenceと考えられる部位に変異を導入し、ポリメラーゼ活性およびRNA結合活性の有無を検討し、この部位の活性に与える影響を調べた。また、N端およびC端から欠失変異体を作製し、同様にポリメラーゼ活性およびRNA結合活性の有無を検討し、N端部分にRNAとの結合に必須な領域が存在することを証明した。

2.HCVの細胞への結合を中和する抗体

 一般的に、生体からのウイルス排除には中和抗体が重要な役割を果たすが、HCV感染においては高頻度で変異を起こす領域(hypervariable region)がエンベロープに存在するため抗体誘導によるウイルス排除は極めて困難である。チンパンジーを組換えエンベロープ蛋白で免疫後HCVを接種すると一部のチンパンジーは感染から防御され、その血清中にはエンベロープ蛋白結合中和抗体(neutralization of binding antibody,NOB抗体)が検出された。慢性C型肝炎からの自然治癒例のNOB抗体価をretrospectiveに検討したところ、自然治癒例では高率にNOB抗体価が上昇しており、その抗体価の上昇時期とウイルスの生体からの消失時期がよく一致していることを見いだした。一方、急性C型肝炎例や慢性C型肝炎で治癒しなかった例では本抗体価の上昇はほとんど見られなかった。以上の結果より、NOB抗体は慢性C型肝炎患者からのHCVの排除に重要な役割を果たす抗体であると同時に、慢性C型肝炎からの治癒の指標に成りうる可能性が初めて示された。

<本論文の考察および意義>

 これまでに、in vitroで効率よくHCVを増殖させる培養細胞系は存在せず、またHCVに感染する動物もチンパンジーしか知られておらず、ウイルス学的な研究は極めて困難であった。本論文では、HCVの生活環の中のウイルスの吸着と複製の過程に着目し、組み換え蛋白を用いて実際にウイルスを使った研究が行えない困難を補っており、HCVの生体からの排除に向けた研究への基礎的かつ重要な知見を提供したもので、意義深いものと考える。

 特にRdRpの活性がNS5B蛋白にin vitroで存在することを証明し、その機能を担っている部位を詳細に解析したこと、エンベロープ蛋白の哺乳類細胞への結合を阻止する抗体が慢性C型肝炎から自然治癒した患者にのみ見出され、本抗体が生体からのウイルス排除の本体であることを示したことは、HCVに関する今後の研究に新たな道を開いたものであると思われる。

 本研究はまだ未解決の問題も多数あるが、本論文で明らかにされた知見は極めて新規性の高いもので、独創性、斬新性という観点から、この分野の進展に充分な貢献をするものと判断された。よって論文提出者、石井孝司は、博士(理学)の学位を受けるに充分な資格があるものと判定された。

 なお、本論文の主要な部分は、連名で現在印刷中であるが、そこに記載された殆どは論文提出者によって行われたものであり、実質的寄与は全て論文提出者によるものである。

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