レチノイン酸はホルモン様作用を有し、成長、細胞の増殖及び分化、形態形成、免疫機能維持、上皮機能の維持など広範な生理過程を制御し、癌や難治性疾患の治療にも用いられているが、その作用機構については未知の点が多い。そこで、レチノイン酸並びにその関連化合物を合成し、これらを用いてレチノイン酸の作用機構上の幾つかの重要な問題に関して解析を行った。 1、レチノイン酸の光異性化反応とその作用機構における関与 レチノイン酸の広範な生理作用の発現を媒介する受容体として2種類の受容体群、すなわち、全トランス-レチノイン酸レセプター(RARs)とレチノイドXレセプター(RXRs)が知られており、前者は全トランス-レチノイン酸や9-シス-レチノイン酸を、後者は9-シス-レチノイン酸を認識し、特定遺伝子の制御を行う。RXRsはRARs、ビタミンDレセプター、タイロイドホルモンレセプター等の転写調節因子と二量体を形成し、多くのホルモンシグナルの統括機能も有する可能性が示唆され、特に、RXRsのリガンドである9-シス-レチノイン酸の重要性が注目を浴びている。また、全トランス-レチノイン酸のみならず多くのレチノイン酸幾何異性体が生体内で確認されている。しかし、これらレチノイン酸幾何異性体の形成機構は、レチノイン酸の作用機構上極めて重要な問題であるにも拘わらず、殆ど研究がなされていない。本研究において、レチノイン酸の各種幾何異性体を合成し、これらを用いてレチノイン酸の光異性化反応および本反応と生物活性の変動との関連についての解析を行った。 エタノール溶液状態での全トランス-レチノイン酸およびその幾何異性体(9-シス-レチノイン酸、11-シス-レチノイン酸、13-シス-レチノイン酸、および9,13-ジシス-レチノイン酸)の通常の蛍光灯照明下(クリーンベンチ、1,2001x)における光異性化反応を解析した。本照明条件下での10-5Mの全トランス-レチノイン酸溶液の光異性化反応の速度は8X10-7モル/リットル・分であり、この値は標的組織中のレチノイン酸濃度(〜10-8M)に比べ極めて速い速度といえる。光異性化反応は約30分で平衡状態に達し、各種レチノイン酸幾何異性体の平衡混合物(全トランス-レチノイン酸25%、9-シス-レチノイン酸10%、11-シス-レチノイン酸10%、13-シス-レチノイン酸30%、9,13-ジシス-レチノイン酸5%および未同定成分20%)溶液を与えた。光異性化反応の速度は反応を誘起する光の強さのみにより決定される0次反応であり、一定の強さの光の下ではレチノイン酸の光異性化反応の速度はレチノイン酸の濃度とは関係なく一定である。そのため、光異性化反応を蒙るレチノイン酸の割合はレチノイン酸の濃度に依存して変動し、溶液のレチノイン酸濃度の低下に伴い光異性化反応により組成変化を受けるレチノイン酸の割合は増大した。特に、10-5M以下の濃度では光異性化反応の影響は極めて顕著であった。以上の結果、少なくとも光と接する機会の多い皮膚の様なレチノイン酸の標的組織中(レチノイン酸濃度、〜10-8M)では各種レチノイン酸幾何異性体の形成に際し、リガンドレベルでの光異性化反応が介在する可能性が示唆された。 光異性化反応により形成される各種レチノイン酸幾何異性体のHL60やF9細胞に対する増殖阻害活性および分化誘導活性の強度は相互に大きく異なり、HL60細胞では、9-シス-レチノイン酸が最も強い活性を有し、全トランス-レチノイン酸、11-シス-レチノイン酸および13-シス-レチノイン酸は、その約1/10の活性、9,13-ジシス-レチノイン酸は約1/100の活性であった。一方、F9細胞においては、全トランス-レチノイン酸の活性が最も強く、9-シス-レチノイン酸、11-シス-レチノイン酸および13-シス-レチノイン酸の活性は、その約1/10であり、9,13-ジシス-レチノイン酸は約1/100の活性であった。これらの結果から、レチノイン酸を介するビタミンAの作用機構の研究に際し、光異性化反応を考慮する事の重要性が示された。 2、-カロテンからのレチノイン酸の生合成におけるexcentric cleavage機構の生物学的意義。 -カロテンからのビタミンAおよびその関連化合物の生合成経路に関しては、分子中央の二重結合の直接的酸化的切断を経るcentral cleavage機構および-カロテンの任意の二重結合部位の酸化的切断に基づくアポカロテナール、アポカロテノイン酸を経てビタミンA関連化合物に至るexcentric cleavage機構による生合成経路が知られている。しかし、central cleavage機構に並行してexcentric cleavage機構が存在することの生物学的意義は明白ではない。この問題に関し、exentric cleavage機構で形成される中間体が、それ自体生物活性を有する可能性が考えられた。 そこで、excentric cleavage機構の中間体である全トランス--アポ12’-カロテノイン酸および、代謝経路上これより下流に位置する全トランス--アポ14’-カロテノイン酸を新規に合成し、HL60細胞に対する生物活性の解析を行った。その結果、全トランス--アポ12’-カロテノイン酸は、全トランス-レチノイン酸の約50〜60%の増殖阻害活性並びに分化誘導活性を示すことが判明した。一方、excentric cleavage機構での経路上、全トランス--アポ12’-カロテノイン酸の下流に位置する全トランス--アポ14’-カロテノイン酸は、殆ど活性を示さなかった。以上の結果、全トランス--アポ12’-カロテノイン酸は酸化により全トランス-レチノイン酸へ代謝されることにより活性を発揮するのではなく、それ自体強いレチノイン酸様活性を有することが明らかとなった。 3、分化誘導活性を示さずに増殖阻害活性を選択的に発現する新規レチノイド化合物の研究。 ヒト急性前骨髄性白血病細胞培養株HL60は極めて低濃度のレチノイン酸により、増殖を阻害され、好中球へ分化誘導される。従来のレチノイン酸様活性を有する様々なレチノイド化合物は、何れも分化誘導と増殖阻害との活性の間に平行性を示し、レチノイン酸による細胞の分化誘導と増殖阻害が独立した現象であるか、付随した現象であるかに関して明らかではない。本研究では、レチノイン酸との構造上での類似性を重視し、天然のレチノイン酸の側鎖長を延長した-アポ-14’-カロテノイン酸の同族体を合成し、HL60細胞の増殖阻害活性と分化誘導活性を分離して有する化合物の検索を進めた。 本実験で合成した各種-アポ-14’-カロテノイン酸およびそれらのエチルエステル化合物の中で、エチル-メチル-全トランス--アポ-14’-カロテノエートはレチノイン酸のHL60細胞に対する増殖阻害と分化誘導の2つの活性のうち、増殖阻害活性のみを有することが判明した。これに加え、本化合物のシス型異性体であるエチル-メチル-15’-シス--アポ-14’-カロテノエートも、トランス型と同様、HL60細胞に対し増殖阻害活性を示すが分化誘導活性を示さず、本活性の発現には14’位の二重結合における立体配置の差は余り関係がないものと考えられた。さらに、両化合物ともエステラーゼによる加水分解を受けることなくHL60細胞に作用すること、エステル基および位のメチル基の存在が本化合物のユニークな活性に不可欠であることなども判明した。また、本化合物は単独ではレチノイン酸の持つ増殖阻害活性を示し分化誘導活性を示さないものの、レチノイン酸によるHL60細胞の分化誘導の開始に必要な時間を延長することを見出した。 まとめ (1)レチノイン酸の光異性化反応の解析を行い、光と接する機会の多い皮膚の様なレチノイン酸の標的組織中では各種レチノイン酸幾何異性体の形成に際し、リガンドレベルでの光異性化反応が介在する可能性があること、並びに、レチノイン酸を介するビタミンAの作用機構の研究に際し、光異性化反応を考慮に入れることの重要性を明らかにした。 (2)excentric cleavage機構の中間体である全トランス--アポ-12’-カロテノイン酸がHL60細胞に対し全トランス-レチノイン酸様活性を示すことを明らかにした (3)HL60細胞に対し分化誘導活性を示さずに増殖阻害活性を選択的に発現する新規レチノイド化合物として、エチル-メチル-全トランス--アポ-14’-カロテノエートを見出した。 |