学位論文要旨



No 213958
著者(漢字) 矢作,直久
著者(英字)
著者(カナ) ヤハギ,ナオヒサ
標題(和) ラットエンテロペプチダーゼの構造とその発現調節
標題(洋)
報告番号 213958
報告番号 乙13958
学位授与日 1998.09.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13958号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小俣,政男
 東京大学 教授 中原,一彦
 東京大学 教授 上西,紀夫
 東京大学 助教授 久保田,俊一郎
 東京大学 講師 白鳥,康史
内容要旨

 エンテロペプチダーゼ(エンテロキナーゼEC3.4.21.9)は比較的古くからその存在が知られており、当初は膵液中の潜在的消化酵素を活性化する腸管因子として認識されていた。その後1930年代にKunitzによりトリプシノーゲンをトリプシンに変換する活性化酵素であることが証明された。本酵素により活性化されたトリプシンが、さらに他の膵臓由来の消化酵素前駆体を活性化し、消化酵素の活性化が段階的に進行して行くことより、エンテロペプチダーゼは消化管内の蛋白消化におけるイニシエーターと考えられている。本酵素は厳密な基質特異性を持っており、生理的には唯一のトリプシノーゲンを活性化する酵素であるため、本酵素の欠損により著明な吸収障害をきたし低栄養や発育障害、胎児期に死亡してしまう先天的欠損症の症例などが報告されている。このような生理学的重要性より本酵素は古くから研究されてきたが、その存在が比較的微量であり、また糖鎖修飾が多いことなどよりその構造については不明のままであった。そこで我々のグループは、ブタ十二指腸粘膜由来のサンプルを用いて本酵素の精製とcDNAクローニングを行い、その一次構造と厳密な基質特異性のメカニズムについて明らかにしてきた。それとほぼ同時期に、ウシ酵素の部分な遺伝子配列とヒト酵素の遺伝子配列も相次いで発表された。これらの研究によりエンテロペプチダーゼの基本構造についての解析が進み、本酵素は中心的役割を果たす触媒鎖と役割がまだ不明な非触媒鎖より構成されることが明らかにされた。しかしこの基本構造についても、蛋白質レベルでのデータでは、例えばブタやウシでは二本鎖ヒトでは三本鎖と、動物種により異なった報告がなされている。これに対して我々の検討では、ブタは基本的に触媒鎖であるLight-chain(L鎖)のほかに、Heavy-chain(H鎖)とMini-chain(M鎖)を持つことが確認されている。このようにその基本構造が曖昧であるだけではなく、本酵素の局在や発現調節についても未だ蛋白レベルでのデータしか示されていない。これらの事柄を明らかにし、また一般的に小動物の実験系として普及しているラットの実験系を確立するために、我々はラットの十二指腸粘膜よりmRNAを精製し、本酵素のcDNAクローニングを行った。また本酵素の局在をみるためにNorthem blottingを行い、さらに微量な遺伝子発現についての検討を行うために特異的なプライマーを合成しRT-PCRを行った。蛋白レベルでの局在の検討では、部位別に酵素活性の検討を行ったうえに、特異的抗体を作成し免疫組織染色により本酵素の局在の確認を行った。

 ラットの十二指腸粘膜表層由来のcDNAライブラリーを作成し、以前我々がクローニングした、ブタ・エンテロペプチダーゼのcDNAフラグメントをプローブとしてスクリーニングを行った結果、約3.6kbのREK#7が得られた。本クローンはポリA部分が欠落しているものの、5’端に166塩基対、3’端に245塩基対の非コード領域を持ち、open reading frameは3174塩基対で1058残基のアミノ酸をコードしていた。本クローンは、N末端付近に膜を貫通するのに十分な長さの疎水性領域(Val19〜Val43)を持っており、ブタクローンと同様にこの領域がinternal signal sequenceと成っていると考えられた。またこの部位以降の配列も、Mini(M),Heavy(H),及びLight(L)の三鎖構造を持つものと仮定してブタクローンの配列と比較してみると、それぞれの鎖のホモロジーは塩基配列レベルではそれぞれ87%、76%、80%であり、推定アミノ酸配列レベルではそれぞれ86%、69%、77%であった。全体の比較ではそれほどホモロジーが高くない領域も見られたが、存在の明らかであるH鎖、L鎖に比べてM鎖に相当する部分のホモロジーは一段と高く、しかも各鎖のN末端部に相当する付近はほぼ保存されており、ラットエンテロペプチダーゼcDNAクローンも、ブタと同様に三鎖構造をとっているものと考えられた。また、最近相次いで報告されたウシやヒトのクローンについても同様の検討を行った結果、三鎖構造をとっているものと考えられた。しかし、新規に発見されたM鎖については、その機能的役割は不明であり、今後更なる研究が必要と思われた。これらの三鎖について、ラットクローンではそれぞれ53、119及び819残基の位置より始まっており、それぞれ66(Mr=7,700),700(Mr=77,700)および240(Mr=26,800)アミノ酸残基より構成されていた。この中で触媒鎖と考えられるL鎖においては、エンテロペプチダーゼ間では75%〜77%程度のホモロジーがあり、近縁のヘプシンやカリクレイン等の触媒鎖とも33〜43%程度のホモロジーが見られ、セリンプロテアーゼの基本骨格である、H,D,Sの活性中心triadも保存されていた。本酵素は、基質となるトリプシノーゲンのアミノ末端部に存在する酸性アミノ酸残基のクラスター(例えばウシではVal-Asp-Asp-Asp-Asp-Lys)を認識して、それに続くLysのカルボキシル基側を切断するという厳密な基質特異性を持っている。この認識のためには本酵素の塩基性アミノ酸残基のクラスター(Lys908-Arg-Arg-Lys911)が重要であることを、我々のグループがブタ酵素のコンピューターモデリングを使い証明したが、このエンテロペプチダーゼに特徴的と考えられる配列も保存されていた。

 3鎖の中で最長であるH鎖は700個のアミノ酸残基より成っているが、種違いのクローンとのホモロジーは、M鎖やL鎖に較べてかなり低くなっていた。これは、一部分に非常に挿入や欠損の多い領域が存在しており、その影響と考えられた。その領域には合計18アミノ酸残基の挿入が見られ、挿入されたものも含め非常にSer/Thrに富んだ配列となっていたが、さらにこの領域に隣接して、カルボキシル基側にThr3つとSer1つが続いており、この部分は全体の半数以上がSer又はThrで構成されていた。このようなSer/Thrに富んだ配列は、グリコフォリンA,LDL受容体、スクラーゼイソマルターゼ、アミノペプチダーゼN等にも見られており、ムチン型糖鎖付加が可能な部位と考えられている。実際、ヒトエンテロペプチダーゼに対するポリクローナル抗体が、血液型A型抗原と交差反応を示したとの報告もあり、本酵素がムチン型糖鎖の修飾を受けていることを裏付けているものと考えれる。したがって、このSer/Thrが豊富な領域は、ムチン型糖鎖付加に関与しているものと考えられた。本酵素については以前より非常に糖鎖修飾が多いことが報告されており、上記のムチン型糖鎖に加え、アスパラギン結合型糖鎖付加部位の条件を満たす、Asn-X-Serの配列も数多く見られている。ラット酵素ではM鎖に1ヶ所、H鎖に15ヶ所、L鎖に4ヶ所の合計20個の付加可能部位が存在していた。このアスパラギン結合型糖鎖付加可能部位の数は、ブタでは22、ウシでは19、ヒトでは18と動物種により差が見られたが、それらの分布には偏りは見られずほぼ同様の傾向であった。本酵素は後述のように、主に十二指腸と上部空腸の粘膜上皮に局在しているが、この部位は強酸性である胃液や強塩基性である膵液が流れ込む部位であり、また常に強力な蛋白分解酵素である数々の膵酵素に曝されるという過酷な環境であると考えられる。したがってこれらの厳重な糖鎖修飾は、本酵素を保護するために重要な役割を果たしており、本酵素に不可欠なものと推測される。

 一方、ラット各臓器におけるエンテロペプチダーゼの局在をみるために、全長のラットエンテロペプチダーゼcDNAをプローブとしたNorthem Blottingを行ったが、十二指腸にのみ約4.4kbのエンテロペプチダーゼmRNAのシグナルが見られた。同時に泳動した他の部位の消化管(食道、胃、空腸、回腸および大腸)では、いずれのサンプルでもコントロールのG3PDHでは十分なシグナルが見られたが、エンテロペプチダーゼのシグナルは見られず、また消化管以外の主な臓器(脳、心臓、肺、肝臓、腎臓および脾臓)でもシグナルは見られなかった。Northem Blottingによる結果では、十二指腸にのみ本酵素の発現が見られたが、小腸全域にわたり本酵素の活性が見られるとの報告もあるため、小腸全域における本酵素の微量な発現を見る目的で、RT-PCRによる検討も行った。Northem Blottingによる結果と同様に、まず十二指腸においてシグナルが見られたが、反応のサイクル数を3〜4回増やすことにより、空腸および回腸においても同様のシグナルが検出された。他方、合成基質を使用た酵素活性の測定では、全小腸にわたり活性が見られた。しかし今回使用した合成基質は、長時間反応させると消化管に広く分布するアミノペプチダーゼにも消化されてしまっている可能性が考えられた。したがってその反応を抑えるために、低濃度ではエンテロペプチダーゼに殆ど影響を与えないことが確認されているEDTAを、最終濃度2mMとなるように加えて再度測定を行った。その結果、十二指腸にのみ著しい活性が見られ、上部空腸にもわずかながら活性がみられるものの、それ以下の部位にはほとんど活性は認められなかった。エンテロペプチダーゼに対する特異抗体による免疫組織染色では、brush borderに一致した染まりが見られたが、その染色性には活性のデータと同様に十二指腸から回腸にかけての明らかな勾配が見られ、十二指腸で強い染色が見られるものの、空腸、回腸での染まりはわずかであった。これらはの蛋白レベルでの発現のデータは、RT-PCRによる遺伝子レベルでの本酵素の発現のデータに添うかたちであり、本酵素の発現調節は翻訳レベルではなく転写レベルでなされているものと推測された。また、エンテロペプチダーゼ発現の主座である十二指腸粘膜局所に注目してみると、villiの頂部での染まりが最も強く基部に行くに従って染色性が弱くなり、cryptの部分では全く染色が見られなかった。そこで、十二指腸粘膜局所での垂直方向における発現の違いを遺伝子レベルで調べるために、十二指腸粘膜の上皮のみを剥離し、上皮をvilliとcryptの部分に分けてRNAを抽出し、エンテロペプチダーゼに特異的なプライマーを使用しRT-PCRを行ってみると、やはりvilliの方にのみシグナルが見られ、cryptの方にはシグナルは見られなかった。

 本酵素はbrush border enzymeであることが知られているが、本酵素が食物の消化吸収において非常に重要な働きをしているにも関わらず、他のbrush border enzyme、例えばalkaline phosphataseやsucrase-isomaltaseなどとは異なり、その発現調節機構については未だに不明な点が多い。そこで本酵素の発現調節についての情報を得るために、胎生期より成熟期までのサンプルを使い、遺伝子レベル、蛋白レベルでの本酵素の発現状況を調べた。本酵素の十二指腸の発生成長過程における発現の検討では、十二指腸上皮の形態形成の時期に一致した胎生19日目よりmRNAの発現がみられ、幼若な絨毛の完成期である胎生20、21日目で著しい発現の増加が認められた。出生後も発育に従って発現の増加が確認され、特に離乳期と考えられる10日目から20日目にかけて発現量の増加が確認された。蛋白レベルでもほぼ同様の結果が得られており、出生後は離乳期を境に酵素活性の上昇が認められた。これらの事実からも、本酵素の発現調節は主に遺伝子の転写レベルで制御されているものと考えられた。さらに、離乳期を境にその発現量が変化していることより、他の膵由来の消化酵素と同様に、食事内容の変化により本酵素の発現も誘導される可能性が示唆された。

 また、十二指腸の成長過程にある幼若ラットにステロイドホルモンを投与した場合、例えは胃などの消化管臓器においては上皮細胞の増殖が抑制され、一方で分化・成熟は促進され、結果的にペプシノゲンやなどの消化酵素の遺伝子発現も増強されることが知られている。本酵素におけるステロイドホルモンの影響については未だに知見が無いため、その影響ををみるために幼若ラットにハイドロコーチゾンを投与し、RT-PCRを用いて遺伝子発現の変動についての検討を行った。その結果、ステロイドホルモン投与後3時間目より発現の増加が観察され、その後未だ成長の途上の時期であるにも関わらず、短時間で酵素活性のピークに達して持続した。この事実は、エンテロペプチダーゼ遺伝子の発現が、ハイドロコーチゾンにより転写制御されていることを示しているものと考えられる。この結果は膵臓のアミラーゼ遺伝子の場合と似ており、遺伝子の上流域にステロイドレセプターの結合部位を持ち、素早く反応する直接作用と考えられた。しかし本酵素の場合は、アミラーゼの場合よりも最大効果が得られるまでの時間が長くかかっているため、消化管上皮の成熟化に伴う間接作用の関与も否定できないものと考えられた。

 エンテロペプチダーゼは蛋白質の消化において非常に重要なkey enzymeであり、本酵素が上部小腸において膵酵素の活性化を効率よく行うことにより、蛋白質の消化が安全かつスムーズ行われていると考えられる。今回の研究データをまとめると、1)本酵素は種の違いを問わず基本的に3鎖構造をとっており、2)恐らく急激なpHの変化や強力なタンパク分解酵素に対処するために、多くの糖鎖を持っていることが判明した。3)その分布は十二指腸を中心として小腸全域にわたっているが、水平方向にも垂直方向にも独自の分布を示していた。4)本酵素の遺伝子発現は胎生19日目の時期よりみられ、出生後も発育に従って漸増するが、離乳期以降一段と発現量が増加することが分かった。これらの発現部位および発現時期は、遺伝子レベルと蛋白レベルでほぼ一致しており、本酵素の発現調節は転写レベルで為されており、時間的空間的に厳密にコントロールされていると考えられた。5)またハイドロコーチゾン投与により、十二指腸絨毛の成熟化が促進され、本酵素の発現も誘導されたが、この転写活性誘導は主にステロイドレセプターを介した直接作用と推測された。

審査要旨

 本研究は消化管内の蛋白質消化におけるイニシエーターと考えられているエンテロペプチダーゼ(エンテロキナーゼEC3.4.21.9)の基本構造を解明するために、ラットを用いてcDNAクローニングを行ったものである。さらに本酵素の発現調節機構を明かにするために、ラットの各発育段階において、遺伝子レベル、蛋白レベルでの発現の検討を行い以下の結果を得ている。

 1.ラットの十二指腸粘膜表層由来のcDNAライブラリーより本酵素のcDNAクローニングを行った。得られたクローンは3585塩基対より成り、1058個のアミノ酸残基をコードしていると考えられ、N端部よりMini,Heavy,Lightの3本鎖が連なった、一本鎖の前駆体として産生されている事が示された。

 2.同時期に発表された他種のエンテロペプチダーゼcDNAとの比較検討により、本酵素は種の違いを問わず、3鎖からなる蛋白骨格と多くの糖鎖を持つ基本構造を有することが示された。これらの糖鎖は、消化管内腔の急激なpHの変動や、強力な蛋白分解酵素の存在に対処するためのものである事が示唆された。

 3.成体ラットの消化管サンプルを用いて、Northern blotting,RT-PCR,Histochemistry,Activity assayを行ったところ、エンテロペプチダーゼの分布は小腸全域にわたっていたが、その主座は十二指腸粘膜表層であった。本酵素はbrush border enzymeのひとつであるが、十二指腸粘膜表層が、様々な消化酵素を含む膵液との最初の出会いの場である事を考えると、本酵素が膵酵素の活性化の役割を担う上で非常に合理的な独自の分布を呈している事が示された。

 4.妊娠15日齢より生後28日までの各発育段階において、ラットの十二指腸サンプルを用いて、RT-PCR,Histochemistry,Activity assayを行ったところ、本酵素の発現は胎生19日齢より見られはじめ、離乳期を境に増加する傾向が見られた。これらの変化は、遺伝子レベルと僅かに遅れて蛋白レベルでも認められ、本酵素の局在が遺伝子レベル、蛋白レベルとで一致している事とあわせて、本酵素の発現調節は主に遺伝子の転写レベルで行われている事が示された。

 5.十二指腸の成長過程にある幼若ラットヘハイドロコーチゾンを投与したところ、十二指腸絨毛の成熟化が促進され、本酵素の発現も誘導された。これらの変化は投与後3時間目という比較的早い時期より見られ、エンテロペプチダーゼ遺伝子の転写活性誘導は、主にステロイドレセプターを介した直接作用と推測された。

 以上、本論文はラットの十二指腸粘膜由来のcDNA libraryより、エンテロペプチダーゼ遺伝子のcDNAクローニングを行い、これまで議論の分かれていた本酵素の基本構造を明らかにした。これに伴い、将来的にbiopsyサンプルを用いたエンテロペプチダーゼ欠損症の早期診断や、欠損症に対する遺伝子治療の可能性なども広がってくるものと考えられる。さらに本研究は、これまで未知に等しかった小腸の発生・分化の解明にも重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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