学位論文要旨



No 213965
著者(漢字) 宮坂,道夫
著者(英字)
著者(カナ) ミヤサカ,ミチオ
標題(和) アジア、オセアニア諸国における医療倫理教育に関する国際比較研究 : 医学教育における正規化と統合を指標として
標題(洋)
報告番号 213965
報告番号 乙13965
学位授与日 1998.09.09
学位種別 論文博士
学位種類 博士(医学)
学位記番号 第13965号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大塚,柳太郎
 東京大学 教授 森,茂郎
 東京大学 助教授 中村,安秀
 東京大学 助教授 川久保,清
 東京大学 講師 山本,則子
内容要旨 緒言

 今日では医療倫理の内容が、パターナリズムと呼ばれる伝統的な倫理観から、患者の意思を尊重する倫理観へと、大きく変容していると言われる。こうした倫理観の変化は医学教育のカリキュラムにも反映され、欧米諸国では医療倫理教育を医学教育の正規課程に統合することの重要性が認識されている。統合には縦方向の統合(教育課程の時系列に沿って、各時期にふさわしい教育が与えられること)および、横方向の統合(多様な背景を持つ教員の参加-学際性-と、医学系教員の関与、とくに各専門領域の医師が教育参加すること-専門性-)の二つの方向性がある。一方で、わが国を含めたアジア諸国においては、医療倫理教育の実態そのものが十分に把握されていない。

本研究の目的

 こうした現状に鑑み、本研究の目的は(1)アジア地域の医療倫理教育のカリキュラムと教員構成についての実態調査を行うこと、(2)欧米の医科大学である程度一般的な認識となっている「医療倫理教育の正規課程への統合」という概念を用い、各国の実態を考察すること、(3)回答者の現状に対する満足度および「医療倫理教育の正規課程への統合」についての意識を把握し、実態との関連を検討すること、(4)回答者が重要と考える医療倫理の教育内容について、可能な範囲で「医療倫理教育の正規課程への統合」の要因を検討し、国による共通点と相違点を明らかにすること、(5)以上を通じて、可能な範囲で調査地域の医療倫理教育のカリキュラム改善の方向性を検討すること、の5点である。

対象と方法

 本調査は1994年の11月から1995年の10月にかけて行われた。中国、台湾、香港、韓国、インドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、タイ、スリランカ、オーストラリア、ニュージーランド、モンゴル、日本の14ヶ国のすべての医科大学を対象とした。医療倫理教育の実態と、回答者の意識に関する調査票を作成し、各医科大学の医学部長に送付し、回答を依頼した。

結果・倫理教育の実態

 国別の回収率は60%以上が11ヶ国、60%未満が3ヶ国だった。14カ国の医科大学全体の88%が、医療倫理教育を行っている何らかの科目(医療倫理関連科目)を設置しているとし、7%が近い将来に設置する予定であると答えた。中国、韓国、台湾、マレーシア、スリランカの各国では、医療倫理関連科目を1科目のみであるとした回答が5割以上だった。独立した医療倫理学を設置している大学は、日本以外の全回答校の84%であったのに対し、日本では「医学概論」など、他の科目の中で医療倫理を講義している場合の方が多く、独立科目の設置率は22%だった。回答校全体の80%が全ての科目を必修に指定しており、選択科目しか持たない大学は5%だった。中国、台湾、フィリピン、オーストラリアでは、合計20時間以上の医療倫理関連科目を設置している大学の割合が5割以上だった。台湾、マレーシア、フィリピン、スリランカ、オーストラリアでは6割以上の大学で、臨床実習が行われる学年に医療倫理関連科目を設置していた。担当教員について、医学系教員のみを回答した大学の割合は31%、医学系以外の領域を専門とする教員が含まれる大学の割合は、倫理学・哲学関連が29%、宗教関連が8%、法律関連が11%だった。

・回答者の意識

 中国、台湾、フィリピン、タイ、オーストラリアでは、「満足している」または「大体満足している」との回答が80%を超えた。倫理教育を他の科目と比較した場合の重要度は、全回答者の83%が「非常に重要」とした。倫理教育に必要な講義時間を10時間未満とする回答が全体の18%、10時間以上20時間未満が26%、20時間以上40時間未満が29%、40時間以上とする回答が15%だった。韓国、マレーシア、日本では、半数以上の回答者が20時間未満を適当とした。教育時期に関しては、「臨床実習が行われている間」の項目を選択した者の割合は41%、選択しなかった者の割合が54%だった。倫理教育を行う教員の専門領域として、医学のみを選択した回答者が20%であるのに対し、複数のカテゴリーを選択した回答者が70%だった。全体としては、70%の回答者が、医療倫理の専門家が自らの大学に必要であるとしており、29%は必要でないと回答した。

・カリキュラムと教員構成の実態と回答者の意識の関連性の分析結果

 全体の分析では、講義時間について、実態の得点が高い大学の回答者の方が、意識についての得点も高いという相関が認められたが、両者の得点間に有意差は認められなかった。臨床実習年での講義の設置では、相関も有意差も認められなかった。教員の専門分野のカテゴリー数は、実態の得点が高い大学の回答者の方が意識の得点も高いという相関が認められ、さらに意識の得点の方が実態の得点よりも有意に高いという有意差も認められた。また満足度に関しての全体の分析では、講義時間の合計のみが回答者の満足度に有意に寄与していた。また日本単独の分析では、独立講義の有無が講義時間と同程度に寄与していた。

・教育内容についての意識

 調査票に提示された32項目のトピックスに対する重要度の評価は、評価が一致するものと、国ごとの違いが表れるものとがあった。医師と患者の関係に関連した教育内容については、多くの国の回答者が一致して重要視していたのに対し、生殖および子供の医療に関連した問題、死と死の過程に関連した問題をはじめとした具体的な問題については、回答者の評価は国ごとに大きく分かれた。

考察・医療倫理教育の正規過程への統合A.医療倫理教育の正規化

 調査地域のほとんどの医科大学で、倫理に関する話題が正規カリキュラムの中で講義されていたことからは、医療倫理教育が正規課程の中で行われるということそのものは、この地域においてすでに定着していると言ってよいと思われる。しかし時間配分については非常に大きな差異が見られ、少ない時間配分での医療倫理教育では、多岐にわたる医療倫理の教育内容が十分に網羅されない可能性が高いことが懸念される。その一方で、日本を除くすべての国で医療倫理学を独立科目として教えている医科大学が多かったことからは、医療倫理が日本を除く多くの調査国において、一個の体系性を持った教育領域として独立したものとみなされていることが示唆される。

B.縦方向の統合

 この地域の医科大学の医療倫理教育のカリキュラムは、(1)医療倫理に特化されていない科目を、臨床実習年の前の学年で単一または複数の講義として与える(日本)、(2)医療倫理を臨床実習年の前の学年で単一の講義として与える(韓国)、(3)医療倫理を臨床実習年で単一の講義として与える(台湾、マレーシア)、(4)医療倫理を臨床実習年を含む複数の学年に振り分けて、複数の講義として与える(香港、フィリピン、オーストラリア、ニュージーランド)の、4つのパターンに整理することができる。パターン1.、2.、3.については、カリキュラム形態から判断する限り、教育目的に関する問題点が指摘される。医療倫理教育の目的は、前臨床期(preclinical stage)と臨床期(clinical stage)で大きく異なると考えられるからである。両者がともに与えられるパターン4.に、オーストラリア、ニュージーランド、香港に加えて、フィリピンが含まれていたことは、アジア地域においても医療倫理教育の縦方向の統合を試みている医科大学があることを示している。

C.横方向の統合

 すでに多くの国において、医療倫理教育の学際性に対する認識が持たれていることが示唆された。その一方で、宗教系の教員が教育に参加していなかったことからは、アジア諸国においても医療倫理が世俗的なものとして捉えられていることがうかがわれる。

・医療倫理教育の教育内容について

 中国と韓国において、「インフォームド・コンセント」などに対する評価が低かったことは、パターナリズムが支配的であるとされる東アジア圏の現状を反映したものと見ることができる。また生殖に関する問題は、「人工妊娠中絶」の重要度を高く評価したのが、主としてキリスト教、イスラム教が主要な宗教である国々であった。このように、国によって評価の異なる項目の多くが、各国の社会的背景との関連を示唆するものと考えられる。

提言:

 今後のカリキュラムの改善に向けて

 この地域に残された医療倫理教育の正規化に関する今後の検討課題は、時間配分と、独立科目の設置の2点である。縦方向、特に臨床期への統合は、1)医療倫理関連科目を臨床期にも設置する、および2)臨床期における各プログラムに医療倫理教育を取り入れるという2種の方法によって達成されうる。また横方向の統合は、1)前臨床期における医学系教員の関与を促進する、および2)各専門科部局が組織的に教育に関与する、という二つの方法が考えられる。教育内容については、他の科目の教育と同様に、社会の要請に応えることが重要であり、社会的要請の高い問題を選択して教育する事が望ましい。その一方で、医療倫理教育の内容の多くが、伝統的な医学教育の中では扱われてこなかったものであることに注意すべきである。また今後は医療倫理教育のカリキュラムを組織だって計画し、教育内容を統括することが重要となるであろう。

審査要旨

 本研究は今後わが国の医学教育の中で重要性が増してゆくと考えられる、医療倫理教育を題材とし、カリキュラムと教員構成等について、医学教育における正規化と統合を指標としながら、アジア、オセアニア14ヶ国の国際比較を試みたものであり、下記の結果を得ている。

・倫理教育の実態

 1.14カ国の医科大学全体の88%が、医療倫理教育を行っている何らかの科目(医療倫理関連科目)を設置しているとし、7%が近い将来に設置する予定である事、および回答校全体の80%が全ての科目を必修に指定しており、選択科目しか持たない大学は5%である事が示された。

 2.中国、韓国、台湾、マレーシア、スリランカの各国では、医療倫理関連科目を1科目のみであるとした回答が5割以上であり、独立した医療倫理学を設置している大学は、日本以外の全回答校の84%であったのに対し、日本では「医学概論」など、他の科目の中で医療倫理を講義している場合の方が多く、独立科目の設置率は22%である事が示された。

 3.中国、台湾、フィリピン、オーストラリアでは、合計20時間以上の医療倫理関連科目を設置している大学の割合が5割以上だった。台湾、マレーシア、フィリピン、スリランカ、オーストラリアでは6割以上の大学で、臨床実習が行われる学年に医療倫理関連科目を設置していた。

 4.担当教員について、医学系教員のみを回答した大学の割合は31%、医学系以外の領域を専門とする教員が含まれる大学の割合は、倫理学・哲学関連が29%、宗教関連が8%、法学関連が11%である事が示された。

・回答者の意識

 5.中国、台湾、フィリピン、タイ、オーストラリアでは、「満足している」または「大体満足している」との回答が80%を超えた。

 6.倫理教育を他の科目と比較した場合の重要度は、全回答者の83%が「非常に重要」とした。

 7.倫理教育に必要な講義時間を10時間未満とする回答が全体の18%、10時間以上20時間未満が26%、20時間以上40時間未満が29%、40時間以上とする回答が15%だった。韓国、マレーシア、日本では、半数以上の回答者が20時間未満を適当とした。

 8.教育時期に関しては、「臨床実習が行われている間」の項目を選択した者の割合は41%、選択しなかった者の割合が54%だった。

 9.倫理教育を行う教員の専門領域として、医学のみを選択した回答者が20%であるのに対し、複数のカテゴリーを選択した回答者が70%だった。全体としては、70%の回答者が、医療倫理の専門家が自らの大学に必要であるとしており、29%は必要でないと回答した。

・カリキュラムと教員構成の実態と回答者の意識の関連性の分析結果

 10.全体の分析では、講義時間について、実態の得点が高い大学の回答者の方が、意識についての得点も高いという相関が認められたが、両者の得点間に有意差は認められなかった。

 11.臨床実習年での講義の設置では、相関も有意差も認められなかった。教員の専門分野のカテゴリー数は、実態の得点が高い大学の回答者の方が意識の得点も高いという相関が認められ、さらに意識の得点の方が実態の得点よりも有意に高いという有意差も認められた。

 12.満足度に関しての全体の分析では、講義時間の合計のみが回答者の満足度に有意に寄与していた。また日本単独の分析では、独立講義の有無が講義時間と同程度に寄与している事が示された。

・教育内容についての意識

 13.医師と患者の関係に関連した教育内容については、多くの国の回答者が一致して重要視していたのに対し、生殖および子供の医療に関連した問題、死と死の過程に関連した問題をはじめとした具体的な問題については、回答者の評価は国ごとに大きく分かれた。

 以上、本論文は、ほとんどの調査国において、医療倫理が医学教育の正規課程の中で教育される、「正規化」が進行している事を明らかにした。また時系列に即して多段階的に教育を行ってゆく「縦方向の統合」に関しては、この地域の医科大学のカリキュラムにおいて、(1)医療倫理に特化されていない科目を、臨床実習年の前の学年で単一または複数の講義として与える、(2)医療倫理を臨床実習年の前の学年で単一の講義として与える、(3)医療倫理を臨床実習年で単一の講義として与える、(4)医療倫理を臨床実習年を含む複数の学年に振り分けて、複数の講義として与えるの、4つのパターンが存在する事を明らかにした。さらに、教員の学際性と専門教育への統合を意味する「横方向の統合」について、すでに多くの国において、医療倫理教育の学際性に対する認識が持たれている事を明らかにした。また医療倫理教育の内容については、社会的需要の高い題材を扱うべきと考えられている事をあらためて示した。これらの知見はこれまでほとんど未知のものであり、今後のわが国およびアジア諸国での医学教育の改善のために貴重な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

UTokyo Repositoryリンク