内容要旨 | | 本論文『秦帝国の形成と地域』は,中国史上はじめて形成された秦帝国の形成史を地域に視点をおいた新たな見方でまとめたものである。従来のこの分野の研究は,秦漢帝国として秦,漢両時代を一まとめにし,中国古代帝国の形成史論の視点から1960年代に活発に進められたが,ここでは秦漢帝国からいったん秦帝国の時代を切り離し,秦帝国の形成,崩壊の歴史に焦点を当てて分析した。それを可能としたものは,1975年湖北省雲夢県睡虎地秦墓の発掘以来新出土竹簡文字史料が増加したことであり,もう一つは1974年秦兵馬俑坑の発見に象徴される秦代考古学の進展である。基本的文献であった司馬遷の『史記』秦本紀、秦始皇本紀に描かれていた秦帝国史を新たな史料から読み直すことできるようになり,このことこそが本研究の中心の課題であった。そしてさらに,著者の独自なアプローチといえるものは,秦帝国の歴史の舞台を自ら実地調査を行うことによって,司馬遷の秦史の記述の由来を確認し,また司馬遷の記述しなかった事実を発見することができたことである。 さて本研究の序論では,新たな秦帝国史研究を二つの方向からさぐるべきことを提起した。すなわちその一つは統一時期の15年を特別に強調して切り離すのではなく,戦国秦以来の伝統性のなかで秦帝国の性格をとらえるべきことであり,もう一つは,後世の秦帝国,秦始皇帝に対する粉飾に満ちた過度の評価をできうるかぎり排除して実像に迫るべきということである。この問題提起を,つぎの第一篇「統一と地域」では統一の実体を地域から明らかにし,第二篇「歴史と伝説」では後世の秦王朝評価を歴史と伝説の問題からさぐっていった。そして第三篇「水利・陵墓・都市・長城」では,とくに水利,都城,陵墓,長城という古代秦の大規模な土木事業に焦点を当て,戦国秦から統一秦の過程の時代を背景に読みとろうとした。文献史学と考古学とをどのように合体させていくのかという課題も,ここでは具体化させた。考古学者は文献史料の記述の確かな部分を発掘資料から求めていく手法を取るけれども(逆に言えば考古資料を安易に文献史料に結びつけてしまい、文献史料への批判は見られない),ここではむしろ逆に文献史料の不確かな部分を考古資料から明らかにし,文献史料に頼りきっていた歴史学者としての反省をこめて考察を進めた。 以上の概要をもう少し詳しく述べれば,第一篇では,秦の果たした統一事業を,従来の研究のように統一の事実を何ら疑うことをしないのではなく、戦国秦と東方六国(斉楚燕韓魏趙)の地域に視点を置いて見直していった。統一を東方六国を征服,統合することで成し遂げた秦の側から見れば,統一事業も戦国秦以来の富国強兵策の継続,延長であり,始皇26年にはじめて新たな統一政策を掲げたわけではない。とくに法,度量衡,交通(道路)について専論し,始皇帝が統一後に東方の被征服地で行った巡行の意味については,山東を中心に江蘇、河北で試みた実地調査をもとに検討した。また楚,越は南方世界ともいうべき独特の風土をもった地域であり,秦がこの地を征服していく過程も,秦の対外戦争の歴史的背景をさぐることから分析した。統一とはたんなる地域の一律的な統合ではなく、まず現実的には一地域主導による他地域の支配であった。統一政策とされているものも、実際には戦国秦国内の統一の政策に見られるものを、他地域に適用しようとしたものであって、新たに統一のための政策を考案したわけではなかった。 第二篇は,秦帝国崩壊後の時間の経過とともに秦の歴史が総括され,秦や始皇帝をめぐる伝説が生まれ広がっていくありさまを,「歴史と伝説」というテーマで検討した。われわれが秦史の第一級の基本史料としている『史記』秦始皇本紀も,前漢武帝期という時代にして生まれたのであり,前漢初期の賈誼『過秦論』と比較しても,その時代的特徴は明らかである。司馬遷は全国を旅行した際に,多くの秦の史跡や諸伝説に出会い,それを史料として秦始皇本紀の記述のなかに取り込んでいった。とくに地方に残る伝説は,泗水周鼎引き上げ失敗伝説,荊軻の秦王暗殺未遂伝説,徐福伝説など,始皇帝を悪評するものが多い。伝説が生まれる背景を深く考えるべきであり,伝説自体が秦始皇本紀を構成する史料となっていることにも留意しておくべきことを確認した。伝説は従来ともすれば軽視されるものであったが、史料的価値も見いだせる。正史にはない、また征服者の側にはない、人々の心情がそこには反映している。 第一,二篇でまとめた自説に基づいて,秦代の水利,陵墓,都城,長城など大規模建設事業の実態を明らかにしたのが第三篇である。鄭国渠,都江堰,咸陽城,驪山陵、東陵、秦長城などの実地調査に基づいて,『史記』にはふれられていない多くの事実を明らかにすることができた。すなわち古代灌漑事業の具体的な方法,秦始皇帝陵の陵園や首都咸陽城構造の構想プランと実態,統一秦の長城の構想と実態などに関して,文献史料の限界を超えて検討していった。第一編の課題であった歴史における統一理念とその実態について,具体的な土木建築事業から明らかにしていった。やはりモノが語る世界は,きわめて現実の歴史の動きを正直に反映している。戦国の争乱から統一の平和,統一から再び対外戦争,そして内乱とともに崩壊に向かっていく秦の時代は,土木建築の一つ一つにも反映している。 さて本研究の出発となったのは,一年の中国での在外研究直後に執筆した序論「秦帝国の形成と地域」 (1986年)であった。前年の1985年4月から翌86年3月まで日本学術振興会から中国に派遣され,中国社会科学院歴史研究所の外国人研究員として自由な研究の機会が得られた。ここでの研究課題は「中国古代史とくに秦漢期の地域研究」であり,それまで漢代豪族の地域研究を行っていたので,中国という世界を構成する地域というものがどのようなものであるのか,また漢代の地方豪族が長安を中心とする関中に移住させられた様子を実地にさぐるというのが一年の課題であった。北京に7ヶ月滞在したほかは,西安,蘭州,敦煌,成都,鄭州,上海などの地方を回る調査旅行が始まった。この研修のなかで漢代史に関しても十分な成果があり,とくに前漢皇帝陵,長安,成国渠などの調査は発表したが,思わぬ副産物を得ていたことに後から気づいた。前漢という時代の前史としての秦という時代について,知らず知らずのうちに新たな認識を得ていたのである。鄭国渠,都江堰,咸陽城,始皇帝陵と兵馬俑坑,雍城と秦公墓,櫟陽城などの関連遺跡を歩くなかで,秦という時代を捉える方法を模索していたのである。 とくに雍城西南の秦公1号大墓を訪れたときの驚きは,序論「秦帝国の形成と地域」の執筆のきっかけとなったし,本研究のすべての出発はここにあった。すなわち始皇帝陵よりも300年もさかのぼる春秋末期の秦諸侯墓の規模の巨大さに圧倒されたことから,始皇帝陵にも伝統的性格があったことに気づいた。そしてこのことは,秦始皇帝に対しても中国史上はじめての皇帝として最初からその偉業ばかりをとりたてて称えるのではなく,戦国秦王として出発し,東方六国との戦争の過程で結果として統一に向かっていった歴史を注視すべきであるという自説の展開につながっていく。 その後の研究は漢代史をひとまず置くかたちで,秦史研究に集中していった。掴みかけていた自説の方向をより深く展開させていくために,関連する調査を積極的に進めていった。1991年には「秦始皇帝の東方巡行調査」を復旦大学中国歴史地理研究所の周振鶴教授と行い,連雲港・琅邪台・青島・龍口・烟台・成山などの関連地をめぐった。つぎに1993年には国際学術研究共同調査「仏教伝播第三の道に関する日中合同研究」の一研究班として,四川大学歴史系,復旦大学歴史地理研究所の共同研究者と成都・西昌・昆明・大理を回り,秦の巴蜀支配と水利,西南地域の交通路などの関係史跡を調査した。1994年には第4回秦兵馬俑研究国際学術討論会に参加し,秦始皇帝陵建設の時代について学術報告を行ない,同時に兵馬俑坑,始皇帝陵周辺,秦東陵などの調査を行なった。1996年には陝西歴史博物館主催の中国西北路調査という国際学術調査に日本側として参加し、戦国秦の長城の調査を陝西省固原および白水県で行った。そして最後には1997年に国際学術研究「黄土地帯の都城と生態環境史」において陝西師範大学との共同研究が始まり、再度鄭国渠渠首を訪れ、また秦咸陽城を漢長安城と比較しながら調査することができた。こうして実地の成果を整理しながら,本研究をまとめることができたのである。こうした実地研究は、たんに文献史料と考古資料とを結合させたものではない。むしろ文献史料と考古資料を重ね合わせ、相互に結びつけるのが実地研究といえる。 終論で展開した秦帝国15年論では、第1編から第3編までの考察を今一度まとめた。統一と平和の6年、対外戦争の6年、そして始皇帝後の二世皇帝の治世3年の3時期の意味を正しく理解していれば、秦帝国の歴史を統一と分裂という一面的なものに終わせることはない。 |