学位論文要旨



No 213972
著者(漢字) 李,開元
著者(英字) Li,Kai-Yuan
著者(カナ) リー,カイユアン
標題(和) 漢帝国の形成とその権力構造 : 軍功受益階層の研究
標題(洋)
報告番号 213972
報告番号 乙13972
学位授与日 1998.09.14
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第13972号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 平勢,隆郎
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 助教授 大津,透
 東京大学 助教授 小島,毅
 大正大学 教授 尾形,勇
内容要旨

 秦漢帝国の成立から清朝の崩壊に至るまでの約二千年の中華帝国時代において、なぜ専制支配体制が存続し得たかということは、内外にわたる多くの研究者を魅了し続けた中国史研究上における最大の課題の一つであった。私は、この重大な課題について、従来とはやや異なった観点から、一つの試論を提起してみたいと思う。すなわち、ここで私が新たに注目したいのは、秦漢帝国を始めとする中華帝国は、そのほとんどが長期間の戦争を経て打ち立てられた王朝国家であるということ、言い換えれば、それぞれ一定の「軍事集団」が、少なくとも原初的には、それぞれの王朝を樹立したという、当然と言えば当然の事実である。そこで試みに、各王朝の創設の際に機能した軍事集団に着目すると、そこには、軍事集団各々が、各王朝を通して連続性ある一つの「社会階層」へと変容・発展しているという興味ある事象が浮上してくるように思われるのである。もとより、この「軍事集団」が「社会階層」へと展開するという事実を実証するためには、二千年におよぶ中華帝国の各王朝において多方面からの系統的な考察が必要であることはいうまでもないでが、本稿では、まずその検討作業の一環として、前漢王朝を創建した「漢初軍功受益階層」の問題について論ずることとする。

 前漢王朝は、政治軍事集団としての劉邦集団が八年間に及ぶ戦争を通して打ち立てたものであり、劉邦集団の発展過程は、漢帝国の建国過程でもあったのである。具体的にいえば、政治組織としての漢帝国は、劉邦集団が山群盗集団、楚国所属の沛県・郡政権、漢王国政権、漢帝国政権という四つの段階を経て発展してきたものである。この四段階で構成された発展過程において、劉邦集団は三つの法統理念(支配の正統性への法的根拠に関する理念)に基づいて三つの質的変化を成し遂げていったのである。一、陳渉の張楚の法統によって、劉邦集団は政権体制外の非合法組織から既存国家の地方政権組織への質的変化を成し遂げた(楚国所属の沛県政権の成立)。二、楚の懐王の法統によって、劉邦集団は既存国家の地方政権組織から独立国家の政権組織への質的変化を成し遂げた(漢王国の成立)。三、秦の法統によって、劉邦集団は独立国家の政権組織から多くの独立国家を支配する帝国政権組織への質的変化を開始した(漢帝国の成立)。つまり、漢帝国は,劉邦集団の手によって段階的にできた王朝国家であり、漢帝国の創建にいたった劉邦集団は、階段的な合法化と官僚化を成し遂げ、順調に、弱小の民間非合法組織から膨大な帝国政権組織へと成長していったのである。

 漢帝国の樹立に伴い、その樹立主体である劉邦集団は、段階的に漢帝国の支配階層に変容・発展してきた。一、楚国政権への帰属によって、流民集団としての劉邦集団は楚国の沛県官吏集団、さらに郡官吏集団へと変容した。二、漢王国の建国によって、楚国の地方政権の官吏集団としての劉邦集団は漢王国の支配階層へと転化した。三、成立を宣言した漢帝国は、直ちに軍隊を解散すると同時に、高帝五年詔など一連の軍吏卒を優遇する法令を発布・実行し、政権が獲得した帝国内の政治権力、土地財産、社会身分など、すなわち社会総財産についての全面的再分配を行った。この社会総財産についての再分配の中で、政治軍事集団としての劉邦集団は漢帝国の支配階層、すなわち漢初軍功受益階層になっていったのである。

 漢初軍功受益階層をその家族も含めて算出すると、約三百万人以上となり、それは当時の人口総数の約二〇%を占めることとなる。漢の初めに進められた社会総財産についての再分配において、その分配基準は、まず軍功の大小に基づいて軍功爵位の等級を定めることを基本として、その軍功爵位の等級により分配量を確定して分配を行うというものである。政治権力の分配についていえば、集団の首領の劉邦は、最大の権力を得て皇帝になったのである。皇帝以下、劉邦集団の構成員たちは軍功の大小に基づきそれぞれ諸侯王、列侯、大臣、各レベルの官僚、官吏の職位につくことで、漢帝国の政権を完全に掌握していった。社会身分の分配においては、劉邦集団の構成員たちはそれぞれの軍功に基づいて、二十等の軍功爵位のなかで各々の爵位を手に入れていった。この二十等爵位に上位の王と皇帝を加え、下位の無爵の士伍と非自由民である奴婢をも加えれば、それは当時の社会身分の全体となる。各種の特権と待遇も、全てこれによって定められることとなった。土地財産の分配について言えば、功労によって田宅を与えるという軍法の規定に基づき、漢初軍功受益階層は少なくとも全帝国の四〇%以上の土地と他の大部分の財産とを得た。それは帝国の経済を制御するものであったと推測することができよう。

 漢初軍功受益階層は高帝期に出現し、恵帝、呂后、文帝、景帝期を経て、武帝末年に歴史の舞台から消えるまでおよそ百年間存在した。そのうち高帝、恵帝、呂后、文帝期の約五十年間は、漢初軍功受益階層が漢帝国政権を完全に支配しており、それはこの間の漢帝国の政治の主要な柱であった。それが時間の流れとともに衰退をはじめた。その衰退は下から上へと漸進するかたちで現れ、時間の推移によって、その衰退の波は下層部から次第に上層部に波及した。その略を言うならば、漢初軍功受益階層は文帝初期と中期に、諸侯王国政権と県レベル政権の支配をそれぞれ失い、文帝末期に、郡レベル政権の支配を失い、そして最後に景帝期に漢の中央政権における支配までも失っていった。

 劉邦集団の発展過程に伴い組織の首領たる劉邦も、群盗の首領-楚国の沛県公-楚国の郡長-漢王国の王たる漢王といった段階を経て、最後に各諸侯王の推挙によって漢帝国の皇帝となった。劉邦が部下の推挙を受けて皇帝になったのは、彼の(軍)功が最高だったことはもちろんであるが、さらに集団内の権益分配を公平に進める最も厚い(恩)徳をも彼が備えていたためである。劉邦の皇帝権は、劉邦集団における「共天下」という政治権力の共同所有という理念に基づき、共同の権益を集団で分配した結果の一部分にすぎず、その上それがその起源(軍功と恩徳)、外的(漢朝と諸侯王国の並立)および内的(新貴族王政の成立)相対性という三つの条件によって規定さていたために、この皇帝権は専制的絶対権力ではなく、相対的に有限な皇帝権であると考えられる。この相対的に有限な皇帝権の性格は、白馬の盟によって確認・確立された。白馬の盟とは,皇帝と諸侯王と列侯功臣の間で結ばれた双務的性格をもった契約であり、それに現れる政治関係は、覇業政治のそれである。白馬の盟は,漢の宮廷皇権と諸侯王国の王権を劉氏一族に限定し、侯国および丞相を中心とする漢の政府機構の権力を、列侯を始めとする軍功受益階層に限定するものであった。この白馬の盟に規定された権力分配は、漢帝国の政治体制に漢の宮廷皇権、諸侯王国王権、丞相を代表とする政府権力という三権が並立する政治構造をもたらしたのである。この三権並立の政治構造の中で、丞相を頂点とする政府権力は、皇族皇(王)権に対して独立性をもつ軍功受益階層に独占されたため、宮廷皇権と王国王権の外にそれと並立して存在するものである。諸侯王国の王権は、軍功受益階層に対しては宮廷皇権の外援として位置づけられ、宮廷皇権に対しは、宮廷皇権と並立して存在する貴族王政として位置づけられる。したがってこの三権並立の政治権力構造の中にあっては、皇帝権は漢朝宮廷に限定された存在であった。

 さらに、この強大な軍功受益階層の存在を前提として、漢朝、諸侯王国、侯国が並立する初期の前漢帝国は、始皇帝によって創設された全面的郡県制にもとづく秦の統一帝国とは、多きな相違点があり、それは漢朝の主導による統一の法制に従って四級制の国家連合体であるということができる。この四級制国家連合体としての漢帝国の中で、列侯は侯国の支配権を擁し、諸侯王は王国の支配権を擁し、皇帝のいる漢王朝は漢王国に相当する皇帝の直轄地の支配権を擁すると同時に、侯国および王国に及ぶ政治主導権を兼有していた。私はこの前漢初年における漢帝国の行政構造に対して、連合帝国という名をつけたい。そして、この連合帝国の前漢初年と秦楚漢間、さらに遡って戦国時代は、列国並立下における覇業政治という歴史的特徴において共通している、という歴史事情も明らかになった。

 さて、前漢王朝は中華帝国時代における多くの循環王朝の一つにすぎないが、中華帝国問題を考察する際には、一つの分析可能な独立した単位となる。漢帝国を中華帝国二千年の歴史の中で考察する時、軍功受益階層という独特の社会階層はただ前漢王朝時代に限られる一時的なものだけではなく、二千年の中華帝国時代を貫く普遍的なものとして現れてくるように思われる。つまり、いわゆる軍功受益階層は、春秋時代から、戦争規模の拡大および徴兵対象の拡大につれて発生し、戦国時代から秦王朝・前漢初年まで存続し、軍功受益的な連続性をもった社会階層であった。この社会階層は、氏族制的な分権国家から中国古代の統一帝国を創設し、そこから官僚制的中央集権国家への移行期に両者を連結する媒介としての役割を果たしたのである。その後それは、繰り返し王朝循環を行う二千年の中華帝国の歴史の中で、新しい王朝国家の創始者とそれを支えるものとして、絶えず政治社会における主導的な立場に立って主役を演じ続けていたのである。この社会階層の性格の解明は、中国古代帝国の成立と構造とを究明するための重要な鍵となっていると思われる。

審査要旨

 専制主義的支配体制が、中国において何故に二千年余にわたり存続し得たのかという問題は、多くの研究者を魅了しつづけてきた中国史研究上の最大の課題の一つである。この永遠の懸案ともいうべき課題を正面から見据えながら、これまでにない新しい観点から、いわゆる中華帝国の特質の究明を試みたのが本論である。本論の面白さは、歴代の王朝国家が、それぞれ一定の「軍事集団」によって樹立されたという、当然といえば当然の事実に着目したことである。そして論者は、創設の際に機能したこの軍事集団について、王朝権力が成立した後の段階の動向を追究し、その集団が帝国を支える一つの「社会階層」へと変容・発展している、という特色ある事象を浮上させる。

 本論で具体的な検討の場とされているのは、漢(前漢)帝国成立時の軍事集団であり、「漢初軍功受益階層」とは、その軍事集団が社会階層として変容・発展した姿である。そもそも漢朝を興したのは無位無官の高祖劉邦を担いだ武装集団であり、漢初こそは、権力構造の原初的形態を説き明かすうえでの絶好の時代であった。ちなみに、かつて中国史研究の発展を支えた1960年代からの古代権力構造論争が、その武装集団の性格の理解をめぐってのものであったのは、まさにこの事情からであり、論者が、当時の研究成果に啓発されつつ、この時期から考察を開始したのも同じ事情による。

 本論ではまず、劉邦集団が弱小の民間非合法組織から強大な国家権力へと成長する政治過程を分析し、劉邦のもとに結集する集団の成員が、一つの支配階層へと質的な転換をとげたことを指摘する。転換の契機、すなわち受益階層の成立は、漢帝国の樹立直後のことであり、論者は、軍人・吏卒たちを帰農させると同時に発布された一連の詔勅・法令の分析を通して、軍功がまず爵位に換算され、次に爵位に応じて田宅を配分するなどの手法によって特段の恩恵が賜与されたという事情を解明する。論者によれば、漢初に出現したこの特権的な階層は、家族まで含めると総人口の20%を占め、全帝国の40%以上の土地と財産の配分を享受した。そして受益階層は、時とともに衰退したとはいえ、特に列侯などの上層の者は、丞相を中心とする顕官を独占したことによって、武帝期までの約100年間にわたって、国家体制を支え、政治動向を左右する存在でありつづけた、とする。

 漢代には、天子を頂点とし、諸侯王・列侯以下一般庶民にまで及ぶ特異な爵制(二十等爵制)が成立し機能していたが、論者はこの身分序列を、軍功の多寡に従って「共同の権益」を配分した結果(共天下)であって、この意味では、漢朝を特徴づける「郡国制」は「周の封建制」の復活による結果ではないとする。この観点からすれば、皇帝は、単なる軍功最高のゆえに最大の受益を得た者として位置付けられ、また諸侯王や列侯などの封建領土(王国・侯国)は、広狭の別はあれ、兵卒などに配分された田宅・財産と同質のものとして理解できる。この見方をもって論者は、漢の皇帝権は、帝国成立直前に劉邦が封土として得た「漢王国」の性格が強かったのであり、少なくとも初期の段階にあっては、「専制的絶対権力」ではなかったと説く。つまり漢帝国とは、漢王国に相当する直轄地の支配権を擁する「王朝」(宮廷皇権)、それに併存する「王国」と「侯国」、そしてこれらを包摂しながらも、内実では政治機構を独占し、また地域社会において特権を保持する一般受益階層が活躍する領域(帝国)-という「四級制の連合国家」であるとし、このような独特の社会階層は、漢初にとどまらず歴代王朝の創設期にはかならず出現するものであって、この階層こそ「中華帝国」の特質を究明するための重要な鍵であると結論している。

 本論は、伝統的な考証学を基盤としながらも、統計的分析などの手法を巧みに取り入れた意欲的な研究であり、上述した通り、その主張するところのスケールは極めて大きい。それだけに、論者が検討の対象を秦末〜漢初に意図的に限定したためであろうが、秦帝国が一旦は成立させた郡県制の体制と、受益階層の衰退後に再現される中央集権的な官僚支配の体制との系譜的な位置付けなどの問題については、今後の検討課題として残し置かれた感がある。また「連合」等の用語についても、概念規定の厳密さがいま一つ欲しいところである。しかしながら、本論の主題をなす「漢初軍功受益階層」は、論者が始めて着目し提起した事象であり、その考察を通して論者が示した新解釈には、従来の通説の訂正を迫るものがあり、本論は、学説史の展開のうえで画期的なものとして、今後、学界で多くの論議を呼ぶことになるはずである。

 以上の観点から、本論文を博士(文学)の学位を授与するに十分に値するものと認定する。

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