学位論文要旨



No 213990
著者(漢字) 富田,章久
著者(英字)
著者(カナ) トミタ,アキヒサ
標題(和) 量子井戸半導体レーザーにおけるキャリア間相互作用の研究
標題(洋)
報告番号 213990
報告番号 乙13990
学位授与日 1998.09.17
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第13990号
研究科 工学系研究科
専攻 電子工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 荒川,泰彦
 東京大学 教授 神谷,武志
 東京大学 教授 榊,裕之
 東京大学 教授 菊池,和朗
 東京大学 教授 伊藤,良一
 東京大学 助教授 中野,義昭
内容要旨 はじめに

 半導体レーザは光通信、光情報処理用光源として広く用いられている。特に、最近の量子井戸の活性層への導入により、レーザ単体の研究は成熟しつつある。一方、超高速通信用光源としてのモードロック半導体レーザ、半導体レーザアンプを非線形媒質とする波長変換器や光PLL、情報処理分野での低雑音セルフパルセーション等のようにレーザに機能を持たせることが盛んに検討されている。このような半導体レーザの新たな応用に対してはレーザの量子井戸活性層についてより詳細な知識が必要となる。例えばモードロックレーザやセルフパルセーションレーザのようにレーザ媒質の一部を可飽和吸収体に用いる場合には利得スペクトルのキャリア密度依存性を知らなければならない。また、レーザを非線形媒質として使うときには利得の非線形性とそれに関連したキャリアの緩和が重要になる。これらの特性は、キャリア間の相互作用によって大きな影響を受けるが従来の理論では緩和時間近似に代表される現象論的な解析が主であった。また、キャリア緩和の実験的な検討も十分でなかった。

 本論文は量子井戸半導体レーザにおいてキャリア間の相互作用が利得スペクトルや非線型利得を通して特性に与える影響を検討した。半導体レーザの核心となるのは活性層のキャリアであるから量子閉じ込め構造の周りに着目してこの部分を量子力学で扱うことにする。また、キャリア系に注目し、それ以外(格子系など)との相互作用は摂動で取り入れる。ここで、格子は熱平衡にあるとし、温度TLで記述される。光を古典的に扱うと半導体中のキャリアの影響はマックスウェル方程式の中の分極に全て入っている。つまり与えられた構造、キャリア密度における分極または感受率を求めることが目標になる。

 以下では、量子井戸レーザの定常状態での動作と応答を考える。現在広く用いられている量子井戸材料のInGaAs/InGaAsP(光通信用)やGaInP/AlGaInP(情報処理用)では電子を閉じ込めるためのポテンシャルが小さいので電子と正孔の空間的な分布が異なる。レーザの設計ではこのようなキャリアの空間分布も考慮する必要がある。また、キャリアの散乱によって光遷移のスペクトルが変化し、利得も影響を受ける。キャリアの多体効果や散乱の複雑なダイナミクスを取り入れながらも実用的な設計を行なう立場から、キャリア間の相互作用を少数のパラメータで表わすモデルを用いることにする。ただし、このモデルは現象論的なものでなく微視的なハミルトニアンから導き出せるようにしておく。モデルを微視的な過程と結び付けておくことで簡単でありながら精密な計算が可能になる。

 解析は2段階に分けられる。まず、光との相互作用がない場合にはキャリアは擬平衡状態にある。この時のキャリアの波動関数とエネルギーを求める。次に、光との相互作用を取り入れた方程式を前に求めた波動関数を基底として書き下ろして感受率を計算する。

擬平衡状態でのキャリアの波動関数とエネルギー

 第1段階での解くべき方程式を有効質量近似の範囲で求める。キャリアの多体効果は平均場近似により1体のポテンシャルで取り入れる。方程式を電子と正孔について解き、キャリアの分布がセルフコンシステントになるようにするとキャリアの波動関数とエネルギーが得られる。キャリア間の相互作用によるポテンシャルは他のキャリアの分布によって決まる。KohnとShamIの密度汎関数法では1電子についての方程式(Kohn-Sham方程式)は:

 

 で与えられる。ただし、Hkinはハミルトニアンの運動エネルギーの部分である。価電子帯のミキシングがあるときにはこの部分が価電子帯のブロッホ関数を基底とするLuttinger-Kohnハミルトニアン2で表わされ、波動関数はベクトルになる。また、U(z)は量子井戸のポテンシャル、V(z)はキャリア間の相互作用によるポテンシャルで空間電荷ポテンシャルと交換相関ポテンシャルからなる。ここで、交換相関ポテンシャルが局所的なキャリア密度の関数で表わされるものとし(局所密度近似)、単位面積当たりの交換相関エネルギーを一様で中性なelectron-hole liquidの1電子-正孔対あたりの交換相関エネルギーXCを用いて表わす3。この近似は電子と正孔の密度がほぼ等しいとき(局所的電荷中性)正しい。ここで考えているような系では局所的電荷中性が必ずしも満たされないが、それでも良い近似となる。交換相関エネルギーは電子と正孔の有効質量の比やバンドの数に対してuniversalな性質をもつ4から全ての電子と正孔が同等に交換相関エネルギーに寄与する。

 GaAs基板上のGa0.5In0.5P/(Al0.4Ga0.6)0.5In0.5P量子井戸(5nm厚)の電子状態を計算したところ、キャリア密度が4x1012cm-2のとき電子に対して付加されるポテンシャルの深さは45meVにも達することがわかった5。この例のように電子の閉じ込めポテンシャルが比較的小さく、井戸の外へのキャリアの分布が大きいときには空間電荷と交換相関相互作用の両方を考慮する必要がある。空間電荷だけを考える近似(ハートリー近似)6,7は一般に正しい結果を与えない。また、これらのポテンシャルは元の閉じ込めポテンシャルと比べても小さくないため、キャリアの空間分布に与える影響は大きい。このため、キャリアの多体効果を無視して求めた波動関数を用いてキャリアの自己エネルギーを計算してバンドギャップの減少を論ずるのはキャリア密度が小さいときを除いて正しくない。ただし、GaAs/AlGaAs量子井戸のように閉じ込めポテンシャルが大きいときにはそれほど悪い近似ではない。空間電荷は電子と正孔の空間的分布の違いから生じるから井戸の厚さによってその重要性は変わることを注意しておく。

光とキャリアの相互作用

 次に、光とキャリアの相互作用を入れる。基底として光がないときのキャリアの擬平衡状態での波動関数を用いる。これは、光があまり強くないときにはキャリアの分布は擬平衡状態のフェルミ分布からのずれが小さいから自然な選択である。相互作用としてバンド間の双極子遷移だけを考える。キャリアのプラズマ振動も屈折率には重要だが、キャリア密度の変化がないので別に考えるi,8

 i 量子井戸構造におけるフリーキャリアによる屈折率を擬2次元系の波動関数を用いた線形応答理論で計算した。長波長近似を用いたとき、フリーキャリアの屈折率の偏光依存性がなくなる。量子井戸構造によるフリーキャリア屈折率の制御は閾値キャリア密度の変化を通した間接的なものである。 長波長近似を使い、ある波数kの電子正孔対の運動を取り出すために射影演算子を用いる。射影された密度行列の運動方程式をTime-convolutionless形式9,10で展開する。キャリアのバンド内散乱を表わす相互作用ハミルトニアンをHintとし、意味のある最低次までとった密度行列の運動方程式は

 

 となり、従来から知られている密度行列方程式11と似た形をしている12。このため従来の運動方程式で発展してきた概念や手法を適用でき、式の操作や解釈がやりやすくなっている。従来はキャリアの緩和を表わす項が緩和時間で表わされていたのに対し相互作用ハミルトニアンの自己相関関数の時間積分を含んで時間に依存する。この時間依存性が緩和過程における非マルコフ性を表わす。非マルコフ性が利得や非線形利得に対して及ぼす影響はキャリア散乱を確率過程でモデル化して調べることができる13,14,15。利得や非線形利得がキャリア緩和の非マルコフ性によって増大することが示された12

実際の量子井戸レーザへの適用

 実際の量子井戸レーザの線形利得・非線形利得を計算した。量子井戸レーザの発振波長(利得ピーク)はバンドギャップシュリンケージとバンドフィリングで発振波長が決まるが、キャリアの空間分布が無視できない場合は井戸のポテンシャルが変形する効果も無視できないことがわかった5,16。また、GaInP/AlGaInP量子井戸について数種の量子井戸構造の利得を計算し、温度特性を比較して可視光レーザの温度特性の要因を検討し、量子準位に近接した連続準位へのキャリア分布(この場合はX点)が大きな影響を与えることを示した。

 半導体レーザの非線型利得の起源として、スペクトラルホールバーニングとキャリアヒーティングについて検討し、しきい値利得(キャリア密度)の関数としての非線型利得の振る舞いが非線型利得の機構によって異なることを示した。量子井戸の種類(歪量)や閉じ込め係数に対する依存性の実験結果はスペクトラルホールバーニングを非線型利得の機構とすると良く説明できる。更に、レート方程式で非線形利得の表式(利得の光子密度依存性)を求めた12

 量子井戸のキャリア緩和を観測するため、半導体レーザの4光波混合を行った。共振器によって増強される4光波混合を理論的、実験的に解析した。THz以上の離調でも4光波混合が観測でき、また非線形感受率の値はレーザの変調実験から求めたものと一致した17。また、スペクトラルホールバーニングによる4光波混合の密度行列理論を展開した。

おわりに

 半導体レーザの動作をできるだけ正確にかつ簡単に記述するために、キャリアに対する微視的な方程式を導き、キャリア間の相互作用をモデル化して取り入れた。得られた基本方程式を実際の半導体レーザに適用し、その有効性を確かめた。また、キャリアの緩和を観測する試みも行った。本論文で述べた理論を更に精密化するには時間に依存した多体問題をキャリアの空間分布も含めて解いていくことが必要になる。このような試みはまだ成功していないが、時間依存ハートリーフォック方程式や時間依存密度汎関数方程式についての成果を取り込んでいくことでより満足のいく理論ができるものと期待される。

文献1 W.Kohn and L.J.Sham,Phys.Rev.140(1965)Al133.2 J.M.Luttinger and W.Kohn,Phys.Rev.97(1955)869.3 G.E.W.Bauer and T.Ando,Phys.Rev.B34(1986)1300.4 P.Vashishta and R.K.Kalia,Phys.Rev.B25(1982)6492.5 A.Tomita,Phys.Rev.B54(1996)5609.6 D.Ahn and S.L.Chuang,J.Appl.Phys.64(1988)6143.7 S.Seki and K.Yokoyama,J.Appl.Phys.77(1995)5180.8 A.Tomita,IEEEJ.Quantum Electron.,30(1994)2798.9 F.Shibata,Y.Takahashi,and N.Hashitsume,J.Stat.Phys.17(1977).10 F.Shibata and T.Arimitsu,J.Phys.Soc.Jpn.,49(1980)891.11 M.Yamada and Y.Suematsu,J.Appl.Phys.,52(1981)2653.12 A.Tomita and A.Suzuki,IEEE J.Quantum Electron.27(1991)1630.13 R.Kubo,Stochastic Processes in Chemical Physics,Adv.Chem.Phys.vol.XV,Ed.K.E.Shuler,(Wiley,NY,1969).14 T.Takagahara,E.Hanamura,and R.Kubo,J.Phys.Soc.Jpn.,43 pp.811-816,1977.15 E.Hanamura,J.Phys.Soc.Jpn.,52,pp.2258-2266,1983.16 A.Tomita and A.Suzuki,IEEE J.Quantum Electron.,QE23(1987)1155.17 S.Murata,A.Tomita,J.Shimizu,M.Kitamura,and A.Suzuki,Appl.Phys.Lett.,58(1991)1458.
審査要旨

 本論文は「量子井戸半導体レーザにおけるキャリア間相互作用の研究」と題し、量子井戸半導体レーザにおける利得効果についてキャリア間相互作用を考慮した統一的記述を行うとともに、その結果に基づいて量子井戸半導体レーザの発振波長特性や高速変調特性、およびキャリア緩和効果を明らかにしたものであり、全7章より成っている。

 第1章「序論」においてはこれまでの半導体レーザ研究の歴史を概観し、本論文で取り扱う課題の位置づけを行った。

 第2章「量子井戸の電子状態」においては、電子と正孔の空間的な分布の違いに起因する空間電荷ポテンシャルと交換相関相互作用、それに価電子帯のミキシングの影響をセルフコンシステントに取り入れて量子井戸の電子状態を議論した。計算手法として局所密度汎関数法とLuttinger-Kohnハミルトニアンとを総合したものを開発し、電子・正孔の2成分系に対して初めて適用した。このような計算は長波長帯や可視域で用いられるInPを含む材料系の量子井戸のように井戸の閉じ込めポテンシャルがあまり大きくない場合に必要となることを示した。

 第3章「量子井戸におけるキャリアと光の相互作用」においては、キャリアと光の相互作用を議論した。光遷移によって擬平衡状態からずれたキャリア分布が新しい擬平衡状態に向かって緩和する過程(バンド内緩和)があるときの利得や非線形利得の表式を微視的なキャリア間相互作用のハミルトニアンから導いた。ここでは、線形状関数がキャリア間相互作用のハミルトニアンの自己相関関数で表わされることを示すとともに、単一モードの光電場に対して任意の光強度に対する光学利得の表式をバンド内緩和の非マルコフ性の影響を含めて求めた。キャリアの緩和を射影演算子法で扱うことで従来の密度行列法と線形状関数の理論を統一し、これらに微視的な基礎付けを与えた。また、量子井戸構造による自由キャリア屈折率の制御の可能性を検討するため、擬2次元系の波動関数を用いて線形応答理論によって誘電応答を求めた。

 第4章「量子井戸レーザの線形利得」においては、第2章と第3章の結果を使って量子井戸レーザの線形利得を計算した。線形利得の影響はレーザのしきい値特性に現われるが、特に空間電荷効果や交換相関相互作用が重要になる例として、量子井戸レーザの発振波長を論じた。レーザの発振波長(利得スペクトルのピークの位置)は交換相関相互作用によるバンドギャップシュリンケージとバンドフィリングとの兼ね合いで決まり、しきい値キャリア密度が大きくなるにつれてバンドフィリングによる短波長化が支配的になることを示した。発振波長の変化に関連して量子井戸を可飽和吸収体として用いたときのセルフパルセーション発現のためのバンドギャップの条件を、キャリア密度に依存した利得スペクトルから導いた。また利得スペクトルを異なる温度で計算して、可視光の半導体レーザの温度特性の検討を行った。種々の量子井戸構造を比較した結果、温度特性には伝導帯のX点の影響が大きいことを明らかにした。

 第5章「量子井戸レーザの非線形利得と高速変調」においては、半導体レーザの高速変調特性を支配する非線形利得について議論した。非線形利得の起源として、スペクトラルホールバーニングとキャリアヒーティングについて検討し、しきい値利得(キャリア密度)の関数としての非線形利得の振る舞いが非線形利得の機構によって異なることを示した。さらに、光変調法によって半導体レーザの寄生容量やインダクタンスの影響を除いた変調特性を測定した。これらの結果を用いてスペクトラルホールバーニングによる非線形利得の寄与が無視できないことを明らかにした。

 第6章「量子井戸におけるキャリア緩和の観測」ではキャリア緩和を実験的に調べた。スペクトラルホールバーニングによる4光波混合の密度行列理論を展開し、非線形感受率の離調依存性に対する緩和の非マルコフ性の影響や強いポンプ光による飽和を検討した。さらに、n-変調ドープ量子井戸の正孔の緩和を時間分解発光によって実験的に直接観測を行い、光励起された正孔は励起の800fsまで非熱的に分布することを示した。このような長い緩和時間は、低温では電子系が縮退するため正孔の散乱確率が小さくなることに起因する。

 第7章「結言」においては、本論文で得られた結論をまとめるとともに、従来の研究との比較・今後の課題と展望について論じている。

 以上これを要するに、本論文は量子井戸半導体レーザの利得効果についてキャリア間相互作用を考慮しながら統一的に論じるとともに、量子井戸半導体レーザの発振波長特性、高速変調特性、およびキャリア緩和現象について理論・実験両側面から明らかにしたものであり、電子工学への貢献が少なくない。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51091