学位論文要旨



No 214011
著者(漢字) 中村,雅之
著者(英字)
著者(カナ) ナカムラ,マサユキ
標題(和) 動特性を利用した水晶発振子式化学センサの情報処理に関する研究
標題(洋)
報告番号 214011
報告番号 乙14011
学位授与日 1998.10.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14011号
研究科 工学系研究科
専攻 計数工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 石川,正俊
 東京大学 教授 藤村,貞夫
 東京大学 教授 木村,英紀
 東京大学 教授 安藤,繁
 東京大学 教授 藤田,博之
内容要旨

 近年,自然環境や屋内環境における揮発性有機化合物(Volatile Organic Compounds:VOCs)の自然,人体に対する影響が懸念されており,VOCsを正確に計測する技術の開発が大きな社会的要請となっている.特に,ガスクロマトグラフィーに代表される大型で分析に手間と技術を要する機器に代わって,小型化が可能で簡便な化学センシング技術の開発が必要とされている.

 そこで本論文では,プラズマ有機薄膜をコーティングした水晶発振子を化学センサとして用いた化学センシングシステムを開発した.水晶発振子の発振周波数変化量は表面の質量変化量に比例し,ナノグラムオーダーの質量変化量を検出できるため,センサ表面の感応膜へのガス化合物の吸脱着を質量変化量として直接観測できるという特徴がある.このような化学センサを用いて,目的ガス化合物を高感度に検出し化学種の判別を行うためには,特にセンサ情報の処理が重要である.そこで本論文では、すでに知能化が進んでいる視聴覚センシングと同様に,化学センサにおけるセンサ情報の処理方法を中心に新しい化学センシングの方法を提案した.

 具体的には,従来静的なパターンを対象とした処理方法に対して,センサの動特性を考慮した応答モデルを新たに構築し,具体的なガス化合物分析方法を提案するとともに,提案した方法により,有効なセンサ情報の抽出が可能であることを示した.これらを用いて,より具体的に,多種類のVOCsを計測できる新しい小型分析装置の実現を目指し,ガス化合物分析方法を提案し,様々なVOCsを対象としてパターン認識の手法により判別,定量が可能であることを示した.さらに判別精度,判別ガス化合物数,定量精度の観点から従来の方法と比較し,提案方法の有効性を体系的に提示した.化学センサ情報処理においてはセンサ応答のモデル化から応答分析,認識というように処理を進めることが必要であり,本論文ではこの考え方に沿って,センサデバイスからセンシングアルゴリズムまで体系的に議論を進めている.

 第1章では,化学センサ研究の現状と問題点について述べた.化学センサが物理センサに比べて進歩が遅れているのは,大部分の研究がセンサデバイスの研究から脱していないためであり,化学センサの知能化にはセンサ情報の処理が重要であることを示した.

 第2章では,プラズマ有機薄膜の作製および本センサの大きな特徴である機械的特性について述べた.化学センサを使ってシステムを構成するには,センサデータの再現性,センサ感応膜の機械的耐久性が不可欠となる.そこで,プラズマ有機薄膜の構造解析を行い,高感度化学センサ感応膜として機能することを示した.さらに感応膜をコーティングした水晶発振子のインピーダンス解析から,本化学センサが機械的強度に優れていることを示した.

 第3章では,感応膜へのガス化合物分子吸着拡散によるセンサ応答モデルを示した.化学センシングシステムを構成するには化学センサそのもののシステム表現が必要となるが,現在のところ化学センサの信号処理に重点を置いた研究はない.その理由は化学反応に基づいたセンサ,例えば半導体ガスセンサについては信号発生機構がよくわかっておらずモデルの構築が困難だからである.本センサでは感応膜表面でのガス化合物分子の吸着と吸着分子のバルクへの拡散によって応答が生成されると考えられる.この吸着拡散現象を簡単なモデルで表現した.そしてガス化合物分子直径と拡散係数との関係,膜厚を変化させたセンサの吸着量,時定数と膜厚との関係から本モデルがセンサ応答モデルとして適切であることを示した.さらに本来,分布定数系で表されるセンサ応答モデルについて集中定数系への近似を行い,センサのシステム表現として扱いやすい線形モデルを導出した.

 第4章では,第3章で述べた応答モデルに基づいたガス化合物判別法について述べた.センサの選択性を高めることは化学センシングシステムの性能向上のための最重要課題であるが,その実現は容易ではない.むしろ選択性は低いけれども吸着特性の互いに異なる複数のセンサを用意し,センサアレイ応答からパターンベクトルを形成するパラメータを抽出し,パターン空間上で判別を行うことによって選択性を生み出す方法が現在のところ有効であると考えている.その場合,センサ応答からいかに効率良くパラメータを抽出するかがその後の判別結果を大きく左右する.本章ではまず,センサを線形なシステムとみなすとその伝達関数が対象ガス化合物によって変化することを利用し,その伝達関数を推定することによってパラメータを抽出した.そして吸着量だけを用いる従来方法ではできなかったガス化合物の判別が可能となり,判別精度が向上することを示した.またセンサの伝達関数を推定するには入力(ガス化合物濃度)について既知でなければならないが,ガス化合物の発生の仕方はいつも一定とは限らず,時間的に変動する場合も考えられる.動特性の異なる複数のセンサを利用すると,対象ガス化合物の濃度が時間的に変動しても伝達関数を推定でき,ガス化合物を判別できることを示した.

 第5章では,化学物質分析装置を指向した化学センシングシステムについて述べた.化学センシングシステムにおいてはセンサ応答からいかに有効な情報を引き出すかがその性能を決める鍵となる.その情報を解釈し,ガス化合物の判別を行うステップはパターン認識におけるパターンマッチング部と同じである.このステップは引き出された情報に適合したものでなければ判別性能は向上しない.本章では,センサの伝達関数を逐次推定し,得られたパターンベクトルのマッチングを学習ベクトル量子化によって行うシステムについて述べた.判別精度,判別ガス化合物数について従来方法と比較し,学習ベクトル量子化によって高速な学習,高精度な判別ルールの構築が可能であることを確認した.

 第6章では第4章で述べたガス化合物判別法を基礎として混合ガス化合物判別法について述べた.従来,混合ガス化合物の判別,定量には特性の異なる複数のセンサを使い,各飽和出力値は構成ガス化合物の濃度の線形和と仮定し,定量を行っていた.本章ではそれとは異なるアプローチについて述べた.構成ガス化合物が互いに反応せず,感応膜への吸着,拡散はそれぞれ単独に存在する時と同様のふるまいであると仮定すると,第4章で述べたガス化合物判別法が適用できる.従来は最低,構成ガス化合物の数だけセンサが必要であったが,単独ガス化合物に対する伝達関数が異なる限り一つのセンサでも混合ガス化合物の判別が可能である.単独ガス化合物と混合ガス化合物に対するセンサ応答データから仮定の妥当性を示し,混合ガス化合物判別の例を示した.さらに複数のセンサと学習ベクトル量子化による混合ガス化合物判別と定量結果を示し,従来方法よりも定量精度において優れていることを示した.

 第7章では化学センシングシステムの燃焼ガス検知への応用について述べた.通信施設における初期火災によって生じるガス化合物を検知できれば,従来の煙や温度感知型のセンサよりも早く異常を感知することが可能である.このような理由から通信施設において高感度な燃焼ガス検知器が必要とされている.本章ではRS485シリアルインターフェースを持ち,マルチドロップで広範囲の計測ができる小型センサアレイを試作した.そして通信機械室と同等の気流下でPVCケーブルと回路基板の燃焼実験を行い,本センサが燃焼ガスを検知できることを確認するとともに,塩化水素ガス濃度の変化とセンサ応答を比較した.さらに実際に計算機室にセンサアレイを設置し,同時に温湿度を計測しながら温湿度変化に対するセンサアレイ応答を調べ燃焼試験で得られた応答と比較した.燃焼ガスの判別ルールを構築するために学習ベクトル量子化を利用し,従来の熱,煙感知器では不可能な燃焼ガス検知が可能であることを示した.

 第8章では結論,今後の展開および残された課題について述べた.

 以上,本論文は動特性に基づいたセンサ情報の処理に重点をおいて議論を進め,新しい化学センシングの方法を導入した.本研究の成果によって,今まで遅れていた化学センサの知能化に対する有効なアプローチを提供できたと考えている.

審査要旨

 本論文は、「動特性を利用した水晶発振子式化学センサの情報処理に関する研究」と題し、8章より構成されている.近年、揮発性有機化合物の自然界や人体に対する影響への懸念から、これらの物質を正確に計測する技術の開発が大きな社会的要請となっている.特に、ガスクロマトグラフィーに代表される大型分析機器に代わって、小型化が可能で簡便な化学センサの開発が必要とされている.このような化学センサの認識能力の向上に関しては、従来、センサデバイスの材料物性の応用という観点からの研究が多かったが、本論文は、センサ情報の処理の観点から、動特性を考慮した基本的な解析モデルを示し、それに基づいた化合物判別方法を提案し、実験によりその有効性を示したものである.

 第1章では、化学センサ研究の現状と課題を述べている.化学センサの研究の現状について概説した上で、デバイスや材料の研究と合わせて、化学センサの知能化におけるセンサ情報の処理の重要性を述べている.また、本論文の目的と構成を記述している.

 第2章では、化学センサに用いるプラズマ有機薄膜の作製および機械的特性について述べた上で、プラズマ有機薄膜の構造解析を行い、高感度な化学センサの感応膜として機能することを述べている.また、この感応膜をコーティングした水晶発振子のインピーダンス解析から、本論文で用いている化学センサが機械的強度に優れていることを示している.

 第3章では、本論文で用いている感応膜に対する化合物分子の吸着拡散モデルを示している.このモデルは、感応膜表面での化合物分子の吸着と吸着分子のバルクへの拡散によって応答が生成されると考え、この吸着拡散現象を簡単なモデルで表現している.さらに、このモデルに対して、実際の化合物分子直径と拡散係数との関係、膜厚を変化させた時のセンサの吸着量の変化、あるいは拡散の時定数と膜厚との関係等から、提案したモデルが本論文で用いているセンサの応答モデルとして適切であることを示している.さらに、本来分布定数系で表されるセンサ応答モデルについて集中定数系としての近似を行い、センサのシステム表現として扱いやすい線形モデルを導出している.

 第4章では、前章で述べた応答モデルに基づいたガス化合物判別法について述べている.選択性の高いガス化合物判別を実現するため、いくつかの吸着拡散特性の異なるセンサを用いて、これらのセンサアレイからの応答パターンからパラメータを抽出し、パターン空間上で判別を行うことによって選択性を生み出す方法を提案している.本論文では、センサ応答の伝達関数が対象ガス化合物によって変化することを利用し、その伝達関数を推定することによってパラメータを抽出する方法を導入し、対象ガス化合物の判別を行っている.また、このような方法に基づき、動特性の異なる複数のセンサを利用することにより、対象ガス化合物の濃度が時間的に変動しても伝達関数を推定でき、ガス化合物を判別できることを示している.

 第5章では、得られたパターンベクトルに対するパターン認識に学習ベクトル量子化を導入した化学センシングシステムについて述べている.このシステムでは、学習ベクトル量子化の導入により高速な学習を実現し、実時間で高精度な判別が実現されている.実際に、判別精度、判別ガス化合物数に関して従来方法との比較し、本方法の有効性を確認している.

 第6章では、センサ応答モデルに基づいた混合ガス化合物判別法について述べている.構成ガス化合物間で相互に反応せず、感応膜への吸着拡散過程において相互作用がないと仮定すると、第4章で述べたガス化合物判別法が適用できる.そこで、まず単独ガス化合物と混合ガス化合物に対するセンサ応答データから仮定の妥当性を示した上で、一つのセンサでも混合ガス化合物判別が可能であることを示している.さらに複数のセンサと学習ベクトル量子化による混合ガス化合物判別と定量の結果を示し、従来方法よりも定量精度において優れていることを確認している.

 第7章では、本論文で提案している方法を燃焼ガス検知試験に応用した例について述べている.通信機械室と同等の気流下でポリ塩化ビニル被覆ケーブルと回路基板の燃焼実験を行い、本センサが燃焼ガスを検知できることを示している.燃焼ガスの判別ルールを構築するために学習ベクトル量子化を利用し、従来の熱、煙感知器では不可能な燃焼ガス検知が可能であることを示している.

 第8章は、結論で各章で得られた知見をまとめるとともに、今後の展開および残された課題について述べている.

 以上要するに、本論文は、動特性を利用した水晶発振子式化学センサの情報処理について、化合物分子の吸着拡散過程に関する新たな解析モデルを構築し、そのモデルに基づいた具体的な判別方法を提案するとともに、実際に水晶発振子式化学センサを用いてその有効性と応用の可能性を示したものであり、関連分野の研究の発展に貢献するとともに、広く計測工学の進歩に対して寄与するところ大であると認められる.よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる.

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