学位論文要旨



No 214013
著者(漢字) 西川,哲夫
著者(英字)
著者(カナ) ニシカワ,テツオ
標題(和) ゲル電気泳動によるDNA分離技術の最適化技術
標題(洋)
報告番号 214013
報告番号 乙14013
学位授与日 1998.10.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14013号
研究科 工学系研究科
専攻 化学生命工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 渡辺,公綱
 東京大学 教授 小宮山,真
 東京大学 教授 長棟,輝行
 東京大学 教授 北森,武彦
 東京大学 助教授 上田,卓也
内容要旨 1緒言

 ヒトゲノム計画に代表される遺伝子全体の解析を目指した大規模なDNA配列決定プロジェクトが,遺伝子解析技術の最近の大幅な進歩を背景として世界的に進行中である。これらのプロジェクトによって,多くの未知遺伝子が発見され,医学や生物学に対して大きな貢献がなされることが期待されている。

 本研究を開始した1980年代中期は,現在のゲノム計画遂行の主な原動力のひとつである配列決定の自動化装置が開発され始めた段階であり,ラジオアイソトープ(RI)ラベルを利用してDNAバンドの読み取りをマニュアルで行う配列決定が主に行なわれていた。そのため,取扱が繁雑で人手と時間を要し,配列決定の自動化とスループット向上を制限する要因になっていた。また,開発当初の配列決定自動化装置は,検出感度や,スループットなど不十分な点が多く,大規模な配列決定プロジェクトが進行するにつれて,より高感度で高スループットな配列決定の必要性が高まってきた。

 配列決定のスループットは,配列決定に用いられるゲル電気泳動のスループット(泳動速度や分離能)によって決定される。ゲル電気泳動の分離能に関しては,1990年頃までに移動度のモデル化やバンドブロードニングの因子についての研究がある程度進みつつあったが,DNAシーケンシングにおけるゲル電気泳動に適用しようという試みはまだなかった。そのため,DNAシーケンサーのスループットは,モデル化や最適化なしで得られる10時間程度で200〜300塩基までの配列決定に限定されていた。スループット向上のためには,モデル化や最適化のために必要な十分質の高いデータを取得すると共に,それまでに構築されつつあった移動度やバンドブロードニングの理論をDNAシーケンサーに最適な形で適用することによって,分離能や泳動時間に効く要因を定量化し最適化を行う必要があった。

 本研究は,高感度で高スループットな配列決定自動化装置を開発し,これによって,大規模なDNA配列決定プロジェクトの進行を加速し,DNA解析分野の発展に寄与することを目標とする。そのために,1)DNA試料の高感度な実時間検出を可能にする新しい方法を提案すること,及び,2)DNAシーケンサーの高スループット化のために,ゲル電気泳動の分離能や泳動時間を決定する要因を解明し,最適化を行うことを本研究の目的とする。

2.研究内容

 蛍光検出型DNA配列決定装置の開発とゲル電気泳動基礎特性の解明

 高スループットのDNA配列決定装置の実現には,高感度で多試料同時検出が可能な検出方式が重要である。高感度検出は,DNA断片のピーク検出時間を短縮し,高速な泳動においても十分な検出光量を得ることを可能にする。また高スループットの達成には,高速泳動,高分離泳動,及び泳動安定性等のゲル電気泳動基礎特性の検討が不可欠である。まず,高感度多試料同時検出を実現する1)蛍光検出型DNA配列決定装置を開発した。次に,高スループット達成のためのゲル電気泳動基礎特性の検討として,2)高速泳動の検討,3)高分離泳動のための泳動条件最適化,4)長い板ゲルによる高分離泳動の検討,5)長いキャピラリーによる高分離泳動の検討,さらに安定な泳動に重要な,6)キャピラリー温度の検討を,実験及び理論の両面から詳細に行った。

2.1蛍光検出型DNA配列決定装置の開発

 検出限界の決定因子を検討し,高感度で多試料同時検出に対応可能な基本方式(標識蛍光体と励起光源の選定,照射検出光学系)を検討した。その結果まず蛍光体としては,一種類の蛍光色素FITCによってDNA断片を標識し,A,C,G,Tの塩基種の違いは泳動路の違いによって識別する方式を採用した。この方式,及びFITCの励起(励起極大494nm)に最適の波長を持つアルゴンレーザー(488nm)の使用によって,非常に高効率の励起検出が可能となった。また,照射検出光学系として,レーザービームを泳動板の側面から入射させ,蛍光体標識DNAからの蛍光を高感度ラインセンサーで検出する新しい方法を提案した。本方式は,多くの泳動路を散乱光なしに同時に効率良く照射できるので,レーザースキャン方式に比べ高感度な検出が可能になる。また,スマイリング等による泳動路のゆがみ補正も容易に実施可能である。本方式を用いて,当時の従来方式より1桁微量の0.01pmolDNA鋳型量の検出が可能になり(塩基長100でS/N〜10),RI方式とほぼ同程度の検出感度を実現した。

2.2高速泳動の検討

 ゲル電気泳動におけるDNAバンドの移動度及びバンド幅の特性を解析し,その塩基長,泳動路長,及びアクリルアミドゲル濃度依存性を調べた。それらを用いて,与えられた長さのDNA断片が,1塩基長異なる断片との間で分離可能で,かつ最小の時間で泳動するための泳動路長とゲル濃度の組を見いだした。この結果に基づき,4%Tのゲルで泳動路長25cmを用いることによって,従来,8時間程度必要であった400塩基の解読を2.5時間に短縮することに成功した。

2.3高分離泳動のための泳動条件最適化

 配列決定のスループットは,泳動路数や泳動速度以外に,一回の泳動の決定塩基数に大きく左右される。決定塩基数はDNAバンドの分離能で決まるので,決定塩基数を大きくするためにはDNAバンドの分離能向上が重要である。そこで,DNAバンドの分離能を決めるDNAバンドの移動度とバンド幅の決定因子を調べた。まず,DNAバンドの移動度をバイアストレプテーション(蛇行)モデルによって表現し,それを基にバンド間隔の塩基長依存性を導いた。次に,バンド幅に影響を与える因子として主に拡散とジュール熱によるゲル厚方向に沿った温度勾配の影響を調べ定式化した。定式化されたバンド間隔とバンド幅を用いて,DNAバンドの分離能を決定する基本方程式を導き,これから分離能のゲル厚,泳動距離,電界強度に対する依存性を導出した。その結果,高分離検出を実現するには,薄いゲルと長い泳動距離,及び低い電界強度の使用が適していることを明らかにした。実際に0.2mmのゲル厚と47cmの泳動距離,50V/cmの電界強度を用いることによって,従来300〜400塩基程度であった1塩基分離の限界塩基長を600塩基まで増大することができた。

2.4長い板ゲルによる高分離泳動の検討

 さらに高分離検出を目指して1mの泳動板を使用した実験を行い,0.2mmのゲル厚,93cmの泳動距離,及び30V/cmの電界強度で760塩基までの1塩基分離を達成した。さらにピーク面積を利用したピーク認識により1050塩基長までの1塩基識別が可能であった。

2.5長いキャピラリーによる高分離泳動の検討

 次に,極細ガラス管にゲルを詰めたキャピラリーゲル電気泳動を塩基配列決定に適用し,長いキャピラリーを用いたゲル電気泳動によってより高分離な検出を目指した。ゲル作成条件の検討により,長いキャピラリー中に気泡を生じることなくゲルを充填可能な条件を明らかにした。その結果,気泡のない3mのキャピラリーゲルの作成を実現した。3mのキャピラリーを用いた場合の泳動条件の最適化の結果,70V/cmの電界強度を用いることによって820塩基長までの1塩基分離を達成した。また,短時間検出と高分離能の両方を得るために,2mのキャピラリーと170V/cmの電界強度を用いた結果,680塩基長までの1塩基分離を10時間で達成した。

2.6キャピラリー温度の検討

 キャピラリーゲル電気泳動は,高電界強度が印加可能で高速泳動が可能であるが,非常に細い泳動路の影響で泳動安定性が低いという欠点がある。そこで,泳動の安定性に重要なキャピラリー温度の検討を行った。キャピラリー温度の泳動条件依存性を理論計算により導き,特に空冷時にキャピラリー温度が上昇しゲル破壊を生じる条件を明らかにした。その結果,0.1mm内径で1×TBEを使用した場合,420V/cm以上の電界強度で温度が不安定化しその温度は約60℃であることを理論,及び極細の熱伝対による温度実測により明らかにした。また,得られた理論式を基に,正確なDNA塩基配列決定に必要な40℃〜60℃にキャピラリー温度を制御するための空冷(空気の温度と風速),及び泳動条件(電界強度)を求めた。

3.まとめ

 本研究では,高感度で多試料同時検出に対応可能な新しい蛍光検出型DNA配列決定装置を開発し,そのスループット向上のための高速泳動,高分離泳動,及び泳動安定性等のゲル電気泳動基礎特性の検討を行った。レーザー光側面入射方式と蛍光画像検出方式からなる測定系の実現によって,従来方式では十分でなかった検出感度を1桁以上高感度化することに成功した。その結果,実際の塩基配列決定作業に十分耐えるだけの微量試料での検出が可能になった。

 スループット向上のために,進行しつつあった移動度とバンドプロードニングの理論を,DNAシーケンシングのためのアクリルアミドゲル電気泳動に始めて適用した。これらのモデルによって,DNAバンドの幅と間隔に影響する因子を定式化した結果,分離能と泳動時間を泳動条件の関数として表現し最適化することが可能となった。本研究は,DNAシーケンシングに関してこのようなアプローチを始めて行い,その後のゲル電気泳動最適化の研究の流れを生み出した。

 この最適化の結果,以下の成果が得られた。従来の6〜8%のゲルに比べて,低濃度ゲル(4%)が高速泳動(従来の2〜3倍)に最適であることを見いだした。これによって,従来8時間程度必要であった400塩基の解読を2.5時間に短縮することに成功した。現在では低濃度ゲルはほとんどの市販シーケンサーで採用されている。次に分離能に対するジュール熱の影響を明らかにした。その結果,片面水冷の分離能悪化を泳動条件から正確に予測することが可能となり,高分離泳動には両面温度制御が極めて重要であることを明らかにした。従来,泳動板の両面温度制御はほとんど採用されていなかったが,高分離泳動の要請が大きくなった現在では,ほとんどの市販シーケンサーで採用されている。分離能最適化の結果,最適な電界強度の存在を実証し,長い泳動距離と薄いゲル厚が効果的であることを定量的に示した。さらに,ロングゲル,ロングキャピラリー方式の実現によって,従来の300〜400塩基の分離能に対して,800塩基の1塩基分離を達成した。この成果は,市販シーケンサーのロングゲル(泳動距離60〜80cm)の採用を促し,その後開始された多くの大規模DNAシーケンシングプロジェクトの高スループット化に大きく貢献した。

 以上示したように,本研究はDNA電気泳動技術の基礎特性の解明に貢献すると共に,DNA配列解析の自動化及び高スループット化を実現した。本研究の成果は,ヒトゲノム計画に代表される大規模なDNA配列決定プロジェクトの進行をさらに加速し,医学,分子生物学の発展に大きく寄与するものと確信する。

審査要旨

 本論文「ゲル電気泳動によるDNA分離技術の最適化技術」は,ヒトゲノム計画に代表される遺伝子全体の解析を目指した大規模なDNA配列決定プロジェクトのために、高感度で高スループットな配列決定自動化装置を開発し,これによって,大規模なDNA配列決定プロジェクトの進行を加速し,DNA解析分野の発展に寄与することを目標に遂行されたものであり、全8章からなる。

 第1章は序論で、本研究が開始された1980年代中期におけるDNA塩基配列決定に関する研究状況を概観し、ラジオアイソトープ(RI)を使わない、蛍光検出による自動決定装置の開発の必要性と解決すべき問題点を詳細に述べている。

 第2章「実時間蛍光検出型DNA塩基配列決定装置の開発」では、高感度で高スループットな配列決定自動化装置を開発するため,検出限界の決定因子を検討し,高感度で多試料同時検出に対応可能な基本方式(標識蛍光体と励起光源の選定,照射検出光学系)を検討している。一種類の蛍光色素FITC(フルオレセイン イソイチオシアネート)によってDNA断片を標識し,A,C,G,Tの塩基種の違いは4個の泳動路によって識別する方式を採用し、FITCの励起(励起極大494nm)に最適の波長を持つアルゴンレーザー(488nm)を使用することによって,非常に高効率の励起検出が可能となった。レーザービームを泳動板の側面から入射させ,蛍光体標識DNAからの蛍光を高感度ラインセンサーで検出する新しい照射検出光学系を提案しているが、これは多くの泳動路を散乱光なしに同時に効率良く照射できるので、レーザースキャン方式に比べ高感度な検出が可能であり、かつスマイリング等による泳動路のゆがみも容易に補正可能である。本方式を用いて,当時の従来方式より1桁微量の0.01pmolDNA鋳型量の検出が可能になり(塩基長100でS/N〜10),RI方式とほぼ同程度の検出感度を実現したことを述べている。

 第3章「DNA断片の高速泳動の検討」では、ゲル電気泳動におけるDNAバンドの移動度及びバンド幅の特性を解析し,その塩基長,泳動路長,アクリルアミドゲル濃度依存性などを調べた結果について述べている。与えられた長さのDNA断片が,1塩基長異なる断片との間で分離可能で,かつ最小の時間で泳動するための泳動路長とゲル濃度の組を見いだし、それに基づき4%ゲルで泳動路長25cmを用いることによって、従来,8時間程度必要であった400塩基の解読を2.5時間に短縮することに成功している。

 第4章では「DNA断片の高分離泳動のための泳動条件最適化」について述べている。配列決定のスループットは,泳動路数や泳動速度以外に,一回の泳動の決定塩基数に大きく左右される。決定塩基数はDNAバンドの分離能で決まるので,決定塩基数を大きくするためにはDNAバンドの分離能向上が重要である。そこで,DNAバンドの分離能を決めるDNAバンドの移動度とバンド幅の決定因子を調べた。まず,DNAバンドの移動度をバイアストレプテーション(蛇行)モデルによって表現し,それを基にバンド間隔の塩基長依存性を導いた。次に,バンド幅に影響を与える因子として主に拡散とジュール熱によるゲル厚方向に沿った温度勾配の影響を調べ定式化した。これらのバンド間隔とバンド幅を用いて,DNAバンドの分離能を決定する基本方程式を導き、これから分離能のゲル厚,泳動距離,電界強度に対する依存性を導出した。その結果、高分離検出を実現するには薄いゲルと長い泳動距離、及び低い電界強度の使用が適していることを明らかにした。実際に0.2mmのゲル厚と47cmの泳動距離,50V/cmの電界強度を用いることによって,従来300〜400塩基程度であった1塩基分離の限界塩基長を600塩基まで増大することができた。

 第5章では「長い平板ゲルによる高分離泳動の検討」結果について述べている。さらなる高分離検出を目指して1mの泳動板を使用した実験を行い、0.2mmのゲル厚、93cmの泳動距離、及び30V/cmの電界強度で760塩基までの1塩基分離を達成した。さらにピーク面積を利用したピーク認識により1050塩基長までの1塩基識別を可能にした。

 第6章は最近利用されるようになった「キャピラリーゲル電気泳動による高分離泳動の検討」結果を述べたものである。極細ガラス管にゲルを詰めたキャピラリーゲル電気泳動によってより高分離な検出を目指した。ゲル作成条件の検討により,長いキャピラリー中に気泡を生じることなくゲルを充填可能な条件を明らかにした結果、気泡のない3mのキャピラリーゲルの作成を実現した。このキャピラリーを用いた場合の泳動条件を最適化したところ、70V/cmの電界強度を用いることによって820塩基長までの1塩基分離を達成した。また,短時間検出と高分離能の両方を得るために,2mのキャピラリーと170V/cmの電界強度を用い、10時間で680塩基長までの1塩基分離を達成した。

 第7章「空冷キャピラリーゲル電気泳動における温度プロファイルの検討」では泳動の安定性に重要なキャピラリー温度の検討を行っている。キャピラリー温度の泳動条件依存性を理論計算により導き,特に空冷時にキャピラリー温度が上昇しゲル破壊を生じる条件を明らかにした。その結果,0.1mm内径で1×TBEを使用した場合,420V/cm以上の電界強度で温度が不安定化しその温度は約60℃であることを理論,及び極細の熱伝対による温度実測により明らかにした。また,得られた理論式を基に,正確なDNA塩基配列決定に必要な40℃〜60℃にキャピラリー温度を制御するための空冷(空気の温度と風速),及び泳動条件(電界強度)を求めている。

 第8章では、本研究で得られた成果を総括し、今後の展望について述べている。

 以上要するに、本論文は高感度で多試料同時検出に対応可能な新しい蛍光検出型DNA配列決定装置を開発し,そのスループット向上のための高速泳動,高分離泳動,及び泳動安定性等のゲル電気泳動基礎特性の検討を行ったものであり、ここで得られた多くの新しい知見は現在のDNAシークエンサーにも取り入れられているなど、遺伝子工学の発展に資するところ大である。よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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