本論文は、イスラム思想史上最初の思想運動であるムウタズィラ派の後期の学者アブドゥル・ジャッバール(935?〜1025?)の倫理思想の全体像を考察したものである。使用した資料のうち主なものは、彼の著書al-Mughniの第6巻上下、第7巻、第11巻、第12巻、第13巻、第14巻であるが、特に義務の賦課(タクリーフ)に関しては第11巻が中心となった。 アブドゥル・ジャッバールの倫理思想は神と人間の関わりを明らかにするものであり、人間が唯一なる全知全能の神の命令に従っていかに生きるかという実践的な道徳律である。しかし、それ同時に人間の生き方に応じてどのような来世が与えられるかという終末論的な価値観でもあり、極めて宗教的な倫理思想である。 アブドゥル・ジャッバールの立場は伝統的なムウタズィラ派の路線に沿ったものであり、取り立てて新しい展開はないといわれる。事実、彼に先立つ二人の師、ジュッバーイーとアブー・ハーシムの説を多く引用し、それを参考としている。しかし、これら先駆者自身の著作が失われてしまっている現在、どこまで師たちの説を踏襲したのか正確なところはわからない。一般に人間は自然に備わった理性によって神と人間の双方の行為の価値を知りうるとする理性主義はムウタズィラ派に共通の思想であるが、アブドゥル・ジャッバールも同派の伝統に従って、理性的思考方法として論理的な推論を行いつつも、人間理性が常に倫理的普遍性を求める規範とならなければならないという立場に立っている。 しかし、霊魂と肉体の分離思想を排除し、人間を生ける総体(jumlah al-hayy)として総合的な存在と位置付け、神の恩恵を受ける主体的な行為者(fa’il)であり、来世に復活するものとしての自己同一性を明らかにした点には、彼独自の判断が見られるように思える。このような人間観から、彼の理性の概念は極めて具体的で実践的なものと考えられる。本論文は、このような視点からアブドゥル・ジャッバールの立場を、伝統的なムウタズィラ派の主張と対比しながら、解明するものである。 ムウタズィラ派の学者としての究極の目的は「神の唯一性」と「神の正義」の証明であり、すべての議論はこの2点に要約される。同派の学者としてのアブドゥル・ジャッバールが人間の正しい在り方の追及として倫理思想を考察する際に、特にその根拠となるのは「神の正義」であり、神義論の立場から神と人間の関わりが考えられる。教義的には全知全能の絶対的な超越神を戴くイスラームにあって、アブドゥル・ジャッバールは人間を自主的な行為者と定義し、人間の側からの倫理律を追及したということができる。一方的な命令としての神の側からの「法令」としてではなく、人間の側から見た実践的な道徳律として把握されるのである。 このような神と人間の関係は、神の唯一性の意味、その神のもとで被造物としての人間の在り方、神の意志を正しく把握する根拠となる人間の理性(’aql)と知識(’ilm)、などを理解することによって明らかとなる。そこでは人間は霊魂と肉体の総合体として「生ける総体」(jumlah al-hayy)と規定され、自らの行為を作り出す能力のある者となる。このような人間の在り方を支えるのは理性の働きであり、理性の働きによってのみ、人間は善悪の判断ができるのである。 アブドゥル・ジャッバールにおいては理性(’aql)は「特別な個々の知識の総括」と定義され、善悪の判断についての知識を支える根本原理でもある。理性と知識は人間が倫理主体となるための必要条件である。生きて、能力があり、理性による判断力を持つ主体的な行為者としての人間にたいする神の支配は義務の賦課、タクリーフ(taklif)をとおして具体的に顕現する。そこではタクリーフは単なる神の命令ではなく、現世と来世を結び付ける聖なる次元となる。 タクリーフは神によって課される義務の賦課であるが、人間の意識において義務を義務として認識するのは理性の働きである。理性においては善悪の判断基準は客観的自体的なものでなければならないが、タクリーフの場においては、それは特別な様相をとって展開する。その鍵となる概念は「利益」(naf’)である。客観的に見れば悪であっても、そこに何らかの利益があれば善と考えられる。しかし、その利益が、功利的なものではなく、善の相において実現される利益、具体的には「他者への利益」とならなければ、倫理的な善とはならない。このような善の利益の最高位は来世的な利益として「真実の利益」(naf’haqiq)と考えられる。タクリーフによってのみ獲得される利益の観念からは、あらゆる意味の現世的な利益は排除される。このような利益は普遍的な倫理的な意味での利益であり、終末論的な永遠の報償として実現されるからこそ、高い次元の利益となるのである。この意味からタクリーフにおける利益が功利的なものとならないためにさまざまな条件が定められている。 その第一は、人間がタクリーフを受けるもの、つまり義務能力者(mukallaf)であるためには、理性による判断ができるものであること。人間は彼の理性において善と判断することを遂行することに対して来世的な報償の対象となるからである。したがって無意識下の行為や理性的に成熟していない幼児の行為などは注意深く排除される。第二として、行為には「困難(mashaqqah)や苦痛(alam)」が伴わなければならないこととされる。課された義務を遂行することが評価の対象となるのは、それが快楽として行われるのではなく、義務意識によって行われるからである。タクリーフにおける義務の遂行にはなんらかの形で困難と苦痛が伴わなければならないとされるのは、タクリーフから自己愛や功利的なあらゆる要素を取り払い、純粋に義務としての行為のみを明示するためであると考えられる。その意味では、困難や苦痛は具体的な痛みを意味しなくてもよい。タクリーフという神の支配と被造物としての人間の関係を具体的に表す場においては、人間は義務意識をもって課された義務を遂行することが要請されるのであり、現世的な幸福、現世的な欲求は排除されなければならないからである。 第三として、行為には「強制」(ilja’)の排除が必要である。人間は充分に理性的であっても極限の状態にあれば悪を避けられないこともあり得る。悪を避けるためには人間は自らの行為についての善悪を判断し、その性質を充分知っていることが必要である。しかし、強制という事態は人間が理性的であるか否かには関係ない、いわば偶発的な要因によって誰にでも起こりうることである。強制はたとえ行為者が充分に理性的であり、知識を備えていても、理性や知識に頼ることのできない状態、それ以外の行為を選ぶことのできない状態である。自由に自主的に行為を選ぶことのできない者は報償の対象とはならない。タクリーフは強制のないところに成立するからである。 アブドゥル・ジャッバールにおいて、神の創造は本来、被造物に利益を与えるためになされたことである。神の創造という壮大な次元の利益と倫理主体としての人間に与えられる利益は、超絶的であると同時に連続性をもっている。なぜならタクリーフによって実現される「利益」は現世では他者に、来世では自己に向かうという二重構造をもつ宗教的な概念だからである。現世における人間が、我欲や自己愛を排し他者にたいする善の利益の有無を判断基準として、善の行為を義務意識をもって遂行することにたいして来世においてそれにふさわしい利益が備えられるのである。 そこでは人間は主体的な行為者として自立した能力を与えられているが、あくまでも被創造物であり、彼が信仰者となるためには、理性的決断とともに神の導き、ルトフ(lutf)がなければならない。しかし、いかに倫理的に努力しても、現世にある人間にはさまざまな不運が襲いかかる。アブドゥル・ジャッバールにおいて自然的悪の問題はタクリーフの領域とは異なる次元で説明されているが、神による補償、イワド(’iwad)を想定する立場は、神義論の範疇にあり、彼の倫理思想の枠組みの中で考察されるものである。自然的悪はあらゆる人間を打ち砕く恐怖であるとして、神のイワドは異教徒をも含めてすべての人間を対象とする。そこでは自然的悪は人間にたいする刑罰ではなく、むしろ来世において神から補償される恩恵であるというものであり、極めて宗教的な解答となっている。 アブドゥル・ジャッバールにおいて人間は生ける総体として特別な構造をもつ存在であるが、その核となるのは「原子の最小単位」(aqall al-ajza’)であり、それが個人としての同一性を確立する要素となる。この核は人間の死に際しても消滅せず、来世での復活の核となる。つまり現世と来世を連続するものとして、来世での報償の受け手としての同一性を示すものである。人間は自らの行為に責任をもつ自主的な能力者であり、自らの行為に責任を負うものであり、神の意志にしたがって義務を遂行することによって来世での恩恵を受けるに値するものとなるのである。 ムウタズィラ派の合理的な理性主義は、アブドゥル・ジャッバールにおいては、実践的で総合的な倫理思想の枠組みの中で、人間論的で宗教的な次元に止揚され、新たな息吹を与えられたということができる。 |