学位論文要旨



No 214017
著者(漢字) 蓑輪,顕量
著者(英字)
著者(カナ) ミノワ,ケンリョウ
標題(和) 中世初期南都における戒律復興の研究
標題(洋)
報告番号 214017
報告番号 乙14017
学位授与日 1998.10.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14017号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,清孝
 東京大学 教授 末木,文美士
 東京大学 教授 五味,文彦
 東京大学 教授 島薗,進
 東京大学 助教授 下田,正弘
内容要旨

 本研究は、中世初期南都における戒律復興運動の実際を明らかにすることを目的としたものである。

 序論は戒律研究史及び昨今の中世鎌倉仏教研究史を振り返り、筆者なりの整理を試みた。中世仏教理解のための理念型である「顕密体制」論は、改革派と異端派とを区分する点に難があると考え、「官僧と遁世僧」という枠組みを採用することを表明した。

 本論は十一章から構成される。第一章は官僧と遁世僧の区分の基準を明らかにし、官僧側の戒律理解を探った。中世僧綱制や法会及び論義の研究が明らかにした中世僧侶たちの実際に導かれ、逆に遁世僧の意味が明瞭になる。中世初期に存在する「遁世僧」たちは、公的法会に参加せず僧官位を求めないと規定し、彼らの中から集団を構成するものたちが登場し、鎌倉新仏教を成立させていくと推定した。一方の官僧たちの戒律に対する関心を『法勝寺御八講問答記』から考察した。貞慶が興福寺に常喜院を創建し戒律の復興を手がける頃から、法勝寺御八講の中でも戒律に関する議論が集中することを指摘した。

 第二章は覚盛に至るまでの南都の戒律理解について考察した。最澄の大乗戒の主張が聴許されて以来、南都には叡山天台に対する批判が継続的に存在した。初期の段階の護命から覚盛に至る直前までの南都の僧侶たちは、北嶺の大乗戒受戒は三聚浄戒の受戒に他ならないと認識し、それは菩薩としての性をもたらすが比丘の性は決してもたらさないと考えていた。特に着目される人物は恩覚であり、彼は『南北戒律勝劣遣疑興真章』なる書を著作し、北嶺を厳しく批判した。また貞慶やその弟子の戒如、覚真等にも三聚浄戒の授受で比丘になれるとする見解はなかったと推定した。

 第三章は中世の南都の戒律復興に影響を与えた入宋僧俊の戒律理解を検討した。俊は早くに戒律の重要性を認識し南都を訪ね戒律に関する著作の散逸を惜しみ、入宋を企てた。元休の『徹底章』では北京には「自誓」と言い南都には「通受」と言うと異なった呼称で呼ぶと伝える。俊の自誓受戒は『占察経』に基づき、十師の揃わない、即ち戒縁の整わない際の具足戒受戒のための便法であった。そこには菩薩の意識が持ち込まれないが、一方の覚盛の主張する通受には、菩薩の意識が持ち込まれる。ここに大きな相違点があったと考えられる。

 第四章は覚盛の通別二受の主張に関する検討を行った。中世の律宗復興は通別二受が共に菩薩の受法として位置づけられることから展開する。この二つの受法の存在を初めて主張したのが覚盛であった。彼は具足戒を受戒するための白四羯磨と同質のものとして三聚浄戒羯磨を位置づける。羯磨の部分では三聚浄戒を授受し、戒相には『梵網経』の十重戒を出すという形式を三聚浄戒通受羯磨と呼んだのである。十師が揃わなくても出家比丘として必要な具足戒が発得できるとし、彼らは菩薩でありかつ二百五十戒を律儀戒として守らなければならないと主張した。覚盛の主張は、一度の受法で菩薩比丘としての具足戒が発得できるとしたところに特徴がある。しかし、この娑婆世界は釈尊の変化土であり声聞が正機であるからとして、伝統的な白四羯磨による具足戒受戒も別受として位置づけ両者を是認した。別受の必要性を説く背景には論義や浄土教理解の中で確認されてきた変化土、報土の問題があったことは間違いない。また通受によりもたらされる別衆の問題が、戒と性とを分離することを通じて、巧妙に回避されていることを明らかにした。

 第五章は良遍の戒律理解を検討した。良遍は法相の学匠として名高い。しかし彼は戒律復興の上でも重要であり覚盛の弟子でもある。良遍には通別二受に関して『二受抄』『遣疑抄』『別受行否』『有難通会抄』などの著作が知られ、『遣疑抄』は一部分が逸文として残る。『二受抄』は覚盛の『二受抄』をほぼ内容的には踏襲するが、論理的に分かり易く章立てを変更し自分の文言を加えた著作であると推定される。『遣疑抄』はほぼ覚盛の『遣疑鈔』を踏襲したものであろう。重要な点は『有難通会抄』が伝えるように、覚盛や良遍の生存する時にはまだ通受における説相が固定されてはいなかったことである。『有難通会抄』では説相に『瑜伽論』の四他勝処法と律蔵所説の四波羅夷が登場する。説相に四波羅夷が登場することは極めて重要であり、これにより通受は具足戒の受法の一つとしての地位を名実共に確立したのではないかと推定した。

 第六章は南都の律学の系譜を考察した。中国律宗の伝統では道宣の南山律宗を始めとし法礪の相部宗、懐素の東塔宗などが存在するが、日本に律宗を伝えた鑑真は天台と道宣の南山律宗と法礪の相部宗を主に依用したと考えられる。この律学の伝統は唐招提寺では一時期断然したと思われるが、興福寺等には残ったと推定される。僧侶の身分が院政期頃より大きく学侶と堂衆に分離されると、律学は堂衆の中に伝持されるものと位置づけられ、東大寺戒壇院で行われる受戒会も興福寺東西両金堂等の堂衆によって十師が勤められるものと位置づけられた。彼ら堂衆の戒律理解はこの南山律と相部のものを兼修する、しかも具体的な授戒会に必要な知識のみを伝持するものと推定され、彼らは修験とも関わる存在であったと推測された。一方、新たな律僧たちには元照の『資持記』の影響が見られる。

 第七章は嘉禎二年(一二三六)の自誓受戒の実際を検討した。自誓受戒には真摯な懺悔と夢の中に見る好相とが大きな役割を担っていた。好相とは『梵網経』等が主張する仏菩薩の摩頂や種々の華が降ることなどである。彼らは『梵網経』や『大乗方等陀羅尼経』の記述を用い、夢の中に好相を感得することを懺悔が成就し、また戒が発得できた証拠とした。戒律復興の出発点に夢と好相が位置したのである。またこの自誓受戒には戒相部分は存在しなかったであろうと推測した。

 第八章は叡尊門侶集団に関する構成員の階層の考察を行った。中世南都の戒律復興においては新しい構成員が形成されたと思われるが、資料的な制約から叡尊門侶集団を対象に検討した。彼らは、五戒を守る近事(時に近士とも)男(女)、八斎戒を守る近住(但し継続的に八斎戒を守る長斎の衆である)男(女)、剃髪のみをしてまだ沙弥にはなっていない形同沙弥(尼)、剃髪の上に沙弥の十戒を受けた法同沙弥(尼)、そして式叉摩那、比丘、比丘尼等から成り立っていた。このほかにも行者、結縁衆と呼ばれる衆も存在した。彼らは、全く新しい構成員の階層を作り上げていたと考えられる。

 第九章は叡尊門侶集団における菩薩戒の授受の実際を受戒方軌から探求した。西大寺には『授菩薩戒用意聞書』と『授菩薩戒作法』なる写本が残る。二つの写本から、先の章で明らかにした構成員たちの受戒の実際を推定した。彼らは通受に重きを置いたと見え、羯磨の部分で三聚浄戒を授けると表明し、説相の部分にそれぞれの戒相を出すことを確認した。中でも近住、勤策と芯蒭が特に注目される。近住では八斎戒に『梵網経』の四十八軽戒中の数個を出すのが着目される。また沙弥では『瑜伽論』の四多勝処法と律蔵所説の十戒が、比丘の場合には同じく『瑜伽論』の四多勝処法と律蔵所説の四波羅夷が掲げられることを確認した。羯磨の部分では三聚浄戒を出すので、受戒されるものは正しく三聚浄戒に他ならない。また通受と別受の前後関係は、近事、近住までは別受が先行することが多かったと推定した。

 第十章は覚盛と叡尊の通受の受戒の際の犯戒の時の罪の相違を検討した。両者には通受の犯戒において罪名を悪作とするか篇聚とするかで相違が有ったと凝然の記した『通受菩比丘懺悔両寺不同記』は伝える。この相違をもたらすものは通別二受の相違をどこまで際だたせるかにあったと見え、覚盛は二百五十戒は戒相のみを説くものとして通受においては『瑜伽論』の菩薩の犯戒はすべて悪作(一品悪作)として篇聚の区別を設けず、別受との相違を明確にした。一方の叡尊は比丘であるからには通受でも二百五十戒の犯戒には必ず篇聚の相違があると主張した。この相違の原因は、両者の三聚浄戒理解の差異に還元できよう。覚盛は三聚浄戒羯磨を融合的に把握し、叡尊は三聚浄戒羯磨を摂律儀戒に摂善法戒、饒益有情戒を加上する、即ち付加すると理解したところに帰着すると考えられる。

 第十一章は叡尊の思想的な理解と叡尊の門侶集団の発展の原因を考察した。叡尊の思想は、教理的な部分では法相唯識を用い、事相の部分では密教を用い、自らの行いを正すという側面では戒律を用いたと考えられる。また門侶集団の発展に寄与したものとしては、菩薩戒の授受と八斎戒の存在が大きいと推測した。時には在家の衆と共に八斎戒を数日守る例が見いだされる。特にこの長斎の衆の存在意義は大きい。また光明真言会などにおいて名前を記帳させるなど、結縁の易行性なども注目される部分である。

 付論一は東大寺図書館に伝わる戒律論義の一例を『南山宗論義』に探り、道宣と『資持記』との理解の相違が問題にされ、その会通が試みられていたことを示した。付論二は『法勝寺御八講問答記』の最初の年の天台に関する論義の実際を若干考察したものである。

審査要旨

 戒律は、仏教においては、正しく生きるための規範であり、これに則った生活によってはじめて真実の智慧を得ることができるとされる。しかし、その重要性にもかかわらず、従来の仏教研究において戒律の研究が占める割合は決して大きいとはいえない。とくに日本仏教に関しては、平安時代以後、戒律軽視の風潮が広まり、今日に及んでいることもあって、戒律の研究は大幅に遅れていた。本論文は、そのような状況の中で、これまでほとんど用いられなかった「論義」関係の諸資料をも解読・分析しつつ、平安末期から鎌倉初期にかけて輩出し、戒律の復興運動を進めた人々の思想と活動の解明を中心に、日本戒律思想史の一環を浮き彫りにした労作である。

 本論文は、<序論>、<本論>11章、および2つの<付論>から成る「論文篇」と、新出のものを含む基本資料の翻刻・校異・訳注を行った「資料篇」との2篇で構成される。そのうち、本論文の中心をなす「論文篇」の<本論>の要点は、次の通りである。

 第1章は、松尾剛次氏の提唱する「官僧と遁世僧」という史観上の理念型を下敷きとして、「論義」の書である奈良・東大寺図書館所蔵の写本「法勝寺御八講問答記」の詳細な分析を試みたものである。論者はこれを通じて、遁世僧といわれる人々の「遁世」たる所以をはっきりと「公的法会に出仕せず、官位・官職を求めない」という点に見出すに至っている。第2章では、戒律復興に尽力した覚盛(1194-1249)以前の南都の僧たちが、戒律、とくに大乗の三聚浄戒をどのように捉えていたかが手際よく纏められている。第3章の主題は、入宋し、帰国後は京にあって律学の再興に努めた俊(1166-1227)の戒律理解の問題である。本章では、その俊が「占察経」の自誓受戒を採用した意義が明らかにされるとともに、かれの思想の南都側との隔たりについて考察が進められている。第4章は、本論文の中核をなす部分の一つである。論者はここで、次第に興起してきた戒律復興の潮流の中から現れ、その理論的指導者となった上記の覚盛の立場と思想を、かれの主著「二受鈔」および「遣疑鈔」の綿密な検討を通じて究明している。中でも覚盛が、北京における大乗戒の宣揚に対抗して、三聚浄戒を「羯磨」とみなし、それを受ける「通受」をも「別受」(伝統的受戒)と並ぶ正当な七衆戒の受法とした点を明確にしたことは、高く評価されよう。

 第5章では、唯識教学の学匠として名高い良遍(1194-1252)の戒律理解、とくに通別二受の理解が考察の対象とされる。結論としては、良遍は覚盛の戒律意識をほぼそのまま踏襲したが、通受のあり方に関して若干の修正を施したこと、禅と律とを併修する「禅律僧」としての側面をもつことなどが指摘される。第6章は、鑑真以後の南都における律学の性格を概観し、その伝統を承けながら遁世した覚盛や良遍の教学の特徴を探ったものである。ここでは、「堂衆」と呼ばれる人々によって受け継がれてきた律学が、実務的な作法中心のものであったことなどが論定されている。第7章では、広い視野に立って、叡尊(1201-90)ら日本の仏教者における夢の発現とその意味づけが検討され、戒律復興運動においても、その推進上、夢が一定の役割を果たしたことが明らかにされている。第8章は、最近大きく進展しつつある叡尊とその教団に関する諸研究を参照しつつ、主に、かれが創設した近事・近住・形同沙弥・法同沙弥の四衆について考察したものである。これによって、叡尊教団に特徴的なこれら四衆の地位・役割・性格などのあらましが明確化された。第9章では、奈良・西大寺所蔵の二つの写本を手がかりとして、叡尊の在世時代の菩薩戒の授受の実状について一定の推論が試みられている。ここでは、通受に関しては、叡尊が覚盛の規定したものをより平易で具体的なものに仕上げたことが論証されている。第10章は、実際に戒律を破った場合の罪をどのように考えたかについて、覚盛と叡尊の思想を比較・検討したものである。論者は、二人の犯戒の意識の相違は、結局、三聚浄戒をどう理解したかによるところが大きいと結論づけている。最後の第11章では、叡尊の思想・信仰とその戒律普及の活動の問題が総合的に取り上げられる。とくにここでは、「長齋」(一定の期間にわたって八齋戒を護ること)の採用がかれの教団を発展させたという指摘が興味深い。

 要約すれば、本論文は、近年の日本仏教史学の分野における精密な諸研究の成果を十分に吸収した上で、「論義」関係を含む難解な第一次資料に基づいて中世初期の南都における戒律復興運動について、その中心を形作る人々ないし集団の思想と活動、運動母体の構造、運動の経緯等をほぼ可能な限り明らかにしている。この研究によって、中世初期の南都仏教の一断面が鮮やかに浮かび上がってきたといってよかろう。むろん、本論文のパースペクティブを少し広げていえば、残された課題は少なくない。中でも、八宗兼学の学匠・凝然(1240-1321)や、日本で初めて律三大部の注釈を完成させ、東国に律を広めた湛睿(1271-1346)は、戒律復興運動との関係ではいかに位置づけられるべきかといった問題、あるいは中国・宋代の仏教、とくに、律の大家とされる元照(1048-1116)らの思想がこの運動に実際にどれほどの影響を与えたのかといった問題の追求は、本論文の主題をより深めるためにも不可欠であろう。なお、それらのこととも関連するが、時に論旨の展開にやや粗雑なところが見られる点は修正が必要である。しかし、本論文が開拓した研究の方向と解明しえた諸問題は、今後の斯学の発展に大きく寄与しうると確信される。

 以上を勘案し、本審査委員会は、本論文を博士(文学)の学位に相当する成果と認めるものである。

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