キイロショウジョウバエDrosophila Melanogasterの複眼形成におけるCanoeタンパク質の機能について、分子生物学、組織学、遺伝学の技術を総合的に用いることにより解析を行った。 第一部では、Canoeタンパク質をコードするcanoe遺伝子座における突然変異体の表現型を組織学的に解析した。第一章においては、キイロショウジョウバエの複眼形成についてその概要を述べるとともに、canoe遺伝子に関する先行する研究の内容を解説している。第二章ではcanoe突然変異体の表現型を解析する事により、Canoeタンパクには細胞の形態の維持と細胞の分化の制御の2つの機能がある事を示した。第三章ではこのうち突然変異体における細胞の形態の異常を、凍結切片法、および透過型電子顕微鏡を用いてさらに詳しく解析し、形態の異常は細胞間の位置関係が乱れる事によりもたらされている事を明らかにした。第四章では組織免疫学的手法により野生型および突然変異体の蛹期複眼におけるCanoeタンパク質の細胞内局在様式をadherensジャンクション、アクチンフィラメント、微小管のそれと比較した。野生型個体では、Canoeタンパク質はadherensジャンクションおよび微小管と共局在した。canoe突然変異体(canoemisty1/canoe10B1)では、adherensジャンクション、アクチンフィラメント、微小管の局在様式は本質的に変化がなかったが、Canoeタンパク質はadherensジャンクションには局在しなくなり、微小管と同じ局在様式を示した。canoe突然変異体ではadherensジャンクションからCanoeタンパク質が失われることにより、細胞間の接着が異常になり、位置関係の乱れが起こる事が示唆された。 第二部では、Canoeタンパク質のもう一つの機能である、Ras1との分子間相互作用による細胞分化の決定のメカニズムを研究した。第五章ではキイロショウジョウバエの複眼形成での細胞分化決定のメカニズムについて、現在受け入れられているモデルを紹介すると共に、依然として残る問題点について考察した。第六章では、Canoeタンパク質とRas1の相互作用によりcone cellの形成が制御されることを証明した。表現型レベルでは、この相互作用はcanoe10B1変異によるsev-Ras1V12の表現型に対する顕性増強効果として観察される。すなわち、sev-Ras1V12は個眼あたりのcone cellの数を正常の4つに対して数個増加させるが、sev-Ras1V12に加えてcanoe10B1変異をヘテロ接合の状態で持つ個体(ヘテロ二重変異体)ではcone cellの増加が著しく亢進され、蛹期の複眼の表面がcone cellで埋め尽くされる。分子レベルでは、酵母ツーハイブリッド試験によりCanoeタンパク質とRas1が直接結合することを確かめた。これらの結果に基づき、第七草ではcone cell形成におけるCanoeタンパク質とRas1の機能を説明する仮説を提唱している。すなわち、Canoeタンパク質はRas1の2つの異なる出力経路への信号伝達の程度を調整しているというものである。Ras1の出力経路のうちひとつはRafを介して細胞運命の決定を行い、もうひとつは隣接する未分化細胞において受容体チロシンリン酸化酵素Sevenlessの発現を誘導する。Canoeタンパク質は活性化されたRas1に結合し、Rafを活性化して細胞がcone cellに分化するよう誘導するとともに、隣接する未分化細胞でSevenlessの発現を誘導するもう一方の経路を抑制する。すなわち、キイロショウジョウバエの複眼形成において、Canoeタンパク質はRas1を介してcone cellの分化を決定する情報伝達系のスイッチとして重要な役割を担っている。 以上要するに、本研究は分子生物学、組織学、遺伝学の技術を総合的に用いることにより、キイロショウジョウバエの複眼形成におけるCanoeタンパク質の機能について解析を行ったものである。その成果は、従来知られていた変態を制御するホルモンとは別のレベルで昆虫の発生を制御する分子シグナルに関する新たな知見をもたらすとともに、それに基づく新規害虫制御技術の開発への可能性を示唆するものであり、学問的にも応用的にも寄与するところが大きい。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位を授与するに値するものであることを認めた。 |