醤油醸造における原料、麹菌、酵母、火入れなどの違いは、製品の味、香り、色などを決定する。このような製造工程における各種条件の違いが、高分子の蛋白質や澱粉から酵素作用により生成する低分子のアミノ酸、糖、有機酸などの化学成分組成の違いとなり、さらにアミノーカルボニル反応にも影響を及ぼすからである。そこで、醤油の品質と化学成分の関係を調べるため、各種市販醤油、あるいは実験計画法に基づき設定した条件により試醸した醤油の水溶性微量成分を、高速液体クロマトグラフ(HPLC)で分析し、醤油銘柄の違いあるいは原料となる大豆の違いが水溶性微量成分に及ぼす影響を検討した。まず、各種醤油HPLC分析データのパターン認識により醤油の分類や識別を試みた。そして、醤油の識別指標となる成分を単離・精製し、機器分析により既知物質の同定あるいは新規化合物の構造決定を行った。次に、構造決定した化合物のうち特に識別に重要であり、興味深い構造を持つ新規イソフラボン酒石酸誘導体に注目し、それらの生成機構の解明を試みた。さらに、これらの新規イソフラボン酒石酸誘導体のヒスチジン脱炭酸酵素活性に及ぼす影響について検討した。 まず、HPLC分析データのパターン認識により、銘柄の異なる醤油の分類と識別を試みた。市販濃口醤油8銘柄および淡口醤油6銘柄の水溶性微量成分を、逆相HPLC用のODSカラムに醤油を直接注入することにより分析し、280nmで検出、主な50ピークを定量した(図1)。HPLC分析データは、クラスタ分析、soft independent modeling of class analogy(SIMCA)、段階的判別分析(LDA)、遺伝的アルゴニズムを利用してピークの組み合わせを最適化する判別分析(GA-LDA)のパターン認識により、銘柄の違いに応じて明確に分類、識別できた。さらに段階的LDAやSIMCAなどのパターン認識から銘柄識別に寄与するピーク群が選び出され、そのうち3ピーク(No.37、40、42;図1)は後述する3種の新規イソフラボン誘導体であった。各々の醤油は、それぞれ複雑な特有のHPLCパターンを示したが、パターン認識手法はそれらの分類や識別に有用な手段であることが明らかとなった。 図1 市販濃口醤油の典型的なHPLCパターン 次に、原料大豆の種類が異なる醤油の識別と分類を試みた。大豆を原料とした市販濃口醤油(以下、丸大豆醤油と呼ぶ)および脱脂加工大豆を原料とした市販濃口醤油(以下、脱脂加工大豆醤油と呼ぶ)の水溶性成分を逆相HPLCで分析し、主な42ピークを定量した。いずれのピークも醤油の種類に関わらず検出されたが、丸大豆醤油では脱脂加工大豆醤油に比べ、ほとんどのピークの面積値が小さい傾向にあった。HPLC分析データのクラスタ分析、段階的LDA、SIMCAにより、2種の醤油を明確に分類、識別できた。SIMCAにより選び出された2種の醤油の識別指標となる成分を単離・精製し、ferulic acidと同定した。次に、醸造条件と水溶性微量成分の関係を知るために、部分要因計画法により大豆の種類、通気頻度、酵母添加量、麹菌の種類、大豆/小麦原料比の5因子を組み合わせ醤油を試醸した。試醸醤油のHPLC分析データと5因子の関係を重回帰分析(MLR)により解析したところ、大豆の種類の違いに有意に影響を受ける成分として、ferulic acidと共にdaidzeinと後述する3種の新規イソフラボン誘導体が選び出された。これらの成分量の違いは、大豆が含有する約20%の粗脂肪により、醤油醸造における微生物の生育状態に変化が生じたり、疎水性の高い成分が醤油油層へ移行することに起因すると考えられる。このように、市販醤油の識別に寄与した成分群が大豆原料の違いの指標となる成分としても選出されたことから、醤油醸造の複雑な工程条件と成分の関係を解析する上での、実験計画法の有用性が明らかとなった。 銘柄の異なる醤油及び大豆原料の異なる醤油の識別指標となる成分のうち、特に重要であった3ピークを単離、精製し、機器分析(IR、NMR、MS)により構造決定した。これらは、それぞれ、daidzein、genistein、8-hydroxygenisteinと酒石酸がエーテル結合した新規イソフラボン酒石酸誘導体であることが明らかとなり、shoyuflavone A、B、Cと命名した。これらのイソフラボン酒石酸誘導体は、醤油醸造中に経時的に生成された。 醤油の識別指標となる成分であるイソフラボン酒石酸誘導体の様に、イソフラボンと酒石酸がエーテル結合している化合物は、今まで天然界にその存在が報告されていない新規化合物群でおる。また、天然物のエーテル結合に関してはその詳細がほとんど明らかになっていないことから、イソフラボン酒石酸誘導体の生成機構を解明することは意義あることと考え、検討を行った。その結果、醤油中イソフラボン酒石酸誘導体が、イソフラボンと(±)-trans-epoxysuccinic acidを基質として、麹菌産生酵素により生成されることを明らかとした。さらに、生成に関わる酵素をAspergillus oryzae IFO4602固体培養物より電気泳動的に単一な成分として精製した。本酵素の分子量は約93,000(SDS-PAGE法)、genisteinを基質とした時の至適pHは5.2で、2価の金属イオンにより活性が増強された。しかも本酵素は(±)-trans-epoxysuccinic acidの存在下、イソフラボンのみならずフラボノイド類全般に作用し、酒石酸とエーテル結合した酒石酸誘導体を生成した。そこで、精製酵素を使用して5種のフラボノイド類の酒石酸エーテル誘導体を合成した。機器分析の結果より、フラボノイドと1分子あるいは2分子の(±)-trans-epoxysuccinic acidが反応した酒石酸誘導体の合成が明らかとなった。 近年、イソフラボンの有する様々な生理活性について関心が持たれていおり、イソフラボン酒石酸誘導体も同様の機能を有することが期待される。ヒスタミンは多様な生理活性を有することから注目されているが、過剰分泌により、気管支喘息や胃潰瘍などの疾病の原因物質になるといわれている。そこで、ヒスタミンの合成に関わるヒスチジン脱炭酸酵素(HDC)に対する、醤油中のイソフラボン酒石酸誘導体の阻害効果を検討した。まず、HDC阻害活性測定を簡便に行うため、ヒスタミンを4-N,N-dimethylamino-azobenzene-4’-isothiocyanate(DABITC)の誘導体として、Cosmosil5SLカラムを用いたHPLCにより分析する定量法(溶離液:0.4%酢酸含有CHCl3/N,N-dimethylformamide/H2O(210:90:4))を確立し、これを阻害活性測定に用いた。イソフラボン酒石酸誘導体は、マウス-マストサイトーマP-815細胞由来HDCとClostridium perfringens由来HDCの両方に対して、既知のHDC阻害剤と同程度で、アグリコンであるdaidzeinやgenisteinよりも強い阻害活性を示した(表1)。また、細胞毒性やマウスに対して強制経口投与により急性毒性を示さず安全性が高いことから、ヒスタミンが関与すると考えられている疾病に対する治療薬あるいは予防薬としての有用性が期待できる。 表1 P-815細胞及びClostridium perfringens由来HDC活性に対するイソフラボン酒石酸誘導体のIC50値 以上、醤油中水溶性微量成分に関する一連の研究は、醤油HPLCデータのパターン認識により、識別指標となる成分として新規イソフラボン酒石酸誘導体の存在を明らかにし、その生成を触媒する新規酵素の発見に至った。本研究により明らかとなった新知見が今後、種々フラボノイド類の酒石酸誘導体合成を通じて、それら新規化合物群の応用面の開発に発展することを期待したい。 |