1.真空紫外領域の吸収スペクトル 真空紫外光のエネルギーは、化学結合のエネルギーよりも大きい。そのために、この光を吸収した分子は、多くの場合、化学結合が切断され、解離する。この光解離のメカニズムは、分子が真空紫外光の吸収により直接解離性のポテンシャルへ励起された後解離する「直接解離」と、分子がはじめ準安定な束縛型の電子励起状態へ励起され、無輻射遷移によって解離性のポテンシャルへ移行した後解離する「前期解離」とに分類される。解離反応が超高速で(1ps-10fs)進行する場合は、直接解離型の解離と考えられる。 実際、多くの場合多原子分子の真空紫外領域の吸収スペクトルは幅の広いピークから構成され、構造がはっきりしない。この幅の広がりは、励起状態における分子の寿命が極めて短いことに由来する不確定性幅と考えられる。すなわち、光解離反応が超高速で進行することを示している。この様な超高速反応においては、分子内の振動の周期と解離寿命とが同程度であるため、吸収スペクトルには遷移領域のポテンシャルの形状を鋭敏に反映した分子の振動運動の情報が含まれていると期待される。したがって、真空紫外領域の吸収スペクトルを測定することは、光解離反応における遷移状態の解離反応ダイナミクスを理解する直接的かつ有効な手法と考えられる。 多原子分子には、振動の自由度が3個以上存在する。そのため、反応過程は多次元ポテンシャルエネルギー曲面上の複雑な核の運動として説明される。したがって、ポテンシャルエネルギー曲面上のこの核のダイナミクスを理解するためには、振動自由度ができる限り少なく、かつ、多原子分子としての性質を持つ3原子分子について、その解離反応を研究することが第一歩となる。 本論文でとりあげる真空紫外領域(140-160nm)に存在するOCSの21+-11+遷移は、その吸収係数が極めて大きく、またバンドの形状も単純であることが知られている。図1に21+-11+バンドのジェット条件下で測定した吸収スペクトルを示す。このバンドは、最も低エネルギー側の156.1nm(64061cm-1)に存在する幅の広いピークと、高エネルギー側の、154.5nm(64745cm-1)、152.6nm(65605cm-1)、150.6nm(66392cm-1)、149.0nm(67134cm-1)、147.3nm(67924cm-1)、そして145.7nm(68644cm-1)に存在する比較的幅の狭い6本のピークとから構成されている。 図1:Vaidaらによる超音速ジェット条件下で測定したOCSの21+-11+バンド(143-159nm)の吸収スペクトル。[文献:M.I.McCarthy and V.Vaida,J.Phys.Chem.92,5875(1988).] 本論文では、一貫してこのOCSの21+-11+遷移に注目し、21+状態における解離反応の遷移領域におけるダイナミクスをスペクトルから明らかにすることを試みた。 2.OCSの解離とPHOFEX分光 これまでのOCSの21+-11+バンドの吸収スペクトルの測定は、室温において、また、十分には冷却されていないジェット条件下で行われてきた。そのため、スペクトルピークの幅に与える振動のホットバンドや回転構造の広がりの寄与は無視できない。しかし、吸収スペクトルから、解離のダイナミクスの情報を得るためには、まず、気体の温度をジェット条件下で十分に下げることによって、振動回転の広がりをおさえ、さらに分解能を上げることが必要である。 本論文の第2章では、波長可変真空紫外レーザー光を光解離光源として用い、ジェット条件下で極低温(〜1K)に冷却したOCSの光解離フラグメント励起(PHOFEX)スペクトルの測定を行った。PHOFEX分光法は、光解離光源の波長を掃引しながら、光解離生成物を別のレーザー光によるレーザー誘起蛍光によって検出する方法である。励起光源である波長可変真空紫外レーザー光のバンド幅は、0.5cm-1程度と小さい。さらに、PHOFEXの測定では、超音速分子線の最も温度の低い部分のスペクトルを選別測定することができるという利点がある。ここでは、OCSを次のように光解離させ、 生成したS(1S)を検出した。このバンドのエネルギー領域では、主に(1)式の解離反応が進行し、S(1S)の蛍光の量子収率は80%以上であることが知られている。したがって、PHOFEXスペクトルは吸収スペクトルに相当すると考えられる。そこで、まず21+-11+バンドの比較的シャープな6本のピークのうち、最も低エネルギー側の154.5nmのピークのPHOFEXスペクトルを測定し、解離のダイナミクスの情報を得ようと試みた。 得られたPHOFEXスペクトルの注目すべき点は、スペクトルピークの幅が、これまで報告されていた吸収スペクトルに現れている対応するピークの幅と比べて、著しく狭くなっていることである。このスペクトルピークの幅は、21+ポテンシャル上での解離寿命に基づく不確定性幅によるものである。この幅から、解離寿命=〜140fsを求めることができた。また、この実験によって、PHOFEX分光が、真空紫外領域の光解離反応の遷移状態におけるダイナミクスを明らかにする上で極めて有効な方法であることが示された。さらに興味深いことは、得られたスペクトルの線形が非対称であることである。これは、このバンドのエネルギー領域で、解離反応ダイナミクスに何らかの干渉効果が関わっている可能性を示唆するものである。 3.ピークの線形とFourier変換 本論文の第3章では、この特徴あるピークの、非対称な線形に注目した。まず、PHOFEXスペクトルの非対称な線形のスペクトル幅を正確に見積もるため、Fano線形によるフィッティングを行い、スペクトル幅と非対称パラメーターqを決定した。OCSの154.5nmのピークがFano線形で表されるということは、解離のメカニズムに、束縛状態と連続状態との間の干渉が関わっているということを示唆している。 一方、1980年代はじめに、スペクトルのFourie変換によって得られる自己相関関数が、光学遷移によって励起された分子の励起ポテンシャル上における波束の運動と関係づけられると言われるようになり、スペクトルの新しい解釈と考えられてきた。そこで、OCSの21+-11+バンドの吸収スペクトルをFourier変換した結果、スペクトル間隔(800cm-1)に相当する振動の周期41fsが得られた。Fano線形によるフィッティングによって得られたスペクトル幅から見積もられる解離寿命=〜140fsと、Fourier変換によって求められたこの振動の周期(41fs)とを比較することによって、154.5nmのエネルギーに相当する遷移領域で、OCSが140(fs)/41(fs)〜3回程度振動をしていることがわかる。この振動は、解離方向と直交する方向の振動であると予測された。 4.エネルギー領域による解離ダイナミクスの変化 この154.5nmのピークの解析によって示されるダイナミクスは、解離性ポテンシャル上の1つの振動バンドに対応する狭いエネルギー領域の情報に過ぎない。解離のダイナミクスを理解するには、広いエネルギー領域の情報が必要である。そこで、第4章では、154.5nmのピークに加えて、21+-11+バンドのさらに高エネルギー側の2本のピーク(152.6、150.6nm)について、そのPHOFEXスペクトルを測定し、より広いエネルギー領域において解離ダイナミクスの情報を引き出すことを試みた。 その結果、励起エネルギーが上がるにつれて、スペクトルの幅が広くなり、線形は対称なLorentz型に近づくことが示された。したがって、解離性ポテンシャル(21+)の遷移領域において、分子の振動のエネルギー間隔程度のエネルギーを増加させただけで解離速度が著しく加速されること、また、このダイナミクスの変化が干渉効果の変化を生じさせた結果、スペクトルの非対称性に反映されることが明らかになった。 5.吸収スペクトルからダイナミクスの総合的な理解へ 解離性21+ポテンシャルにおける解離のダイナミクスをより詳細に理解するためには、21+-11+バンドの全領域のPHOFEXスペクトルの測定が不可欠である。そこで、第5章では、高エネルギー側の残りの3本のバンド(149.0、147.3、145.7nm)のPHOFEXスペクトルを測定し、21+-11+バンドの全貌を明らかにすることを試みた。得られた21+-11+バンド全領域のPHOFEXスペクトルを図2に示す。 図2:OCSの21+-11+バンド(143-159nm)のPHOFEXスペクトル(実線)。点線は、Vaidaらによる超音速ジェット条件下で測定した吸収スペクトル。vtsは、電子励起(21+)状態の遷移領域における振動量子数を表す。 その結果、PHOFEXスペクトルの幅がvts=3のピークまでは広がり、vts=3(150.6nm)のピークを境に狭くなること、また、ピークの非対称性がvts=3のピークまでは対称なLorentz型に近づき、vts=3のピークを境に非対称性の向きが反転し、再び非対称になることが明らかになった。この結果から、解離性ポテンシャルの形状が、解離方向の振動モードと、解離と直交する方向の振動モードとの間の相互作用の度合いに鋭敏に反応し、各々の振電バンドにおけるダイナミクスを変化させるということを突き止めた。 一方、近年の計算機やプログラムの進歩によって、電子励起状態におけるポテンシャルエネルギー曲面や、その曲面上における波束のダイナミクスに関する理論計算が可能になった。そこで、分子軌道計算により求めた解離性の21+状態のポテンシャルエネルギー曲面上において波束の理論計算を行った。その結果、励起されたOCSの波束が、解離方向の主にCS結合が伸びる核振動の成分と、解離と直交する方向の主にCO結合が伸びる核振動の成分とに分岐することが示された。すなわち、スペクトルの非対称性から推測されていた、解離方向と直交する方向の核振動の存在を確認できた。さらに、解離と直交する方向への波動関数の張り出しの程度によって、解離のダイナミクスが変化し、干渉パターンに反映することがこの理論計算から裏付けられた。 本博士論文における、波長可変真空紫外レーザー光と超音速分子線とを組み合わせたPHOFEX分光法による実験から、OCSの真空紫外領域の21+-11+バンドの全貌が初めて明らかになった。本研究では、高分解能スペクトルのピークの形状と、バンド全体の構造に内包された情報をてがかりに、超高速で進行する直接解離のダイナミクスを明らかにするための1つの指針を示した。さらにポテンシャルエネルギー曲面や、波束のダイナミクスなどの理論計算を併用することが、解離のダイナミクスの理解に有効であることを示した。本論文で示した高分解能スペクトルの測定と、スペクトルに対する波束の理論計算によるサポートという方法は、これまでほとんど手が付けられていなかった真空紫外領域の光化学のメカニズムを正確に理解するための、一般性のある方法と考えられる。 |