学位論文要旨



No 214027
著者(漢字) 吉井,賢資
著者(英字)
著者(カナ) ヨシイ,ケンジ
標題(和) 軟X線放射光によるスペクテータ・オージェ遷移の研究
標題(洋)
報告番号 214027
報告番号 乙14027
学位授与日 1998.10.26
学位種別 論文博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 第14027号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小間,篤
 東京大学 教授 岩澤,康裕
 東京大学 教授 上田,寛
 東京大学 教授 梅澤,喜夫
 東京大学 教授 太田,俊明
内容要旨

 内殻軌道がイオン化されると、主にオージェ遷移によって電子系が速やかに緩和される。この過程は分光学的見地から重要視され、古くから研究されてきた。近年、加速器実験技術の進歩により、高輝度軟X線放射光を励起源とするオージェ電子分光が可能となった。この場合、内殻励起による共鳴オージェ遷移が可能になるという特長がある。内殻電子-外殻軌道、内殻電子-内殻正孔の遷移が関与するこの過程については、未知の部分が多い。

 共鳴オージェ遷移には2種類存在する。スペクテータ・オージェ遷移と呼ばれる過程では、励起された電子(スペクテータ電子)がオージェ遷移終了まで非占軌道にとどまる。スペクテータ・オージェ電子のエネルギーは、内殻軌道のイオン化に由来するノーマル・オージェ電子のそれとほぼ同じである。もう一つの過程であるパーティシペータ・オージェ遷移では、励起電子が内殻正孔と再結合すると同時にパーティシペータ・オージェ電子が放出される。この場合オージェ電子のエネルギーは、対応する光電子ピークのそれと等しい。

 本研究では、固体および吸着気体分子を対象に、深い内殻軌道の共鳴励起に伴う共鳴オージェ電子スペクトルを測定し、特にスペクテータ・オージェ遷移について詳細な検討を行った。併せて、反結合性軌道にとどまるスペクテータ電子の表面反応における役割を解明した。

 実験は、高エネルギー物理学研究所フォトンファクトリーのビームラインBL-27Aで行った。本ビームラインでは、InSb(111)モノクロメータにより、1.8-6keVの軟X線領域の放射光が利用できる。このエネルギー領域は、Si,P,S,Clの1s軌道、4d遷移金属の2p軌道などの結合エネルギーに対応する。このため、系としてSi,P,S,Clを含む固体化合物,有機気体分子吸着系および4d金属を含む固体化合物を選んだ。電子構造とオージェ遷移との相関を明らかにするため、試料は固体化合物の場合、金属(Nb,Moなど),半導体(GaP,MoS2),絶縁体(Y2O3,MoO3,Na2HPO4など)の3種類を選んだ。吸着系の場合、シラン誘導体やCS2などの多層および単層吸着系で測定を行った。

 測定はまず、非占軌道のエネルギー構造をXANES(X-ray absorption near edge structure;X線吸収端近傍構造)法により決定した。この後、吸収端付近に励起光エネルギー(hv)を合わせ、高電圧対応型光電子分光装置により共鳴オージェ電子スペクトルを測定した。脱離イオン測定は四重極質量分析器よりパルスカウント法で行った。

 図1は金属Moにおける2p3/2(L3)共鳴でのL3M4,5M4,5オージェスペクトルである。挿入図はMo2p3/2吸収端XANESスペクトルである。2525eV付近の吸収ピークは伝導帯4d*への遷移である(*は非占軌道)。hvが吸収最大エネルギー(hv0=2524.7eV)以上で2p3/2軌道のイオン化によるノーマル・オージェピークAが現れる。そのエネルギーはhvに対しほぼ一定である。hvを下げると、このピークは、hv=hv0でピークBに連続的に変化する。hv≦hv0で、ピークBは光電子ピーク同様エネルギーシフトする。このエネルギー範囲に光電子ピークは存在しえないので、ピークBはオージェ遷移由来である。類似のエネルギー分散は金属CuでのX線発光で観測されており、共鳴ラマン散乱(RRS)と呼ばれている。RRSは内殻イオン化に起因するので、ピークBはイオン化を始状態とするノーマル・オージェピークである。

図1 MoにおけるMo2/3吸収端近傍での共鳴オージェスペクトル

 図2は絶縁性酸化物Y2O3における、Y2p3/2吸収端近傍でのY-L3M4,5M4,5共鳴オージェスペクトルである。挿入図はY2p3/2→4d*XANESスペクトルである。Moの場合同様、吸収最大(hv0=2084.0eV)以上でノーマル・オージェピークAが、また、それ以下のhvでエネルギーシフトするオージェピークBが出現する。この系ではho以上でもエネルギーシフトするオージェピークB’が現れる。ピークB、B’のエネルギーはノーマル・オージェピークのそれと連続的に接続しないので、互いに別起源である。すなわち、これらはスペクテータ・オージェ遷移に由来する。

図2 Y2O3におけるY3/2吸収端近傍での共鳴オージェスペクトル

 以上の系では、吸収端近傍でオージェピークの線幅が変動する現象も観測された。ピーク幅はいずれも吸収最大のhで最小であった。様々な系で同様の測定を行い、絶縁性化合物ではY2O3と同様の結果を、また導電性化合物,単体金属およびGaPではMoの場合と同様の結果を得た。低温吸着系でもオージェピークの挙動の違いを観測し、多層吸着系でのオージェスペクトルは絶縁性固体化合物のものと、また、単層吸着系の結果は導電性化合物のものと同様であることを確認した。スペクテータ・オージェピークのエネルギーシフトと線幅の減少は、気相Xeにおける研究で報告されているが、電子構造と関連させ詳細に検討したのは本研究が初めてである。

 以上の結果は、次のように解釈される。導電性化合物や単層吸着系では、中間状態での内殻正孔を固体内のキャリア、あるいは基板電子が遮蔽し、励起電子は局在できない。従って、中間状態でイオン化のみが起こる。一方、固体絶縁性化合物や多層吸着系では、中間状態で、内殻軌道のイオン化と励起電子の局在化が起こりうる。前者はノーマル・オージェ遷移、後者はスペクテータ・オージェ遷移で緩和される。中間状態が局在状態のように単一エネルギーを持ち、その状態がオージェ電子放出まで持続されれば、エネルギー保存則から、hと中間状態エネルギーの差がオージェ電子に与えられるので、オージェ電子のエネルギーはhに比例することになる。ピーク幅の減少は、中間状態が局在状態のため、そのエネルギー幅が無視できるためと解釈した。

 放射光照射による表面光化学反応の実験結果の一例を図3に示す。図3(b)の脱離量曲線は、図3(a)のXANESスペクトルとは全く異なる。S+イオンの脱離は**の励起のうち、後者のみで起こる。従って、分子解離がオージェ遷移などで生成した多価イオン間の反発によるとする、Knotek-Feibelman機構のみでは説明できない。

図3 多層吸着CS2における、(a)XANESおよび(b)S+脱離スペクトル

 S-KL2,3L2,3共鳴オージェスペクトル測定の結果、**両方の励起でスペクテータ遷移が起こることが分かった。両者とも反結合性分子軌道であることから、スペクテータ電子の局在て化学結合が弱められ、分子解離が促進されたと理解される。*軌道のみで脱離が起こるのは、対応する結合性軌道のほうが、軌道よりも原子間の結合に寄与しており、この結合を弱めた方が分子解離が起こりやすいことによる。類似の結果は、他の吸着系においても確認された。

 その他の結果も含め、本研究では以下の知見が得られた。

 (1)共鳴吸収に続く緩和過程は、90%以上がスペクテータ・オージェ遷移である。

 (2)固体導電性化合物及び単層吸着系ではノーマル・オージェ遷移のみが起こる。一方、固体絶縁性化合物及び多層吸着系ではノーマル・オージェ遷移とスペクテータ・オージェ遷移が起こる。後者はhに対してエネルギーシフトを起こす。

 (3)すべての系で、吸収端近傍でオージェピークの線幅が減少する。

 (4)低温吸着系において、スペクテータ電子が特定の非占軌道に局在する場合のみ、分子解離が促進される。

 (2)、(3)は共鳴励起特有の現象で、オージェ共鳴ラマン散乱とも表現されるべきものである。この発展研究は、国内のみならず国外においてもすでに始められている。また、(4)は、内殻共鳴を利用した元素選択反応への発展が期待される。

審査要旨

 本論文は8章からなり、第1章では本研究の背景について、第2章では本研究の実験手法ついて、第3章では共鳴励起に伴うオージェ遷移について、第4章では固体におけるスペクテータ・オージェ遷移ついて、第5章では低温吸着分子におけるスペクター・オージェ遷移ついて、第6章では共鳴オージェスペクトルと非占有軌道の性質について、第7章では低温吸着分子における放射光照射に伴うイオン脱離について、そして第8章では本研究のまとめについて述べられている。

 内殻軌道がイオン化されると、電子系は主にオージェ遷移によって速やかに緩和される。この過程は古くから分光学的見地より研究されてきたが、内殻電子-外殼軌道、内殻電子-内殼正孔の遷移が関与するこの過程については、まだ未知の部分も多い。本研究では高輝度軟X線放射光を励起源として用いることによって、内殻励起による共鳴オージェ遷移の観測を可能とし、本過程の詳細な解明を行っている。

 共鳴オージェ遷移には2種類存在する。スペクテータ・オージェ遷移と呼ばれる過程では、励起された電子(スペクテータ電子)がオージェ遷移終了まで非占有軌道にとどまる。スペクテータ・オージェ電子のエネルギーは、内殻軌道のイオン化に由来するノーマル・オージェ電子のそれとほぼ同じである。もう一つの過程であるパーティシペータ・オージェ遷移では、励起電子が内殼正孔と再結合すると同時にパーティシペータ・オージェ電子が放出される。この場合オージェ電子のエネルギーは、対応する光電子ピークのそれと等しい。

 本論文では、固体および吸着気体分子を対象に、深い内殻軌道の共鳴励起に伴う共鳴オージェ電子スペクトルを測定し、特にスペクテータ・オージェ遷移について詳細な検討した結果について議論し、併せて、反結合性軌道にとどまるスペクテータ電子の表面反応における役割を明らかにしている。実験は、高エネルギー物理学研究所フォトンファクトリーのビームラインBL-27Aで行われた。本ビームラインでは、InSb(111)モノクロメータにより、1.8-6keVの軟X線領域の放射光が利用できる。このエネルギー領域は、Si、P、S、Clの1s軌道、4d遷移金属の2p軌道などの結合エネルギーに対応する。このため、系としてはSi、P、S、Clを含む固体化合物、有機気体分子吸着系および4d金属を含む固体化合物が選ばれ、以下のような知見が得られた。

 絶縁体および低温多層吸着分子におけるSi-、P-、S-、Cl-1s(K)軌道励起、あるいは4d金属の2p3/2(L2,3)軌道の共鳴励起では、励起状態の90%以上が、スペクテータ・オージェ遷移により緩和される。これは励起電子が局在化するためと考えられる。一方、導電体および低温単層吸着分子では、ノーマル・オージェ遷移により大部分の励起が緩和される。これは、励起電子が非局在化されるためと考えられる。いずれの場合も、最大強度を示すのはKL2,3L2,3またはL3M4,5M4,5遷移であることが判明した。

 Si-、P-、S-およびCl-1s励起では、吸収端近傍で2本のL2,3VVオージェピークが観測される。ともに1s励起状態からのカスケードオージェ遷移に起因するが、1本は2p1/2,2/3(L2,3)軌道に1正孔を有する状態を起源とし、他の1本は2正孔を有する状態を起源とすると結論された。

 ZrN、SiCl4およびSi(CH3)3Clにおいて、共鳴オージェスペクトルを測定し、非占有軌道中の局在および非局在(遍歴)成分を決定した。ZrNにおいては、その超伝導性と軌道局在性の相関が示差された。またSi(CH3)3Clにおいては、同一原子の非占有軌道であっても、原子軌道により局在性が異なることが分かった。またSiCl4における結果と比較し、-CH3基が分子軌道に非局在性を与えることが分かった。

 低温多層吸着系におけるSi-、P-、S-およびCl-1s励起による脱離測定を行った結果、脱離量の波長依存性が特定の励起状態でのみ増大することを見出した。これは、非占有軌道に存在するスペクター電子と非占有軌道の反結合性との関連により解釈された。

 以上述べたように,本論文によって,従来不明な点が多かったオージェ遷移、特にスペクテータ・オージェ遷移に関する詳しい知見がもたらされ、共鳴オージェスペクトル測定が、系の電子状態を議論するのに有効な手段となり得ることが示された。なお、本論文の第3〜7章は、佐々木貞吉氏、馬場祐治氏、山本博之氏、中谷健氏との共同研究であるが、論文提出者が主体となって実験及び解析を行ったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって,博士(理学)の学位を受けるのに十分な資格を有すると認める。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/51096