学位論文要旨



No 214062
著者(漢字) 府川,哲夫
著者(英字)
著者(カナ) フカワ,テツオ
標題(和) 高齢化が老人医療費に与える影響に関する研究 : 時系列レセプトデータを用いた分析
標題(洋)
報告番号 214062
報告番号 乙14062
学位授与日 1998.11.25
学位種別 論文博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 第14062号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大橋,靖雄
 東京大学 教授 荒記,俊一
 東京大学 教授 梅内,拓生
 東京大学 教授 甲斐,一郎
 東京大学 助教授 橋本,修二
内容要旨

 人口高齢化の進展にともなって老人医療費の割合がますます大きくなることが予想され、人口高齢化が老人医療費に与える影響を詳細に分析することは今後の高齢化対策を考える上でも、あるいは医療費の効率化を考える上でも重要なテーマである。老人医療費の増加要因としては、医療技術や新薬利用の浸透、医師数の多さ、医療施設数や病床数の多さ、老人ケア施設の不足による入院の長期化、薬剤使用の多さ、など数多くの点が指摘されている。一方、老人医療費の地域差に関しては、1人当たりの老人医療費には県別に約2倍の格差があり、果たして国民の健康を損なわずにどこまで医療費の効率化を図れるかという点に関心が高まっている。財政問題や人口高齢化という共通の背景のもとに、1990年代に入っても多くの先進国で引き続き医療改革が大きな政策課題となっている。医療費の中で大きな部分を占めるのが各国とも高齢者に要する医療費であり、高齢者医療費の中に介護が制度的に組み込まれている程度にかかわらず、高齢者に対する医療・介護サービスに要するトータル・コストの大きさが重要な問題となる。このトータル・コストを考える場合には、高齢化とトータル・コストの関係、制度に内在するインセンティブとトータル・コストの関係、トータル・コストと効果・効用の関係などが重要な視点である。

 本研究は老人医療受給資格者個々人の1年間のレセプトデータをもとに12道府県から収集された老人医療レセプトデータ(186万人)を用いて、老人医療受診者を年間受診日数によってカテゴリー化し、受診者カテゴリーという視軸で老人医療費の年齢差・地域差や集中度を再検討し、老人医療費を押し上げる大きな要因とみなされている長期入院及び死亡者に関する医療費を分析した。その結果をもとに、年齢の上昇とともに高齢者の身体機能が低下することが必ずしも医療ニーズの増加をともなうものではないという観点から、人口高齢化が老人医療費に与える影響について考察した。本研究は使用するデータのもつ制約から、高齢化が老人医療費に与える影響に関する研究にとどまり、高齢者介護に要する費用を含むトータル・コストは扱っていない。ただし、老人医療費の中に含まれている介護的要素については独自の定義によってその定量化を試み、高齢化と老人医療費の関係を考える上で重要な知見が得られた。

 老人医療受診者を年間受診日数によってカテゴリーに分類すると、同一カテゴリーでの受診者1人当たり医療費の年齢による変化は小さく、年齢階級別人口1人当たり医療費の変化は主に受診者のカテゴリー別分布の変化によってもたらされていた。受診者分布を標準化すると地域差は大幅に縮小した。1人当たり老人医療費には約2倍の県別格差があったが、受診者と医療費のローレンツ曲線は県による老人医療費の高低とは関わりなくいくつかのグループに分類できた。医療費の高い県と低い県が同一グループに入っている(ローレンツ曲線が同じ)ということは、地域における医療費の高低はその地域の一部の人口集団又は一部の疾病群によって引き起こされているわけではないことを示唆していると考えられる。人口1人当たり医療費は85-89歳でピークとなり、それ以降低下した。このようなピークは11県全てで確認され、人口1人当たり医療費(平均値)と年齢の間には安定した関係があると考えられる。70歳の平均余命を用いて、平均的な個人が生まれてから死ぬまでの生涯医療費を算出すると、過去15年間、生涯医療費は1人当たりGDPの約5倍であまり変わっていないが、70歳以上の構成比が大幅に増加した。

 次に、長期入院や介護的要素が老人医療費に与えている影響について分析した。1年間の入院日数だけで長期入院を把握しているため過小評価の可能性があったが、ここでは補正を行わずに議論を進めた。180日以上の長期入院者の入院医療費を除くと医療費は25%低下し、人口1人当たり医療費のピークも80歳代後半から80歳前後に移動した。精神障害は若年者の長期入院の主因であっても、高齢者の長期入院の主因ではなかった。しかも、年齢の上昇とともにその比重は小さくなった。従って、長期入院を大幅に減らすことは不可能な目標ではないと考えられる。疾病や入院期間に関わりなく、入院受診者のうち年平均の1日当たり入院医療費が基準値未満の者の医療費を介護的要素と定義して、老人医療費に含まれている介護的要素の大きさを評価した。その結果、70歳以上人口の2〜4%(85歳以上に限れば3〜7%)、1年間に入院したことにある者の8〜18%が介護的要因による入院と判定され、そのために要した費用は1年間の老人医療費(ただし医科のみ)の5〜13%と推計された。最も影響の大きかったケースを例にとると、介護的要素を除くと医療費は13%低下し、人口1人当たり医療費のピークは80-84歳にシフトし、90歳以上では男女差がほとんどなくなった。また、介護的要素の大きさは年間入院日数の増加とともに急増し、180日以上入院者の48%、その医療費の40%は介護的要素と判定された。

 高齢死亡者の医療費も、人口高齢化との関係で重要な論点である。1年間の医療費に占める死亡者の医療費の割合は12%であったが、この割合は年齢階級の上昇とともに急速に上昇していった。老人死亡者においては、医療費に占める入院のシェアが80〜90%と高かった。死亡者1人当たりの死亡までの月別医療費は死亡月の2か月前から大きく増加し、最後の1か月は1年間の医療費の21%を占めていた。死亡者1人当たりの死亡前1年間の医療費は生存者1人当たりの1年間の医療費の4.3倍と高かったが、この倍率は死亡者の年齢階級の上昇とともに急激に低下した。死亡前6か月の入院状況別に死亡者をみると、(1)死亡まで入院しなかった者(医療費は低い)の割合は年齢階級の上昇とともに増加し、(2)入院の1日当たり医療費は入院を開始した月が死亡月に近いほど高かった。そして、死亡月が近づくにつれて死亡者1人当たり医療費が増加する主な要因は入院受診の増加であった。死亡前に連続して3か月入院した人を対象に死亡者を分類すると、年齢計でみて対象者の約20%(老人死亡者全体のおよそ8%)の者でのみ死亡月の2か月前から医療費の高騰がおきていた。医療費の高騰がおきたグループに属する人の割合は70-74歳で最も高く、年齢階級の上昇とともに低下した。

 日本は21世紀前半に深刻な人口高齢化に直面すると予測されているが、今日の老人医療費の4分の1を占めている長期入院者及び12%を占めている死亡者の医療費を詳細に分析した結果、老人医療費は年齢の単調な増加関数ではないことが明らかとなった。人口1人当たり老人医療費は年齢の上昇とともに変化し、県別にも約2倍の格差があったが、この年齢差・地域差の主な要因は医療サービスを消費する度合いの異なる受診者の構成割合が年齢によって、あるいは地域によって変化するためであった。同一カテゴリー内での医療費の集中度は年齢によって、あるいは県によってあまり変わらず安定した値を示した。また、人口1人当たり老人医療費が大幅に異なる2県でも医療サービス消費のパターン(集中度)が同じであり、地域における医療費(平均値)の高低はその地域の受診者全般の医療費の高低によってもたらされていることが示唆された。広い意味で医療サービスを多く使う典型例が長期入院である。180日以上の長期入院を除くと医療費は少なくとも25%低下し、人口1人当たり医療費のピークも80歳代後半から80歳前後に移動し、年齢差・地域差も大幅に縮小した。長期入院はすでに老人医療費の規模及び若年と老人の間の医療費消費の配分に大きな影響を与えていた。長期入院に要する費用の少なからざる部分は介護的要素と考えられ、この割合は年齢の上昇とともに急激に増加した。人口1人当たり老人医療費は介護的要素を除くと形もピークも大幅に変わり、特に85歳以上の医療費を形づくる上で介護的要素が大きな役割を果たしていた。一方、死亡者の医療費はその入院状況によって大きく異なり、死亡月が近づくにつれて死亡者1人当たり医療費が増加する主な要因は入院受診の増加であった。死亡者1人当たりの死亡前1年間の医療費は年齢の上昇とともに大幅に低下し、終末期の医療費高騰が老人医療費全体に与える影響は大きくなかった。これらの結果を総合すると、老人医療費の効率化を考える上で、一方では医療サービスを多く使う受診者に焦点を当てるアプローチが必要であり、他方では受診者全般を考慮するアプローチが必要であることが判明した。また、高齢者の増加によって老人医療費総額は増加するものの、1人当たり老人医療費は人口高齢化によってそもそもあまり増加するものではなく、老人医療費に含まれている介護的要素あるいは長期入院がどの程度除去されるかによってその水準が決定されるという結論が得られた。

審査要旨

 本研究は人口高齢化が老人医療費に与える影響を明らかにするため、145万人分の1年間の老人医療レセプトデータを用いて老人医療費の解析を試みたものであり、下記の結果を得ている。

 1.老人医療受診者を年間受診日数によってカテゴリー化し、受診者カテゴリーという視軸で老人医療費の年齢差や地域差を分析した結果、人口1人当たり老人医療費は年齢の上昇とともに変化し、県別にも約2倍の格差があったが、この年齢差・地域差の主な要因は医療サービスを消費する度合いの異なる受診者の構成割合が年齢によって、あるいは地域によって変化するためであった事が示された。

 2.広い意味で医療サービスを多く使う典型例が長期入院であるが、180日以上の長期入院を除くと老人医療費は少なくとも25%低下し、人口1人当たり医療費のピークも80歳代後半から80歳前後に移動し、年齢差・地域差も大幅に縮小した。つまり、長期入院はすでに老人医療費の規模や形及び若年と老人の間の医療費消費の配分に大きな影響を与えている事が示された。

 3.疾病や入院期間に関わりなく、入院受診者のうち年平均の1日当たり入院医療費が基準値未満の者の医療費を介護的要素と定義して、老人医療費に含まれている介護的要素の大きさを評価した結果、長期入院に要する費用の少なからざる部分は介護的要素と考えられ、介護的要素の割合は年齢の上昇とともに急激に増加した。人口1人当たり老人医療費は介護的要素を除くと形もピークも大幅に変わり、特に85歳以上の医療費を形づくる上で介護的要素が大きな役割を果たしている事が示された。

 4.死亡者の集団にかかる医療費は老人医療費の12%で少なくない。死亡者の医療費はその入院状況によって大きく異なり、死亡月が近づくにつれて死亡者1人当たり医療費が増加する主な要因は入院受診の増加であった。死亡者1人当たりの死亡前1年間の医療費は年齢の上昇とともに大幅に低下し、死亡前2、3か月間において医療費の高騰がおきていた人の割合は老人死亡者の10%未満であることが示された。

 5.以上の結果から、老人医療費の効率化を考える上で、一方では医療サービスを多く使う受診者に焦点を当てるアプローチが必要であり、他方では受診者全般を考慮するアプローチが必要であることが判明した。また、高齢者の増加によって老人医療費総額は増加するものの、1人当たり老人医療費は人口高齢化によってそもそもあまり増加するものではなく、老人医療費に含まれている介護的要素あるいは長期入院がどの程度除去されるかによってその水準が決定されると考えられた。

 以上、本論文は老人医療レセプトデータの解析から老人医療費は年齢の単調な増加関数ではないことを明らかにし、人口高齢化が老人医療費に与える影響を実証分析した。本研究は今後の老人医療のあり方を考える上で重要な貢献をなすと考えられ、学位の授与に値するものと考えられる。

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