本論文は、ケンブリッジ大学図書館に所蔵されているジャーディン・マセソン商会(以下JM商会と略記)文書の分析にもとづいて、アヘン戦争前夜から1890年代に至る同商会の中国における活動を多面的に考察し、その活動の全体像に迫ろうとした研究である。最近、近代世界におけるアジアとヨーロッパの関係については、さまざまな形での見直し作業が進行しているが、本論文は、アジアにおけるイギリスの経済活動の中核を担った同商会の、企業活動の諸相を50年間にわたる時代的変遷に着目しつつ描くことを通して、アジアとヨーロッパの接触の具体像を浮き彫りにしようとすることをも目指している。またJM商会文書の中でも、取り扱いの困難さゆえにこれまで十分な分析の対象とされることがなかった経営帳簿を主たる史料とした研究として、JM商会研究の流れに新たな境地を開くことも、本論文では意図されている。 本論文は、序章と本論7章、および終章の9章から成る。注は各章の各節末尾につけられており、巻末には、付表I(JM商会のパートナー・元パートナーの配当・利子・出資一覧表)、付表II(JM商会の貸借対照表)が掲載され、さらに「あとがき」と、索引(事項索引および人名・企業名索引)が付せられている。本論文はすでに出版物の形をとっており(東京大学出版会発行、1998年2月25日初版)、総ページ数はv+330ページである。なお参考文献目録は、別冊子の形で、審査委員会委員に配布された。以下、各章の内容を紹介する。 「序章問題の所在と本書の構成」では、香港を拠点としたイギリスの東アジアにおけるプレゼンスの意味を、東アジアの近代化の歴史過程とのかかわりにおいて検討することが、近代世界史における「西洋」と「東洋」の出会いがもつ意義を確定する上できわめて重要な作業であると、著者の大きな問題意識がまず提示される。「西洋」と「東洋」の出会いという点に関しては、これまでヨーロッパからのアジアへの衝撃を探るという視角が一般的であったが、1980年代以降、アジア史研究者によってアジアにおける自律的な広域経済圏の存在が強調され、アジアの近代にヨーロッパがもった意味が相対化されるようになってきている。ヨーロッパ中心史観への鋭い異議申し立てといいうるこうした議論の重要性を認めつつ、著者は、ヨーロッパ史研究者、とりわけイギリス史研究者が、改めてヨーロッパ(イギリス)側のアジアにおけるプレゼンスの具体像を検討してみることが必要であると主張し、そうした作業の一環として本論文を位置づけている。序章ではさらに、従来の研究がJM商会文書の書簡類を中心的史料としたのに対し、本論文ではこれまでほとんど分析されてこなかった経営帳簿類をも用いて、JM商会の活動の全体像を描きあげることが、本論文のねらいである、と述べられている。 「第1章イギリスの対中国政策の変遷とジャーディン・マセソン商会」では、アヘン戦争期から1880年代に至るイギリスの対中国政策の中での、イギリス商人とイギリス政府の関係が概観される。アヘン戦争は、英・印・中3国間のいわゆる三角貿易が定着しイギリスの対中国貿易が進展していく中で引き起こされたものであり、1832年に結成されたJM商会も中国に対する強硬策を強く主張していた。しかし南京条約締結後も対中国貿易はイギリスの期待通りには伸びず、第二次アヘン戦争が引き起こされる。その後で結ばれた天津条約はJM商会などを一応満足させる内容となったが、そこでの有利さが実現されるためには、政府による圧力の行使が必要であり、1880年代に至るまでのイギリス政府の姿勢は、JM商会などにとって不満足なものであった。この点をめぐる80年代以降の状況について、著者は86年に出された「ブライス覚書」(イギリスの経済利害を守るための外交行動の必要性を表明)の意味を再確認しつつ、現実には政府による公式の援助ではなく、情報収集活動やさまざまな形での非公式の援助が積極化したことを指摘している。 「第2章香港でのパートナーシップ(合名会社)経営の実際」では、パートナーシップ経営の歴史的由来が述べられた後、JM商会のパートナー及び元パートナーの出資状況、彼らへの利益配分状況が、1830年代から80年代までの経営帳簿に基づいて分析される。さらにそうして得られた利益の用途の検討が行われ、1847年に創設されJM商会のロンドンにおける本部ともいいうる性格をもったマセソン商会の設立に当初の利益の多くが当てられたこと、またパートナーの土地購入と国会議員への選任のためにも利益が充当されたことなどが指摘される。 「第3章「商業貴族」の没落か?」は、分量的に本論文で最大の割合を占める部分であり、JM商会による貿易活動、とりわけ商品取引の実態を、経年的変化に着目しつつ詳しく分析している。検討の対象とされている商品は、中国への輸入商品としてのインド産アヘンとイギリス産繊維製品、中国からの輸出商品としての茶と生糸である。このそれぞれについて、JM商会の商品取引に占める割合の変遷、JM商会にとっての利益と損失、取引の盛衰の要因、取引形態(自己勘定取引か委託取引か)、中国からの輸出商品の場合の買い付け方法などが検討された後で、各商品取引の推移に固有の特徴が見られること、JM商会はこれら四商品の取引を相互に結びつける形で貿易業務を営んでいたこと、取引形態が時代とともに大きく変化していったこと、が結論として提示される。 「第4章イギリス本国との金融的絆」は、JM商会の商品取引代金決済の方法、代金決済にあたってイギリス系諸銀行とロンドン金融市場、とくにマセソン商会が演じた役割を扱った部分である。時系列的に、東インド会社手形を含むさまざま手形による決済が行われていた40年代までの状況から、マセソン商会およびオリエンタル銀行を中心とする決済が行われた50-60年代、マセソン商会と香港上海銀行中心の70年代を経て、アジア向けポンド利付為替手形が普及した80年代へ、という変化が克明に描かれる。またその過程で、JM商会と密接不可分の関係にあったマセソン商会のマーチャント・バンカーとしての機能の内、マーチャント機能が縮小し、バンカー機能に活動が集中していった点が、強調されている。 「第5章東アジア初の洋式製糸工場の実験」では、JM商会の活動多角化の早い例として、中国での製糸業への直接投資にJM商会が乗り出したケースが検討される。失敗に終わりはしたものの、この試みは中国での器械製糸工場設立の嚆矢として位置づけられるものであり、きわめて重要な意味をもっている。にもかかわらず、これまでその試みの具体像は明らかにされておらず、JM商会文書の経営帳簿ならびに書簡類の分析に依拠した本章は、その実態に迫る初めての研究である。JM商会の投資によって上海器械製糸工場が設立されるに当っては、ジョン・メイジャーという人物が大きな役割を演じたが、著者は、労働力の調達問題や、原料繭の買付け問題をめぐるメイジャーと中国人側の関係を史料に即して具体的に描き、この新たな試みが失敗していく過程を浮かび上がらせている。 60年代における上海器械製糸工場の挫折の経験は、70年代以降のJM商会のより本格的な経営多角化の過程で生かされていくことになるが、その様相を扱ったのが、「第6章 多角化の模索」である。多角化の内容として本章で取り上げられている業種は、精糖業、鉄道業、鉱山業、銀行業、製糸業、綿紡績業である(海運業は次章で扱われる)。これらについて、JM商会の関与の様相、利益の規模、資金調達の回路(とりわけ東アジア関係の重要な金融機関として台頭してきた香港上海銀行との関係)、中国人側の対応(たとえば綿紡績業をめぐってはJM商会に対する中国人の不信感が表出した)などが論じられる。この章の最後の部分では1890年代の問題が言及され、日清戦争後の下関条約に、日本国民の中国開港場での製造業従事と器械類の自由な輸入を認めた条項(この権利は最恵国条項によってイギリスにも与えられることになる)が挿入された背景に、綿紡績業との関連で動きを活発化させていたイギリス外務官僚の存在があったことが示唆されている。 第7章「「ヨーロッパの衝撃」と「アジアの衝撃」」は、JM商会の活動多角化の一面である海運業に焦点を絞って、JM商会の活動と中国側の対応との関連をより詳細に検討する。JM商会による「中国華海輪船公司」設立の過程が描かれた後、バターフィールド・アンド・スワイア商会との競争にさらされながら展開した同社の経営状況の変化が分析され、さらに中国商人からの資本調達の様相が解明される。中国商人からの資金吸引について著者がとくに重視している点は、利益の配当に際して中国側の伝統的な合股制度の遺制ともみられる「官利」の支払いに準じた方法がとられたことであり、これを著者は「アジアの衝撃」と表現して、「ヨーロッパの衝撃」の尖兵であるJM商会がそれに配慮しなければならなかったことの歴史的意味に注意を促している。 以上の第7章までの議論をまとめる形で、「終章 結論と展望」では、本論文で得られた知見が、以下の3点に大きくまとめられている。まず第一は、初期のJM商会がアヘン貿易のみに従事する単なるカントリー・トレーダーではなかったことが明らかにされたことである。第二は、「商業貴族」としてのJM商会の活動変遷の具体像が描かれ、その利益がいかに用いられたかが解明されたことである。そして第三に、1870年代以降のJM商会の活動多角化が具体的に検討されたことである。 以上が本論文の概要である。本論文の意義としては、以下の諸点があげられるであろう。 まず何よりも、著者は、JM商会文書の綿密な検討、分析の上に立って、1830年代の設立時から1880年代に至る同商会の活動の全体像を描き上げることに成功している。JM商会の経営帳簿類は膨大な量にのぼり、その処理に多大な労力が必要とされるため、これまでの研究では本格的な検討の対象となってこなかったが、著者はその分析という困難な作業に取り組み、結果としてJM商会の活動の広がりと時系列的な変化とを共に説得的に提示しえているのである。また、JM商会文書中の書簡類の分析も決してなおざりにはされておらず、とりわけ本書の後半部で経営多角化の過程を解明するに当っては、書簡史料がきわめて有効に利用されている。なお、巻末に付されているJM商会の経営帳簿から作成された二つの付表は、こうした本論文の分析の基礎となるものであるが、大作業の結果作成された精密なデータであり、今後の研究にとって貴重な意味をもつものとなっている。 さらに、著者の問題意識である、「西洋」と「東洋」の出会い方の具体的解明という点も、JM商会およびそれを取り巻くイギリス側の経済利害と中国人商人・買弁の複雑な絡み合いが、個々のケースに即して論じられることにより、かなりの程度成功しているといってよい。とりわけ第7章は、この点についての重要な貢献である。 また、イギリス資本主義史、帝国主義史の観点からみても、本書の意味するところは大きい。中国での経済活動で得られた利益が土地購入に投資される状況の分析や、マーチャント・バンカーの活動形態の変化やシティ金融資本の役割についての議論は、イギリス資本主義の性格を論じる上で格好の素材を提供するものであるし、JM商会などの経済利害と政府活動の関連についても有意義な論証がみられる。 このように、本論文は、この分野における従来の研究水準を大きく引き上げる業績であるといってよい。ただし、本論文には不十分な点もいくつか存在する。たとえば、著者が本論文執筆の素材とした史料・文献がほとんどイギリス側のものであったことからも生じる限界といえようが、中国商人などの対応を中国側に即して描くという点で、本論文は不十分さを残している。1860年代が中国貿易の転換期であり、中国人商人が外国商人と真っ向から競争するようになったとの指摘があるが、そこでの中国人商人がいかなる人々であったのかについての検討が欠けている点はその一例である。また、対象時期が19世紀に限定されているのはやむをないにしても、終章における20世紀への展望はあまりにも簡単すぎるように思われる。19世紀末のJM商会の活動がしだいに政治的色彩を帯びそれが20世紀につづいていくことを考慮した上で、改めて19世紀におけるJM商会の経済活動の意味を考察してみる必要があると思われる。 このように、なお考察を広げる余地はあるものの、それは本論文の価値を損なうものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。 審査委員会は,平成10年10月23日に論文提出者に対し,学位請求論文の内容及び専攻分野に関する学識について口頭による試験を行った結果,本人は博士(学術)の学位を受けるに十分な学識と研究を指導する能力を有するものと認め,合格と判定した。 |