学位論文要旨



No 214078
著者(漢字) 石井,摩耶子
著者(英字)
著者(カナ) イシイ,マヤコ
標題(和) 近代中国とイギリス資本 : 19世紀後半のジャーディン・マセソン商会を中心に
標題(洋)
報告番号 214078
報告番号 乙14078
学位授与日 1998.12.24
学位種別 論文博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 第14078号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木畑,洋一
 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 高橋,直樹
 東京大学 教授 濱下,武志
 慶応義塾大学 教授 杉山,伸也
内容要旨

 本論文は、主にイギリスのケンブリッジ大学図書館所蔵のJardine Matheson Archiveの資料を用いて、香港に足場をおくイギリス商業資本の代表的存在であったジャーディン・マセソン商会(Jardine Matheson & Co.以下JM商会と略す)の具体的な活動を、19世紀30年代から90年代の時期に限定して検討し、香港を拠点とするイギリスの東アジアにおけるプレゼンス(存在)の意味を、東アジアの近代化過程とのかかわりにおいて検討しようとするものである。以下、序章「問題の所在と本書の構成」及び終章「結論と展望」を除く本文全7章の内容を、本業である商業活動を扱った第1〜4章と、1870年代から本格化する経営の多角化を論じた第5〜7章に分けて要約しよう。

 まず第1章において、自由貿易帝国主義の典型とみなされるアヘン戦争から日清戦争までの時期のイギリスの対中国政策の変遷をJM商会の活動との関係を視野に入れつつ検討した上で、第2章では、JM商会の経営形態としてのパートナーシップ方式が如何なる形で実施されたかを、経営実績の変遷、投資収益の行方、などに即して追跡した。第3章ではJM商会の商品貿易の推移を、アヘン・繊維製品・茶・生糸などの代表的な取扱い商品別に検討し、続く第4章ではJM商会の独自の強みとしてのロンドンとの金融的絆について検討した。

 それらの検討を通じて明らかになったJM商会の中国での商業活動の特徴は以下の2点にまとめられる。まず第1には、1830〜40年代のJM商会の活動が、アヘン貿易のみに従事する単なるカントリー・トレーダーのそれではなかったことである。JM商会は設立当初から、インド産アヘンの中国への持込みの他に、中国の茶や生糸のイギリス本国への直接輸出、マンチェスターの業者との乗合勘定によるイギリス綿製品の中国への売込みに当たった。そしてこのような繋がりの故に、JM商会は、中国でのアヘン没収問題をイギリス本国において訴える際に、それをイギリスが世界的に押し広めようとしていた自由貿易体制の構築という問題と絡めて訴え、広くイギリス全土の人々の支持を取りつけることができたのであり、アヘン戦争後のJM商会は香港を拠点として自由貿易の尖兵としての活動を展開した。これを中国側からみると、アヘン戦争以前において、対外貿易の過半が広東公行に属さない非特権商人によって営まれており、現実には中国経済はイギリスの武力により強制的に資本主義世界経済に接合されたとはいえ、広東公行体制という形をとった鎖国体制の崩壊は、すでにアヘン戦争前において時間の問題となっていたのである。

 第2に、50年代におけるJM商会の「商業貴族」として成功の鍵は、中国沿岸地方に対するアヘンの自己勘定による冒険取引や、中国人の買弁や買付け商人を用いての茶や生糸の産地買付け、とくに蘇州方式といわれるアヘン売込みと茶や生糸の買付けをセットにした強引な商法の推進と、JM商会独自の強みであるイギリス本国との金融的絆の活用にあった。JM商会のパートナーが帰国して1848年にロンドンで開設した金融商会のマセソン商会の存在は、JM商会がインド・中国・イギリスを中心とする広域的な貿易活動を行ない、60年代末からの経営多角化を進める上で、決定的に重要であった。経営方式としてパートナーシップ制を厳密に実施したJM商会は、出資者に対しては年8%前後の利子を支払い、パートナーに対しては、その活動の貢献度に応じて16ないし32を総計とする割当分を決め、純益が上がれば分配を行い、損失が出れば補填を義務づけた。高利益を上げた50年代には、パートナーへの配当も多額にのぼり、JM商会は「商業貴族」としての全盛期を迎えた。この利益の行方を追うと、パートナーたちが中国に在留する限りはかなりの部分が商会に再出資されたが、辞任して帰国する時にほとんど全額が本国に回収された。帰国後元パートナーたちは、その資金を土地投資や政界進出に使用したが、いま一つ重要な投資先となったのが、前述のロンドンに開設されたマセソン商会であり、ロンドンにこのような金融商会を確保できたことが、アメリカの南北戦争による予期せぬ市況の変動と1866年恐慌に際会して、危機的状況に陥ったJM商会を救ったのである。この1860年代は、JM商会の活動にとって大きな転換期であった。中国での太平天国運動による商取引の減退を契機に60年代前半に積極的な日本進出を図るなど、貿易活動の拡大を目論んだJM商会にとって、南北戦争による市場の撹乱は大きな打撃となり、1866年恐慌が経営不振に追い打ちをかけ、パートナーの損失負担は空前の額に達した。さらに交通通信革命の進行による中小商人の進出、中国人商人の貿易活動への参入によって、従来の自己勘定引のうまみはなくなり、JM商会の貿易活動は次第に手数料取引へと限定されていくことになる。

 このような変化との関連で、本論文が次に第5〜7章において検討したのは、1870年代からのJM商会の経営の多角化である。第5章では、JM商会の早熟的な経営多角化の事例として、60年代に上海支店で行われた東アジア初の洋式製糸工場の実験に光を当てた。それは、偶然に着手されたものであり、原料繭や女性工員の調達などで失敗したものの、当時の中国農村の土着の製糸業に対する挑戦であった。第6章では70年代に本格化したJM商会の経営多角化の全体像を把握するために、JM商会が取り組んだ精糖業・鉄道業・鉱山業・銀行業・製糸業・綿紡織業などの諸分野について順次検討し、特にJM商会の綿紡織業への進出が日清戦争終結に際して結ばれた下関条約の中に「外国人の工業権」条項が加えられたことと如何に密接な関係をもっていたかを跡づけた。また第7章では、JM商会が経営多角化の出発点において意欲的に取り組んだ海運会社経営を取り上げて、その経営の特徴が経営代理制度にあったこと、および中国の社会的資金を動員するために巧みに中国の慣行に従いつつ、「アジアからの衝撃」に対処していったことを分析した。

 自己勘定取引から撤退した結果生じた余剰資金を如何に効果的に運用し、経営の多角化を進めるかという大きな課題に直面したJM商会は、しかし、すぐに本格的な産業投資活動を行うことはできなかった。それは一つには条約によって開港場での外国人の工業権が認められていなかったためであり、二つにはJM商会自体の商社としての体質からパートナーの間では資本の長期固定化への躊躇が大きかったためであった。そうした問題をさしあたり解決した第1の方法は、中国人買弁を通して長年の間築いてきた有力な中国人商人たちとの友好的な関係を活かして、中国人名義の株式会社を組織したことであり、JM商会はそれによって条約上の制約を乗り越えるとともに、中国人からの資本調達を行った。第2の解決策は、経営代理制度を利用して、会社経営の中枢を握りつつ、いつでも撤退できる立場に身を置こうとしたことである。しかし、時の経過とともに、経営代理制度は中国人の側からの批判を浴び、中国人自らが工業会社経営を主体的に行おうとする機運が高まったため、JM商会は自ら本格的な産業投資へと向かわざるを得なくなった。

 一方、ロンドンのマセソン商会は、当初本格的な産業投資活動に対してきわめて批判的であったが、1880年代に入ると積極的な姿勢に変化していき、イギリス本国の政界・経済界の中国投資への全面進出という新事態の中で、同商会はJM商会と共に、新しい役割を担うことになる。84年になるとJM商会の責任パートナーW.ケズウィックはロンドンに居を移し、マセソン商会に身を置きつつ、JM商会の陣頭指揮を続け、JM商会はロンドン金融市場からの強力な経済的・政治的支援を得つつ、中国における本格的な産業投資へと乗り出していくことになった。

 こうして、1890年代におけるJM商会の努力は、外国人の工業権を制限する壁の正面突破へと向けられた。イギリス外務省の出先担当者の支援の下で、JM商会が工場設立を目指して紡織機械の輸入を進めつつあった折しも、日清戦争が勃発し、勝利した日本政府は、清朝政府との講和条約の中に外国人の工業権条項を取入れるというイギリス向けのサービスを行ったために、JM商会は直ちに綿紡織業投資を行い、さらに香港上海銀行とタイアップして、鉄道投資のための外資導入機関である「英中公司」を結成し、中国内陸への進出を図った。以後、香港のJM商会は、ロンドンのマセソン商会との連携の下で、ますます中国本土との関係を深めつつ、多角的な事業体としての道を歩んでいったのである。

 以上のJM商会の活動についての考察から、中国の近代化過程におけるイギリス資本の役割は、単純な「貢献論」や「収奪論」によっては片付けられないことが判明した。「商業貴族」としての命運が尽きる前に、JM商会は、長年の商取引で築いた中国商人たちとの密接な関係をテコに経営の多角化を図ろうとしたが、その際に、中国人側のさまざまな要請に対応しなければならなかった事実は、中国商人たちの側にも強い自己主張があったことを示している。それにもかかわらず、19世紀末の中国が外国資本の流通過程のみならず生産過程への進入を許し、対外従属の道を辿ったのは、清朝政府と洋務派官僚が工業化の担い手としての民間の商人や生産者の自発的な活動を重視せず、そのための条件整備の努力を怠ったためであり、また外国資本への対応に際して、その資力や能力を自国の経済建設に活用する姿勢に乏しかったためであった。

審査要旨

 本論文は、ケンブリッジ大学図書館に所蔵されているジャーディン・マセソン商会(以下JM商会と略記)文書の分析にもとづいて、アヘン戦争前夜から1890年代に至る同商会の中国における活動を多面的に考察し、その活動の全体像に迫ろうとした研究である。最近、近代世界におけるアジアとヨーロッパの関係については、さまざまな形での見直し作業が進行しているが、本論文は、アジアにおけるイギリスの経済活動の中核を担った同商会の、企業活動の諸相を50年間にわたる時代的変遷に着目しつつ描くことを通して、アジアとヨーロッパの接触の具体像を浮き彫りにしようとすることをも目指している。またJM商会文書の中でも、取り扱いの困難さゆえにこれまで十分な分析の対象とされることがなかった経営帳簿を主たる史料とした研究として、JM商会研究の流れに新たな境地を開くことも、本論文では意図されている。

 本論文は、序章と本論7章、および終章の9章から成る。注は各章の各節末尾につけられており、巻末には、付表I(JM商会のパートナー・元パートナーの配当・利子・出資一覧表)、付表II(JM商会の貸借対照表)が掲載され、さらに「あとがき」と、索引(事項索引および人名・企業名索引)が付せられている。本論文はすでに出版物の形をとっており(東京大学出版会発行、1998年2月25日初版)、総ページ数はv+330ページである。なお参考文献目録は、別冊子の形で、審査委員会委員に配布された。以下、各章の内容を紹介する。

 「序章問題の所在と本書の構成」では、香港を拠点としたイギリスの東アジアにおけるプレゼンスの意味を、東アジアの近代化の歴史過程とのかかわりにおいて検討することが、近代世界史における「西洋」と「東洋」の出会いがもつ意義を確定する上できわめて重要な作業であると、著者の大きな問題意識がまず提示される。「西洋」と「東洋」の出会いという点に関しては、これまでヨーロッパからのアジアへの衝撃を探るという視角が一般的であったが、1980年代以降、アジア史研究者によってアジアにおける自律的な広域経済圏の存在が強調され、アジアの近代にヨーロッパがもった意味が相対化されるようになってきている。ヨーロッパ中心史観への鋭い異議申し立てといいうるこうした議論の重要性を認めつつ、著者は、ヨーロッパ史研究者、とりわけイギリス史研究者が、改めてヨーロッパ(イギリス)側のアジアにおけるプレゼンスの具体像を検討してみることが必要であると主張し、そうした作業の一環として本論文を位置づけている。序章ではさらに、従来の研究がJM商会文書の書簡類を中心的史料としたのに対し、本論文ではこれまでほとんど分析されてこなかった経営帳簿類をも用いて、JM商会の活動の全体像を描きあげることが、本論文のねらいである、と述べられている。

 「第1章イギリスの対中国政策の変遷とジャーディン・マセソン商会」では、アヘン戦争期から1880年代に至るイギリスの対中国政策の中での、イギリス商人とイギリス政府の関係が概観される。アヘン戦争は、英・印・中3国間のいわゆる三角貿易が定着しイギリスの対中国貿易が進展していく中で引き起こされたものであり、1832年に結成されたJM商会も中国に対する強硬策を強く主張していた。しかし南京条約締結後も対中国貿易はイギリスの期待通りには伸びず、第二次アヘン戦争が引き起こされる。その後で結ばれた天津条約はJM商会などを一応満足させる内容となったが、そこでの有利さが実現されるためには、政府による圧力の行使が必要であり、1880年代に至るまでのイギリス政府の姿勢は、JM商会などにとって不満足なものであった。この点をめぐる80年代以降の状況について、著者は86年に出された「ブライス覚書」(イギリスの経済利害を守るための外交行動の必要性を表明)の意味を再確認しつつ、現実には政府による公式の援助ではなく、情報収集活動やさまざまな形での非公式の援助が積極化したことを指摘している。

 「第2章香港でのパートナーシップ(合名会社)経営の実際」では、パートナーシップ経営の歴史的由来が述べられた後、JM商会のパートナー及び元パートナーの出資状況、彼らへの利益配分状況が、1830年代から80年代までの経営帳簿に基づいて分析される。さらにそうして得られた利益の用途の検討が行われ、1847年に創設されJM商会のロンドンにおける本部ともいいうる性格をもったマセソン商会の設立に当初の利益の多くが当てられたこと、またパートナーの土地購入と国会議員への選任のためにも利益が充当されたことなどが指摘される。

 「第3章「商業貴族」の没落か?」は、分量的に本論文で最大の割合を占める部分であり、JM商会による貿易活動、とりわけ商品取引の実態を、経年的変化に着目しつつ詳しく分析している。検討の対象とされている商品は、中国への輸入商品としてのインド産アヘンとイギリス産繊維製品、中国からの輸出商品としての茶と生糸である。このそれぞれについて、JM商会の商品取引に占める割合の変遷、JM商会にとっての利益と損失、取引の盛衰の要因、取引形態(自己勘定取引か委託取引か)、中国からの輸出商品の場合の買い付け方法などが検討された後で、各商品取引の推移に固有の特徴が見られること、JM商会はこれら四商品の取引を相互に結びつける形で貿易業務を営んでいたこと、取引形態が時代とともに大きく変化していったこと、が結論として提示される。

 「第4章イギリス本国との金融的絆」は、JM商会の商品取引代金決済の方法、代金決済にあたってイギリス系諸銀行とロンドン金融市場、とくにマセソン商会が演じた役割を扱った部分である。時系列的に、東インド会社手形を含むさまざま手形による決済が行われていた40年代までの状況から、マセソン商会およびオリエンタル銀行を中心とする決済が行われた50-60年代、マセソン商会と香港上海銀行中心の70年代を経て、アジア向けポンド利付為替手形が普及した80年代へ、という変化が克明に描かれる。またその過程で、JM商会と密接不可分の関係にあったマセソン商会のマーチャント・バンカーとしての機能の内、マーチャント機能が縮小し、バンカー機能に活動が集中していった点が、強調されている。

 「第5章東アジア初の洋式製糸工場の実験」では、JM商会の活動多角化の早い例として、中国での製糸業への直接投資にJM商会が乗り出したケースが検討される。失敗に終わりはしたものの、この試みは中国での器械製糸工場設立の嚆矢として位置づけられるものであり、きわめて重要な意味をもっている。にもかかわらず、これまでその試みの具体像は明らかにされておらず、JM商会文書の経営帳簿ならびに書簡類の分析に依拠した本章は、その実態に迫る初めての研究である。JM商会の投資によって上海器械製糸工場が設立されるに当っては、ジョン・メイジャーという人物が大きな役割を演じたが、著者は、労働力の調達問題や、原料繭の買付け問題をめぐるメイジャーと中国人側の関係を史料に即して具体的に描き、この新たな試みが失敗していく過程を浮かび上がらせている。

 60年代における上海器械製糸工場の挫折の経験は、70年代以降のJM商会のより本格的な経営多角化の過程で生かされていくことになるが、その様相を扱ったのが、「第6章 多角化の模索」である。多角化の内容として本章で取り上げられている業種は、精糖業、鉄道業、鉱山業、銀行業、製糸業、綿紡績業である(海運業は次章で扱われる)。これらについて、JM商会の関与の様相、利益の規模、資金調達の回路(とりわけ東アジア関係の重要な金融機関として台頭してきた香港上海銀行との関係)、中国人側の対応(たとえば綿紡績業をめぐってはJM商会に対する中国人の不信感が表出した)などが論じられる。この章の最後の部分では1890年代の問題が言及され、日清戦争後の下関条約に、日本国民の中国開港場での製造業従事と器械類の自由な輸入を認めた条項(この権利は最恵国条項によってイギリスにも与えられることになる)が挿入された背景に、綿紡績業との関連で動きを活発化させていたイギリス外務官僚の存在があったことが示唆されている。

 第7章「「ヨーロッパの衝撃」と「アジアの衝撃」」は、JM商会の活動多角化の一面である海運業に焦点を絞って、JM商会の活動と中国側の対応との関連をより詳細に検討する。JM商会による「中国華海輪船公司」設立の過程が描かれた後、バターフィールド・アンド・スワイア商会との競争にさらされながら展開した同社の経営状況の変化が分析され、さらに中国商人からの資本調達の様相が解明される。中国商人からの資金吸引について著者がとくに重視している点は、利益の配当に際して中国側の伝統的な合股制度の遺制ともみられる「官利」の支払いに準じた方法がとられたことであり、これを著者は「アジアの衝撃」と表現して、「ヨーロッパの衝撃」の尖兵であるJM商会がそれに配慮しなければならなかったことの歴史的意味に注意を促している。

 以上の第7章までの議論をまとめる形で、「終章 結論と展望」では、本論文で得られた知見が、以下の3点に大きくまとめられている。まず第一は、初期のJM商会がアヘン貿易のみに従事する単なるカントリー・トレーダーではなかったことが明らかにされたことである。第二は、「商業貴族」としてのJM商会の活動変遷の具体像が描かれ、その利益がいかに用いられたかが解明されたことである。そして第三に、1870年代以降のJM商会の活動多角化が具体的に検討されたことである。

 以上が本論文の概要である。本論文の意義としては、以下の諸点があげられるであろう。

 まず何よりも、著者は、JM商会文書の綿密な検討、分析の上に立って、1830年代の設立時から1880年代に至る同商会の活動の全体像を描き上げることに成功している。JM商会の経営帳簿類は膨大な量にのぼり、その処理に多大な労力が必要とされるため、これまでの研究では本格的な検討の対象となってこなかったが、著者はその分析という困難な作業に取り組み、結果としてJM商会の活動の広がりと時系列的な変化とを共に説得的に提示しえているのである。また、JM商会文書中の書簡類の分析も決してなおざりにはされておらず、とりわけ本書の後半部で経営多角化の過程を解明するに当っては、書簡史料がきわめて有効に利用されている。なお、巻末に付されているJM商会の経営帳簿から作成された二つの付表は、こうした本論文の分析の基礎となるものであるが、大作業の結果作成された精密なデータであり、今後の研究にとって貴重な意味をもつものとなっている。

 さらに、著者の問題意識である、「西洋」と「東洋」の出会い方の具体的解明という点も、JM商会およびそれを取り巻くイギリス側の経済利害と中国人商人・買弁の複雑な絡み合いが、個々のケースに即して論じられることにより、かなりの程度成功しているといってよい。とりわけ第7章は、この点についての重要な貢献である。

 また、イギリス資本主義史、帝国主義史の観点からみても、本書の意味するところは大きい。中国での経済活動で得られた利益が土地購入に投資される状況の分析や、マーチャント・バンカーの活動形態の変化やシティ金融資本の役割についての議論は、イギリス資本主義の性格を論じる上で格好の素材を提供するものであるし、JM商会などの経済利害と政府活動の関連についても有意義な論証がみられる。

 このように、本論文は、この分野における従来の研究水準を大きく引き上げる業績であるといってよい。ただし、本論文には不十分な点もいくつか存在する。たとえば、著者が本論文執筆の素材とした史料・文献がほとんどイギリス側のものであったことからも生じる限界といえようが、中国商人などの対応を中国側に即して描くという点で、本論文は不十分さを残している。1860年代が中国貿易の転換期であり、中国人商人が外国商人と真っ向から競争するようになったとの指摘があるが、そこでの中国人商人がいかなる人々であったのかについての検討が欠けている点はその一例である。また、対象時期が19世紀に限定されているのはやむをないにしても、終章における20世紀への展望はあまりにも簡単すぎるように思われる。19世紀末のJM商会の活動がしだいに政治的色彩を帯びそれが20世紀につづいていくことを考慮した上で、改めて19世紀におけるJM商会の経済活動の意味を考察してみる必要があると思われる。

 このように、なお考察を広げる余地はあるものの、それは本論文の価値を損なうものではなく、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。

 審査委員会は,平成10年10月23日に論文提出者に対し,学位請求論文の内容及び専攻分野に関する学識について口頭による試験を行った結果,本人は博士(学術)の学位を受けるに十分な学識と研究を指導する能力を有するものと認め,合格と判定した。

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