学位論文要旨



No 214098
著者(漢字) 多田,一臣
著者(英字)
著者(カナ) タダ,カズオミ
標題(和) 古代文学表現史論
標題(洋)
報告番号 214098
報告番号 乙14098
学位授与日 1999.01.01
学位種別 論文博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 第14098号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 鈴木,日出男
 東京大学 教授 白藤,禮幸
 東京大学 教授 小島,孝之
 東京大学 教授 戸倉,英美
 東京大学 教授 佐藤,信
内容要旨

 本論文は、日本古代文学の発生と展開を、主として表現史の観点から追求しようとする目的をもってまとめられた。

 文学の発生が祭式の場からの言語表現の自立にあったこと、それゆえにその表現には日常の言語には存在しないつよい呪力が宿されていたことを指摘し、その上でそうした呪力が言霊の発現としてとらえられることを論じた。「第一部古代文学の生成」では、そうした言霊の発現が、悪意ある言語呪術としてはたらく場合(ノロヒやトコヒ)、あるいは祝福性をもつ言語呪術としてはたらく場合(ホカヒ)とを検証し、さらに神のことばである託宣のことばがいかなる表現性をもっていたのか、またその末流ともいうべきコトワザやフルコトがどのような展開を見せて、記紀や風土記の神話叙述を導いていったのかを詳細に考察した。同時に、祭式の場の言語表現のありかたを最も色濃く受け継ぐ表現の展開を、歌謡から長歌・短歌に至る道筋として示した。旋頭歌の考察には、とくに力点を置いた。「第二部万葉歌の表現」では、第一部の論述を踏まえつつ、それをさらに個別・具体的に考察した論を配置した。すなわち、『万葉集』を中心に、表現史の観点からとくに問題とすべき歌謡や和歌の表現を、そこに宿ることばのはたらきを検証することで考察した。本論文全体を通じて、古代文学を支える古代人の世界認識のありようを、その言語表現のさまざまな角度からの分析を通じて浮かび上がらせたつもりである。

 以下、各章ごとに、その内容を要約する。第一部の「第一章言霊と言挙げ」は、古代文献の中から言霊と言挙げにかかわる表現例を探り出し、その考察を通じてことばに宿る呪力のはたらきとその禁忌性について論じたもの。一方で、大陸文化の圧倒的な高みに接する中、そうしたことばの呪力が自国の価値の優位を主張する一つの根拠とされるようになった事実をも考察した。

 「第二章ノロヒ・トコヒ・カシリ」は、他者に対する悪意ある言語呪術であるノロヒ・トコヒ・カシリについて検証し、それらが具体的にどのようなあらわれかたをしているのかを、その語義とともに考察した。ノロヒとトコヒの差異を語義の上であきらかにしたところに新見がある。

 「第三章ホカヒの論」は、祝福的な言語呪術であるホカヒについて、四つの小論によって考察したもの。「1「室寿の詞」と「大殿祭」」は、「顕宗即位前紀」の「室寿の詞」、「大殿祭」の祝詞を詳細に読み解くことで、ホカヒの詞章のありかたの特異性を考察したもの。祝福的なことばの羅列や寄物陳思的な方法の中にその特質があることを確かめた。同時にモノ鎮めの技術が、特定の氏族の職掌として固定されていく理由についても考えた。「2ホカヒの歌謡」は、祝福的な意義をもつ古代歌謡について考察したもの。最初にホキウタと呼ばれる歌謡を取り上げ、その表現上の特質をあきらかにした。さらに宮廷寿歌として整備された「天語歌(記100)」がいかにして成立したのか、それを支える世界像とはどのようなものであったのかを考え、また「允恭記」の歌謡を例に、祭式の場を起源とする表現様式がどのように形成されてきたのかを論じた。あわせて「応神記」等に収められた酒造りにかかわる歌謡を取り上げ、その背景を探るとともに、言語の祝福性がそこで果たす役割を具体的に考察した。なお、付随的ではあるが、アヅマ=東国が都と鄙の対立構造から除外された第三の地域として意識されていたことについても論じた。「3ヨゴト」はホカヒの類例と考えられるヨゴト(「吉詞」「寿詞」……)について考察したもの。ここでは「出雲国造神賀詞」および「中臣寿詞」について、その表現を詳細に検証した。寄物陳思的なよそえに表現の基本があること、一方でそうした表現の展開には一定の限界があることをたしかめた。「4ホカヒビトについて」は、1〜3に付随する論。『万葉集』の「乞食者詠二首」の検証を通じて、ホカヒビトと呼ばれる芸能者のありかたを考察し、あわせて芸能者の発生の問題についても論じた。従来の通説とは違って、「乞食者詠二首」に王権への抵抗・風刺の姿勢を見ることが誤りであることを論証した。

 「第四章託宣の言語」は、記紀や『播磨国風土記』の神功皇后の託宣の記事を中心に、神のことばである託宣の言語がどのような特質をもっているのかを考察した論。神のことばが日常のことばとどのように違っているのかを具体的に検証した。一方で、神とは何か、またその託宣をいかにして得るのかについても論じた。

 「第五章コトワザ」は、呪力ある固定的な言語詞章としてのコトワザについて考察したもの。『常陸国風土記』の「風俗諺」や記紀のコトワザを具体的に検証、それらが地名起源譚や由来譚の中で果たした役割について論じた。コトワザの呪力が伝承の聖性を保証していた事実を確認し、あわせてコトワザのもつ韻律の問題についても言及した。

 「第六章フルコト」は、コトワザと同じく、やはり古くからの固定した言語詞章であるフルコトについて考察したもの。とくに宮讃めや土地讃めの詞章に見えるフルコトについて詳細な検討をおこなった。あわせて、国見のもつ意義について、従来の理解とは違った角度からの新たな説明を加えた。さらにフルコトの典型である『出雲国風土記』の国引きの詞章についても考察、その成立の背景について論じた。最後に、フルコトの集成としての『古事記』がいかにして成立したのかについて、稗田阿礼の「誦習」の意味にも触れながら、新たな理解を示した。同時に、もともと音声言語として伝承されたフルコトが文字に記録されることで、どのような変質がそこに生み出されたのかについても論じた。

 「第七章歌の発生」は、五つの小論から構成される。歌謡から短歌への道筋を示すとともに、長歌の成立とその表現的な限界について考察をおこなった。「1長歌謡と短歌謡」は、古代の歌謡に長歌謡と短歌謡の二系列があること、前者がさらに叙事的長歌謡と喩的長歌謡に大別されること、喩的長歌謡が短歌謡と表現形式を基本的に共通にしていることを述べたもの。「2片歌問答」は、『古事記』の片歌問答が、旋頭歌的な掛け合いの起源をうかがわせる意味をもつとする従来の見方を確認した論。「3旋頭歌」は、旋頭歌の表現を具体的に検証することで、その唱和性が集団的な場を背景にしていることを確認した論。旋頭歌が柿本人麻呂の創出した新しい歌体であるとする近年の見方が成り立ちがたいことを、その表現の分析によって示した。同時に、旋頭歌の前句+後句という表現構造が、神意の提示とその解釈(謎と答)というありかたに応じていること、それが景+心という短歌の心物対応構造とも重なるものであることを指摘、さらには景がなぜ心を象ることができるようになったのかを、古代人の心性に即して考察した。「4旋頭歌と短歌」は、歌謡に通ずる唱和性をもつ旋頭歌から叙情詩としての短歌が生まれる中で、表現がどのように変質したのかを具体的に考察した論。景が心に従属し、比喩としてのありかたをつよめていくことを確認した。「5長歌謡と長歌」は、長歌が叙事的長歌謡を基本としながらも、部分的に比喩的長歌謡のありかたを方法化することで成立したこと、その完成者は柿本人麻呂であることを確認した。同時にそうして完成した長歌が叙事的であるがゆえに散文に対して表現としての限界をもったこと、それが長歌の終焉を招いたことを指摘した。

 第二部の「第一章我や人妻」は、万葉歌に頻出する「人妻」の語について考察した論。神の妻に対する人の妻が「人妻」の原義であることを、古代の女性のライフサイクルを検証する中で確認した。

 「第二章万葉びとの夜」は、古代人にとって夜とはいかなる時間(世界)としてあったのかを、『万葉集』や記紀の伝承を通じて考察した論。それらの表現の背後にある古代人の世界認識の独自性を検証した。

 「第三章「大君の命かしこみ」について」は、古代官人や防人の歌に頻出する「大君の命かしこみ」という表現がいかなる意味をもっていたのかを、律令国家の均質空間の成立に対応させつつ考察した論。

 「第四章都と鄙」は、前章と同様、律令国家が成立することによって成立した新たな空間認識のありようを、「都と鄙」という観点から検証したもの。

 「第五章井の誓いの歌と物語」は、井がなぜ恋歌の舞台となりうるのかを考えようとした論。井が古来誓約のための聖所であったこと、井に奉仕する巫女への憧れが存在したことを、記紀や『万葉集』を通じて確認した。

審査要旨

 本論文は、日本古代文学の発生と展開を、主として表現史の観点から追求したものである。特に、古代の文献のさまざまな叙述からその基底にある多様な発想を抽出し、さらにそれと表現との緊張関係を見定めながら、高度の作品分析を試みようとするところに、本論文の最大の特色がみられる。論文の構成は、全体を「第一部古代文学の生成」「第二部万葉歌の表現」の二部に分け、全十二章の論文を配している。

 第一部では、文学の発生が祭式の場からの言語表現の自立にあったとする考え方から、その非日常的な言語表現には呪力が宿され、その呪力が言霊の発現としてとらえられることを論じている。具体的な分析に即していえば、「ノロヒ」や「トコヒ」のように、言霊の発現が悪意のある言語呪術として働く場合もあれば、「ホカヒ」などのように祝福性をもって作用する場合もあることを検証する。この「ノロヒ」と「ホカヒ」の分析は、研究史上ほとんど最初の新見である。さらに、神の言葉とされる託宣がどのような表現性かを考え、その末流とも見られる「コトワザ」や「フルコト」がいかなる展開を見せながら、記紀や風土記の神話叙述を導くことになるかを詳しく論じている。特に「フルコト」に関しては、これを定型的な文語の言葉とみなすことの多かった従来の考え方を、作られた口語の言葉ととらえなおしている点が、神話分析に新たな方向性を拓いたものとして、注目に値する。また、歌の発生の問題に関しては、片歌・旋頭歌形式から短歌形式へ、あるいは長歌形式から短歌形式へ、という二つの発展経路を、歌の表現構造の分析を通して跡づけ、それはとりもなおさず歌謡から和歌への道筋でもあるとしている。この発展経路の考え方も斬新であり、論文全体を貫く発想と表現の緊張的な関係の論理によって、歌謡と和歌、集団と個人の微妙な接点に注意が払われている。

 第二部では、第一部の総論的な論述をふまえながら、いずれも注目すべき個別的な問題が取り上げられている。たとえば、歌謡や『万葉集』に頻出する「人妻」という語に関しては、もともと神の妻に対する人間の妻という意が原義であることを検証しながら、歌謡と和歌の表現の相異を論じた。また『万葉集』に多く詠まれる「夜」の語に関しては、その背後には古代の人々の、異界に連なる独自な世界観があることを論証し、さらに「井」がしばしば恋歌の舞台などになることの意味についても、もともと「井」が聖なる場、誓約の場であるところから、男女の恋の誓約の場とされたからと論じている。また、頻出する「大君の命かしこみ」という類句や、「都」と「鄙」という対概念については、律令国家成立後の新たな空間認識によっているとする。いずれの論も、説得力のある卓見である。

 本論文は、日本の古代文学の発生と展開の諸相を、表現史という斬新な観点から論じたすぐれた研究である。ただし、枕詞への言及など、いくつかの課題が残されている。しかし全体としては、きわめて説得力のある新見に富んでいて、古代文学史の新たな構想の端緒を拓いた研究であると認められる。よって、審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した。

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