内容要旨 | | 本論文は,日本国家と東北地方,近世国家と東北大名を対置させて,その関係構造を分析・解明しようとする目的をもつ。天正18年(1590)の豊臣秀吉による奥羽日の本仕置以後,幕藩体制成立期までを対象に,東北大名-なかでも蝦夷島・蝦夷地に対置する北奥や北羽の大名たち-が,中央の強大な統一権力との緊張関係のなかで,いかにして領主権力を形成したのか,またそれが地域形成に及ぼした影響を検証する。従来,個別の大名あるいは藩ごとに取り組まれてきたが,広く東北地域全般を射程に入れ,近世国家に包摂される過程を通じて,固有の地域史像を描くことを目指している。 以上のような問題関心に基づいて,本論文は,序論「鷹をめぐる北の大名論」,第一部「北日本における近世領主権力の成立」,第二部「徳川政権下における東北大名の動向-幕府・蝦夷地との関係を中心に-」,第三部「津軽十三湊から見た中世より近世への転換-十三湊をめぐる諸問題-」,結論「近世国家の形成と東北大名」で構成した。 豊臣政権は,天正18年の奥羽日の本仕置において,「国家の東の果て」すなわち中世以来,異域や境界領域として認識されてきた北奥・蝦夷島へ支配の枠組みを拡大した。それは関東奥惣無事令に見られる「秀吉による平和」の全国的な敷衍であり,同政権にとって五畿内同前体制の完成でもあった。そこでは国人や民衆による熾烈な抵抗運動が展開されたが、これら一揆の鎮圧に成功すると同政権は,出羽国秋田と陸奥国津軽に太閤蔵入地を設置した。これは朝鮮出兵が目前に迫っていた同政権にとって,国家的な要請に基づくものであった。 まず大安宅の建造や伏見城築城のために秋田の豊富な杉板が伐採され上方へ廻漕された。次に津軽の名鷹の確保である。秀吉が,朝鮮侵略に先だつ天正19年に大鷹野を催したことは広く知られている。肥前名護屋への大がかりな動員を企図していた同政権にとって,全国から名鷹を集中させることは動員体制を確認することであり,名鷹は政権の武威を燦然と輝かす道具立てとしても,是非とも必要であった。津軽の名鷹に着目した豊臣政権は,島津氏へ九州の日向鷹巣保護を命じたのと同様に,津軽氏へ津軽の鷹の厳重な保護と売買の禁止を厳命している。津軽から上方への鷹輸送にも,同地に設置した太閤蔵入地の蔵米を充当したと考えてよかろう。 奥羽日の本仕置は,朝鮮侵略を間近に控えた豊臣政権にとって,国家の領域を確定し,その枠組みを固めて大名の軍勢を総動員する態勢を,確たるものにする方針のもとに実施された。朝鮮侵略の直前の天正19年12月から翌文禄元年(1592)2月にかけての「足弱衆」上洛は,津軽・外浜に至る全国的な人質の徴収であり,大名を動員するにあたり裏切りを防ぐ最も効果的な手段でもあり,かつ不可欠の方針であった。したがって人質徴収は,城破りなどの方針に比べて厳しく実施された。地方領主のレベルでも城に人質をとって民衆の反乱や抵抗を未然に防ごうとしたと言われており,人質徴収は,同政権が進める侵略の過程で全国的な規模で,重層的に行われたようだ。 天正19年の九戸一揆への出陣,文禄元年の肥前名護屋への出陣,平時における伏見への参勤,下付された伏見の大名屋敷での生活など,全国統一の最終段階で組み入れられた東北大名も,他地域の大名と同様に各種の軍役負担を強いられた。同政権が企図した五畿内同前体制は東北大名へも貫徹したのである。 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを経て,徳川氏は江戸幕府を設立し,幕藩体制の成立に向けて大名・公家などを統制し,全国政権としての支配体制を敷いた。豊臣政権の関東奥惣無事令に見られる「秀吉による平和」との比較で考えてみた場合,「徳川氏による平和」とは,元和元年(1615)豊臣氏を滅亡させ,国内に反徳川勢力が消滅した後に到来した「元和偃武」に,その本質が的確に表れているとみてよかろう。 出羽国久保田藩主の佐竹義宣が収集した情報によれば,それは領国内の支城の破却(一国一城の制),諸国鉄炮の徴収と鉄砲鍛冶の把握(武器の掌握ないし廃棄,刀狩りの徹底化),諸国国絵図の徴収であった。城破りは,すでに打ちだされていた方針であり,不要の城と簡要の城とを区別して破却を命じたものである。江戸幕府では,基本的に領国内一城を原則とし,その徹底度は西国大名が顕著であったが,東北地方へも幕閣の内意という形で各方針は伝達された。これらの方針は,武家諸法度にも受け継がれ,鉄炮に関しては,五代将軍綱吉政権の諸国鉄炮改めへと継受されたと考えられる。東北大名は幕府の方針への対応を余儀なくされ,「徳川氏による平和」は東北地方にも徹底したといえよう。 統一政権と蝦夷地との関係を見てみよう。豊臣政権は,奥羽日の本仕置の過程で,蝦夷島をその版図に組み入れたが,それは松前・蝦夷地,日本における北方世界を近世の国家領域に包括することであった。 豊臣政権は朝鮮侵略に先立って大名の動員体制を確保し,政権の武威を燦然と輝かせる道具立てとして全国から名鷹を集中させたが,統一政権での武威や御威光の問題は,豊臣氏のみに関わるものではなく,徳川氏によっても同様であったはずである。むしろ徳川氏には,豊臣氏のようなむき出しの武威ではなく,御威光というさらに抽象化された権威が必要とされたのではなかろうか。初期徳川政権や幕藩領主にとって鷹儀礼が確立しつつある時代状況下,松前・蝦夷地の名鷹は特別の魅力をもつものであった。松前・蝦夷地から献上された「公方様之御鷹」は,朝鮮半島から移入された朝鮮鷹に匹敵するグレイドをもち,献上道中の費用は公的に支給され,松前氏の参勤と同格であった。そのため幕藩体制は,松前・蝦夷地を国家に組み込む一方で,不可欠の存在として同地を位置づけた。と同時に幕府は松前・蝦夷地の再生産を保障する必要に迫られ,隣接する北奥や北羽の大名に,その役務を負わせることとした。平時には松前へ米穀・食料を補給し,「公方様之御鷹」を献上する道中の賄いと夫・伝馬の負担を担うものであった。一方,寛文9年(1669)の蝦夷蜂起事件の時に見られるような非常時には,弘前藩や盛岡藩が同地への出兵を義務づけられ,それによって醸成された「北狄の押さえ」という概念に自己認識を規定するようになった。 近世国家は,もはや蝦夷地・北方世界なくしては国家としての有機的な成り立ちはありえず,この地域の再生産を補完する責務を北東北の大名へ負わせたのである。鷹に関しては,寛文蝦夷蜂起事件によって松前・蝦夷地での鷹の捕獲と献上が不可能となった時,全国的な鷹の需要に応じて津軽鷹が供給を満たしたのもその一例である。この時の津軽からの鷹供給は一時的なものに終わり,綱吉政権下の生類憐れみの令では松前・蝦夷地・津軽からも鷹献上が停止された。しかし八代将軍吉宗が復古主義を掲げ,尚武の気運を再建する必要に迫られて幕臣を鷹狩りに動員し,大名からの鷹献上を再開させたことを考えると,鷹は近世国家の政治動向と密接な関係を有していたといえよう。 近世国家と東北大名の動向が以上のようなものであったとすると,中世から近世国家への国家体制の移行は,地域へどのような影響を及ぼすかという視点で,津軽十三湊を取り上げた。十三湊は,いかなる歴史的性格の変更を迫られたのであろうか。 中世では北方世界へ開かれた国際貿易港という存在であった十三湊も,近世ではあくまでも弘前藩の一湊として,かつ日本海海運の寄港地として,青森檜(ヒバ材)の積み出し湊,弘前藩城米廻漕の岩木川舟運の中継地点として,幕藩体制が崩壊するまでその役割を果たした。ここに中世十三湊と近世十三湊の根本的相違が認められよう。十三湊から近世国家を眺めた場合,鎖国制下の国内市場の分業体制のなかに組み込まれ,国家の市場構造に規定された湊として存続し,日本海沿岸にある他の藩領の湊の性格を著しく逸脱するような存在を許さない体制であったといえよう。中世とは異なる近世国家の集権的な論理が貫いているのである。 本州北端の当該の地域は松前・蝦夷地と密接な関係を有し,近世国家と北方世界をつなぐ結節点として,重要な役割を果たしていたことは間違いなかろう。鷹,米,材木などは,いずれをとっても蝦夷地・北方世界と東北地方との双方向からする深い関連を持つ品々であり,成立期はもとより近世国家の各段階で不可欠な物資であったことは、本論文中で明確にしたところである。近世国家は不可欠な物資をもたらす地域と,ある時は国家的な要請に基づいて調達される品々を産する地域を,国家の中に欠くべからざる版図として組み込んで成立し,地域の領主権力を編成して幕藩体制による近世国家を形成したのであった。 |