学位論文要旨



No 214102
著者(漢字) 田中,浩二
著者(英字)
著者(カナ) タナカ,コウジ
標題(和) 抗高脂血症薬(Clofibrate,Clofibric Acid)投与ラットの肝細胞動態に関する研究
標題(洋)
報告番号 214102
報告番号 乙14102
学位授与日 1999.01.11
学位種別 論文博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 第14102号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 土井,邦雄
 東京大学 教授 唐木,英明
 東京大学 教授 小野,憲一郎
 東京大学 助教授 中山,裕之
 (財)残留濃薬研究所 毒性部長 真板,敬三
内容要旨

 細胞の増殖は個体の発生、分化および発育に必要であるばかりでなく、成体においても生命維持に不可欠の生命現象である。しかし、本来生体にとって有益であるはずの細胞増殖が逆に生体に有害な影響を及ぼすことがあり、その例として、細胞の増殖活性と腫瘍発生率の間にみられる正の相関が挙げられる。正常状態における細胞の増殖過程は見事に統御されているが、化学物質によっても細胞増殖が引き起こされることがあり、これには大きく分けて二種類の様式がある。その一つは、化学物質が組織を破壊した後に生じる修復性の細胞増殖(Reparative Hyperplasia)で、増殖の程度は傷害の程度と組織の再生力によって左右される。一方、もう一つの化学物質による細胞増殖様式では組織の破壊を伴わない(Replicative Hyperplasia)。また、増殖の程度は化学物質のmitogenとしての作用の強さおよびその暴露量に依存する。このように、化学物質本来の薬理効果として細胞増殖作用を持たないにもかかわらず、ある種の細胞に対してmitogenとして働く化学物質も少なくなく、化学物質による重大な環境汚染あるいは医薬品の重篤な副作用の原因となり得る。

 これらの背景のもとに、本研究では、DNA傷害を惹起しない化学発癌物質(Non-Genotoxic Chemical Carcinogen)で引き起こされる発癌作用と細胞増殖との関係について検索するために、抗高脂血症薬であるClofibrateおよびその活性代謝物であるClofibric Acidを用いて一連の実験を実施した。Clofibrateは遺伝子毒性を持たず、かつ、ラットの長期癌原性試験で肝腫瘍誘発作用が報告されている。また、Clofibrateはげっ歯類の肝にperoxisomeを増生させることが知られており、いわゆるPeroxisome Proliferatorと呼ばれている化合物群に属する代表的なNon-Genotoxic Chemical Carcinogenの一つである。

 第1章では、Clofibrateを12週齢の雌雄ラットに1500、4500および肝に腫瘍が誘発される9000ppmの濃度で13週間にわたり混餌投与し、Clofibrateの肝細胞傷害性を検査するとともに、肝細胞におけるperoxisomeの増生、肝細胞増殖の程度とその様式ならびにperoxisome増生と肝細胞増殖との関連について検索した。なお、peroxisomeの増生はFatty acyl CoA oxidaseの定量および電子顕微鏡写真を用いたPoint Counting法により検索し、また、肝細胞増殖についてはBrdUを浸透圧ミニポンプで1週間持続投与することにより、肝細胞2000個あたりのS期肝細胞率(Labeling index:%Ll)を求めた他、肝のStereologyにより、肝全体での肝細胞増殖数も合わせて算出した。

 その結果、投与1ならびに13週目ともに、peroxisomeが主に肝小葉のZone3で増生し、肝細胞が肥大した。一方、肝細胞の増殖動態については、投与1週目には肝細胞の著しい増殖が主に肝小葉のZone1に観察されたが、肝細胞の傷害性を疑わせる所見が認められなかったことから、この増殖はいわゆるReplicative Hyperplasiaによるものと考えられた。しかし、投与13週目では、肝細胞の%Llは逆に著しく低下し、投与1週目に比べて低値を示したのみならず、対照群の値をも下回った。さらに、肝全体におけるS期肝細胞の絶対数も対照群以下となった。

 このように、肝細胞の増殖が惹起されたものの、この現象はClofibrateの投与初期に限られた一過性のものであることから、Clofibrateによって誘発される肝腫瘍は、当初推測されていたような肝細胞増殖作用に起因したものとは考え難い成績が得られた。また、投与13週目に肝細胞の%Llが低下した要因として、Clofibrateが肝細胞の増殖に対して抑制的に作用した可能性が考えられた。この肝細胞に対するDNA合成抑制作用は、化学物質によって誘発される多段階肝癌発生モデルでも示唆されている。すなわち、多段階肝癌発生モデルはinitiation、promotionおよびprogressionの3段階で構成されているが、このうちのpromotion作用を説明するいくつかの仮説のうちの一つとして、「differential mitoinhibition」の概念が提唱されている。「differential mitoinhibition」とは、肝に癌原性物質を投与すると、正常の肝細胞に対してはその増殖を抑制する方向に働きかける作用があるが、既にinitiationを受けた肝細胞はこの「増殖抑制作用」に対して「resistant」であるために、何らかの増殖刺激があれば容易にDNA合成を開始することが出来るというものである。この一見逆説的にも思える仮説を裏付ける事実として、実際に癌原性を有する数多くの化学物質が、正常細胞の増殖あるいはDNA合成を抑制することが知られており、Clofibrateもこれらの化学物質と同様に肝細胞増殖抑制作用を有するものと思われた。従って、Clofibrateによる肝腫瘍誘発と肝細胞増殖との関連は必ずしも単純なものではなく、むしろClofibrateの長期投与によって現れる肝細胞の増殖に対する抑制効果が、ラットの加齢に伴って増加する内因性変異原性物質によってinitiationされた肝細胞にpromoterとして作用している可能性が考えられた。

 ところが、Clofibrateが内因性の変異原性物質によってDNAに傷害を受けた細胞、すなわちinitiationされた細胞にpromoterとして働いているのであるならば、第1章の若齢ラットを用いた試験で認められた肝細胞動態と同じ現象が加齢ラットにおいても生じる必要がある。従って、第2章では、加齢ラットを用いてその肝細胞動態を確認することを目的として試験を行い、特に長期投与によって肝細胞の増殖抑制効果が現れるかどうかに注目した。なお、第2章からは被検化合物をClofibrateに代えて、その生理活性代謝物であるClofibric Acidを用いることにした。

 Clofibric Acidを1500、4500および9000ppmの濃度で60週齢の雌性ラットに混餌投与した結果、Clofibric Acidは加齢ラットに対しても若齢ラットと同様な肝細胞動態を誘発した。すなわち、短期投与では著しい肝細胞増殖を惹起するものの、この現象は一過性のもので、長期投与した際には、S期肝細胞の絶対数が低下し、増殖抑制効果が認められた。この肝細胞増殖抑制効果は用量に依存して発現したが、特に肝腫瘍が誘発される9000ppm群で明らかであった。

 これまでの試験成績から、Clofibric Acidが肝細胞増殖抑制効果を有することが明らかとなったが、第3章では、Clofibric Acidを投与したラットの肝細胞が、肝細胞の増殖刺激因子の一つであるEpidermal Growth Factor(EGF)に対してどのような反応を示すかを、肝細胞培養系を用いてex vivoで検索した。また、EGF以外の肝細胞増殖因子の関与について検索するために、Clofibric Acidを投与したラットに2/3部分肝切除術を施した場合の肝細胞動態を、in vivoで検索した。すなわち、ex vivo試験として、Clofibric Acidを9000ppmで雌性ラットに混餌投与4日目ならびに1、2、5、9および13週目に肝細胞を分離培養し、EGF添加によるDNA合成の有無を検査した。また、in vivo試験では、9000ppmで雌性ラットに混餌投与13週目に2/3部分肝切除術を施し、その24時間後にS期肝細胞数を求めた。

 その結果、ex vivo試験のEGFを添加した培養系におけるClofibric Acid投与群の肝細胞Ll%は投与4日目ですでに対照群に比べて有意な低下を示した。このLl%の低下は投与期間が長くなるにしたがってより明らかとなり、投与13週目では対照群が34%であったが、Clofibric Acid投与群では3%にとどまった。また、in vivo試験では、肝切除術24時間後の対照群におけるLl%は、Zone1で36%、また、Zone3で7%であったのに対し、Clofibric Acid投与群では、Zone1で13%、また、Zone3では1%にまで低下した。

 このように、Clofibric Acidが肝細胞のEGFあるいはその他の肝細胞増殖因子に対する反応を減弱させることによって肝細胞の増殖を阻害することが明らかとなり、この成績は、Clofibric Acidが「differential mitoinhibition」の環境を作り出していることをさらに強く支持するものと考えられた。

 EGFは肝細胞膜に存在する受容体を介して刺激を伝達することにより、その生理作用を発揮する。そこで、第4章では、Clofibric Acidの投与がラットの肝細胞のEGF受容体系をどのように修飾し、肝細胞の増殖を抑制しているのかを生化学的に検索した。

 この試験では、Clofibric Acidを9000ppmの濃度で雌性ラットに混餌投与し、1週目ならびに13週目に肝細胞膜を分離し、[125|]EGFの肝細胞膜EGF受容体に対する結合力を検索した。その結果、Kd値については、投与1ならびに13週目ともに高親和性および低親和性受容体に変動は認められず、従ってClofibric Acidは受容体の親和性には影響を及ぼさないものと考えられた。一方、Bmax値はClofibric Acid投与群で高親和性および低親和性受容体ともに明らかに低下し、この変化は投与1週目よりも投与13週目で顕著になった。

 これらの所見は、前章までの試験で観察された肝細胞動態の変動を裏付けるものであり、Clofibric Acidは投与期間の延長とともにEGF受容体のdown regulationを生じることによって肝細胞のEGFに対する反応を減弱させ、その結果としてS期肝細胞の相対数ならびに絶対数が減少したものと考えられた。

 以上、Non-Genotoxic Chemical CarcinogenであるClofibrateは、肝腫瘍誘発量の9000ppmでラットに短期混餌投与すると、肝細胞に著しいReplicative Hyperplasiaを惹起したが、長期投与した場合には逆に肝細胞の増殖を抑制した。従って、Clofibrateの肝細胞増殖作用は肝腫瘍誘発の主な要因ではないと判断された。また、ClofibrateがPromoterとして肝腫瘍発生に関わっていることが推測されるが、その作用機序として、ClofibrateがEGF受容体系に作用した結果生じる肝細胞の増殖抑制効果により、Farberらが提唱する「Differential Mitoinhibition」、すなわち腫瘍発育の「環境」が形成されていることが考えられた。

審査要旨

 化学物質による細胞増殖には大きく分けて二種類の様式がある。一つは、化学物質が組織を破壊した後に生じる修復性の細胞増殖(Reparative Hyperplasia)で、細胞増殖の程度は傷害の程度と組織の再生力によって左右される。もう一つはDNA傷害を介した直接的なmitogen作用によるもの(Replicative Hyperplasia)で、組織の破壊を伴なわず、細胞増殖の程度は化学物質の強さおよびその暴露量に依存する。前者のように化学物質本来の薬理効果として細胞増殖作用を持たないにもかかわらず、ある種の細胞に対して増殖活性を有する物質も少なくなく、化学物質による環境汚染あるいは医薬品の重篤な副作用の原因となっている。申請者は、遺伝子毒性を持たないにもかかわらず、肝腫瘍誘発作用が報告されているClofibrateおよびその活性代謝物であるClofibric Acid(CA)を用いて一連の実験を実施し、DNA傷害を惹起しない化学発癌物質(Non-Genotoxic Chemical Carcinogen)の発癌作用と細胞増殖との関係を明らかにした。

 第1章では、12週齢のラットにClofibrateを13週間にわたり混餌投与し、肝細胞増殖の程度を検索した。肝細胞増殖についてはBrdU法より、肝細胞2000個あたりのS期肝細胞率を求めた。その結果、投与1週目には肝細胞の著しい増殖が主に肝小葉のZone1に観察されたが、肝細胞に傷害は認められず、Replicative Hyperplasiaによるものと考えられた。しかし、投与13週目では、肝細胞のS期肝細胞率は逆に著しく低下した。このように、Clofibrate投与によって肝細胞の増殖が惹起されたが、この現象は投与初期の一過性のものであり、投与13週目にはClofibrateは肝細胞の増殖を抑制することが示された。

 Clofibrateが内因性の変異原性物質によってinitiationされた細胞において発癌promoterとして働いているならば、第1章の若齢ラットを用いた試験で認められた肝細胞動態と同じ現象が加齢ラットにおいても生じていると考えられる。第2章では加齢ラットの肝細胞動態を確認する実験を行った。なお、第2章からはClofibrateに代えてCAを用いた。60週齢のラットにCAを混餌投与したところ、若齢ラットと同様な肝細胞動態が観察された。すなわち、投与初期に一過性著しい肝細胞増殖を惹起したが、長期投与では顕著な増殖抑制効果が認められた。

 これまでの試験成績から、ClofibrateおよびCAが肝細胞増殖抑制効果を有することが明らかとなったが、第3章では、CAを投与したラットの肝細胞が、肝細胞増殖刺激因子の一つであるEpidermal Growth Factor(EGF)に対してどのような反応を示すかを肝細胞培養系を用いてex vivoで検索した。また、CAを投与したラットに2/3部分肝切除術を施し肝細胞動態を検索した。その結果、EGF添加培養系におけるCA投与群のS期肝細胞率は投与4日目以降13週目に至るまで対照群に比べて有意に低下した。また、肝切除24時間後のS期肝細胞率もCA投与群で有意に低下した。したがって、CAの肝細胞増殖抑制作用はEGFに対する肝細胞の反応の減弱であることが明らかとなった。

 EGFは肝細胞膜の受容体に結合して刺激を伝達し、生理作用を発揮する。第4章では、CA投与による肝細胞EGF受容体の変化を生化学的に検索した。ラットにCAを混餌投与し、1および13週目に肝細胞膜を分離し、[125I]EGFの肝細胞膜EGF受容体への結合を調べた。その結果、1、13週目ともに高親和性および低親和性受容体のKd値に変動は認められず、CAは受容体の親和性には影響しないと考えられた。一方、Bmax値は高親和性および低親和性受容体ともに低下し、1週目よりも13週目で顕著であった。これらの所見は、前章までの実験で観察された肝細胞動態の変動を裏付けており、CAはEGF受容体のdown regulationによって肝細胞のEGFに対する反応を減弱させ、その結果S期肝細胞率が減少したものと考えられた。

 以上の結果から、Non-Genotoxic Chemical CarcinogenであるClofibrateおよびCAは肝腫瘍発生においてPromoter作用を有することが明らかになった。この作用はEGF受容体のdown regulationによる肝細胞の増殖抑制、すなわち、内因性のinitiationを受けた細胞が腫瘍へと発育する「環境」(Farberらが提唱する「Differential Mitoinhibition」)の形成であると考えられた。本研究の成果は、promotor作用を有する環境汚染物質あるいは医薬品の発癌機構の研究進展に大きく寄与するものである。したがって、審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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