I 序論 ラウスサルコーマウィルス(RSV)は1911年にPeyton Rousによって発見されたトリのレトロウィルスである。RSVは最初に発見された癌ウィルスであり、その発見以来極めて幅広く研究されてきた。その研究からは逆転写酵素(reversetranscriptase)、プロウィルス、発癌遺伝子(c-onc)といったそれまでの医学生物学の概念を一変させる発見が生まれている。また、近年ではレトロウィルスのプロトタイプとしてAIDSの原因ウィルスHIV(ヒト免疫不全ウィルス)の研究に大きく貢献している。
tdPH2010ウィルスはRSVの一系統であるSchmmidt-Ruppin subgroup A(NY)株[SRA(NY)株]の形質転換温度感受性変異株tsNY68が感染したニワトリ繊維芽細胞から1983年に分離された形質転換欠失変異株である。tdPH2010は以下のような特徴を持っている。
(1) tdPH2010のMA(p19gag)タンパクはSDS-PAGE法で電気泳動するとtsNY68およびその他のRSVのMAよりも分子量にして約500 daltonに相当する距離だけ速く移動する。
(2) tdPH2010が感染したニワトリ繊維芽細胞の増殖が非感染細胞や他の形質転換欠失変異株の感染細胞と比較して約50%抑制される。
これらはいずれもこれまでに記述されていない現象である。特に(2)はtdPH2010が一般に細胞障害性を持たないとされているサブグループAに属することから、そのメカニズムに興味が持たれる。
本研究はtdPH2010の上記ふたつの表現形の原因を究明することを目的として始められた。
II 方法、結果と考察(1)p19gag(MA)タンパクの研究 tdPH2010のMAタンパクのSDS-PAGE上での挙動から、MA遺伝子中に約500dalton分のアミノ酸に相当する欠損の存在が予想された。そこでまずtdPH2010とtsNY68のMA遺伝子部分の塩基配列を決定した。塩基配列はウィルス粒子から精製したゲノムRNAからdideoxy termination法で直接読み取った。また、それだけで確定できなかった塩基は感染細胞から酸フェノール法で抽出した閉環状プロウィルスDNAからMA遺伝子を含むウィルスDNA断片をCharon16ベクターにクローニングし、Maxam-Gilbert法で確認した。
tdPH2010とtsNY68のMA遺伝子の塩基配列を比較により、tdPH2010のMA遺伝子中には一か所点突然変異(G755A)が存在することがわかった。その結果予想されるアミノ酸配列に置換(E126K)が生じることがわかった。
このアミノ酸置換を持つMAタンパクのSDS-PAGE上での挙動と感染細胞の増殖に対する影響を調べるため、あらかじめsrc遺伝子を除いて形質転換欠失変異株にしたSRA(SF)株のMA遺伝子の755位を含むDNA断片を相当するtdPH2010のものと交換したウィルス(Construct#10)を作製した。Construct#10とコントロールとして作製した、SRA(SF)株のMA遺伝子を持つウィルス(Construct#12)の唯一の塩基配列上の違いは755位がConstruct#10ではGであるのに対してConstruct#12ではAであることであり、それ以外はまったく同一である。
点突然変異導入ウィルスのMAタンパクをSDS-PAGEで解析したところtdPH2010のMAと同じ位置に泳動した。よって、tdPH2010のMAのSDS-PAGE上での他のRSVのMAよりも速い移動度は点突然変異(G755A)によって生じるアミノ酸置換(E126K)が原因であると結論した。
アミノ酸置換(E126K)は電荷の変化を伴う。この電荷の変化が電気泳動移動度に及ぼす影響を調べるため、あらかじめMAを酸性メタノールでエステル化することでEとDの電荷を打ち消した後、SDS-PAGEで解析した。エステル化後はすべてのウィルスのMAの移動度は同じになった。よって、tdPH2010のMAの電気泳動度の異常の原因はアミノ酸置換(E126K)による電荷の変化であると結論した。
点突然変異導入ウィルスをニワトリ繊維芽細胞に感染させたが、細胞の増殖は非感染細胞と同じであった。よって、点突然変異(G755A)は感染細胞の増殖には影響しないと結論した。
ただし、点突然変異導入ウィルスを感染させた細胞から培養上清に放出されるウィルスの量は、逆転写酵素の活性、コアタンパク(p27gag)の量どちらで測定しても点突然変異の無いウィルスの約50%に低下していることがわかった。よって、126位のグルタミン酸(E)はウィルス粒子の感染細胞からの効率的な放出に重要であると結論した。
(2)gp85(SU)タンパクの研究 トリレトロウィルスの場合一般的に細胞障害性はそのenvelope表面タンパク(SU)によることが知られている。そこでtdPH2010感染細胞の増殖の抑制がtdPH2010に特異的なSUによる可能性を検討した。
まず感染細胞のゲノムに挿入されているtdPH2010、tdPH2013とtsNY68のゲノムをZAPIIベクターを用いてクローニングした。次に、それぞれのenv遺伝子の塩基配列をdideoxy termination法で決定し比較した。tdPH2010とtsNY68のenv遺伝子の塩基配列は同一であった。よって、env遺伝子はtdPH2010ウィルスの感染細胞の分裂抑制には関与しないと結論した。
ただし、他のRSV類縁ウィルスの既知のenv遺伝子と比較してみたところ、tdPH2010とtsNY68のSU遺伝子はこれまでに知られているサブグループAのSU遺伝子のどれにも属さないホストレンジ決定領域を持った全く新しいSU遺伝子であることがわかった。
(3)src遺伝子の研究 src遺伝子はシグナル伝達系に関与する癌遺伝子であり、いくつかのドメインからなる。tdPH2010は形質転換欠失株であるが、もしsrc遺伝子が完全に欠失しないでコーディング領域の一部が残っていると感染細胞のシグナル伝達系に影響してその結果増殖を抑制する可能性がある。よって、上記のウィルスクローンのsrc周辺領域の塩基配列を決定し比較した。
tdPH2010からはsrc遺伝子は前後のnon-coding sequenceも含めて完全に欠除していることがわかった。よって、src遺伝子はtdPH2010ウィルス感染細胞の分裂抑制には関与しないと結論した。
(4)LTRの研究 これまでの研究で、感染細胞の増殖抑制に関与する可能性があると考えられる遺伝子はすべて解析を終えたが、どれも増殖抑制には関与していないことがわかった。そこで、増殖抑制表現形がtdPH2010ウィルスの一部分に局限されるかどうかを調べるため、tdPH2010とコントロールウィルスの間でchimeraを作製し増殖抑制との相関を見ることにした。
コントロールウィルスBSUはwtSRA(NY)からsrc遺伝子前後のdr1配列中にあるBsu36I位でsrc遺伝子全体を切除して作製した。BSUのdr1-poly purine tract(PPT)-LTR領域はtdPH2010とまったく同じ構造を持つ。BSUをニワトリ繊維芽細胞に感染させたが、細胞の増殖は非感染細胞と同じであった。
Chimeraは三種類作製した。BSTはtdPH2010のgag-pol領域をBSUの同領域で置き換えたもの、STUは同様にtdPH2010のpol-env領域をBSUの同領域で置き換えたものである。最後のNMはtdPH2010ゲノム両端のLTRを含む領域をBSUの相当する部分で置換したものである。
上記三種のchimeraウィルスをニワトリ繊維芽細胞に感染させたところ、BSTとSTUは増殖を抑制したがNMは抑制しなかった。よって、増殖抑制表現形はtdPH2010のLTR領域に局限される。
そこで、tdPH2010、tdPH2013とtsNY68のLTR領域の塩基配列を決定し比較した。その結果、tdPH2010は-126位と-23位に点突然変異(G-126T,G-23A)を持つことが分かった。tdPH2013とtsNY68の同領域の塩基配列は同一であった。これら点突然変異の位置は-126位がPRE(pentanucleotiderepeatelement)と呼ばれる転写因子結合部位の中に、また-23位がTATA boxの下流隣にあった。現在データベース中にある20種類以上のRSV類縁ウィルスの同領域と比較したところ、両部位はすべてのウィルスで完全に保存されていることが分かった。この事実はtdPH2010中の点突然変異が極めて重要な位置に起きたことを示唆する。
上記二つの点突然変異がどのようにtdPH2010の増殖抑制表現形に関与しているかを検討するためSite-directedMutagenesis法によりこれらtdPH2010に特異的な点突然変異をコントロールウィルスBSUのLTRに一方のみあるいは両方同時に導入し、できたウィルスの感染細胞増殖に対する影響を観察した。
増殖抑制は二つの点突然変異が同時に存在するときのみに見られ、どちらか一方のみが存在するときは増殖にはまったく影響が無かった。よって、tdPH2010ウィルスLTRのU3領域に存在する二つの点突然変異が感染細胞の分裂抑制の原因であり、分裂抑制のためには二つの点突然変異が同時に存在しなければならないと結論した。