日本は世界屈指の地震国である。過去において幾多の巨大地震を経験し、得られた教訓と最新の科学技術を織り交ぜながら、先人たちが世界に誇れる耐震構造を創出してきた。耐震構造の第一目標は人命の安全を確保することであり、近年の耐震規定はその目標をほぼ達成できるものとなってきている。一方、社会・経済情勢の変化と科学技術の更なる発展に伴い、社会が建築物に対し種々に多様化しかつ高度の耐震性能を求めるようになってきている。大地震時に建築物の応答を減じ、柱、梁よりなる主体構造を健全な状態に保つことができれば、地震後において大規模な補修・補強は不要となり、居住者は初期建設費以外の高額な補修費負担に対する不安から開放される。このような建築物を実現するには、地震入力を低減する方法と十分なエネルギー消費性能を柱や梁以外の部材に付与する方法がある。前者を代表するのが免震構造でり、後者の方法は本論文で研究対象とする地震応答制御構造である。 この地震応答制御構造において重要な役割を果たすのが、エネルギー消費部材、即ち"ダンパー"である。現実的、実用的な観点から上記の耐震性能要求を満足するには、主体構造である柱や梁が降伏する以前の比較的小さな層間変位時に大きなエネルギー消費性能を発揮できるダンパーを、建築物内に適度に配することが重要となる。本論文で示す"パネルダンパー"は、降伏点が約100N/mm2の"極低降伏点鋼"を使用したせん断パネル形式の履歴型ダンパーであり、良好なエネルギー消費性能を有している。 本論文は、全8章から構成されている。第1章「序論」では、本研究の目的と位置づけを示している。第2章「履歴型鋼材ダンパーに関する既往の研究」では、近年における履歴型鋼材ダンパーに関する既往の研究状況を概観し、本研究の位置づけを再確認している。 第3章「パネルダンパーの静的履歴特性と性能評価」では、16体の試験体を用いた静的せん断加力実験に基づき、パネルダンパーの性能評価を行った。主要な履歴特性(履歴性能指標)は、降伏せん断耐力、最大せん断耐力、変形能力、および復元力特性である。本論文では、設計で保証する変形能力を規定するため"性能保証限界変位"を定義している。この性能保証変位は、繰返し変位の増大に伴い発生する明瞭なせん断座屈を原因として、履歴曲線上に初めて凹状の耐力低下域を生じる直前の接線勾配がゼロとなる変位点であり、累積値で表している。また、パネルダンパーは繰返し履歴を受けると明瞭な耐力上昇を示し、特に幅厚比が小さい場合には、その最大せん断耐力が鋼材の引張強さから推定される耐力値よりも明瞭に増加する特性を有している。性能保証変位と最大せん断耐力を精度良く予測できれば、地震応答制御構造の解析精度が向上する。これら2つの履歴性能指標を評価する変数として下式(1)に示す"換算幅厚比{d/tw}B"を提示した。この変数は、形状より定まる幅厚比を、鋼材の降伏ひずみ(wy/E)と降伏比(wy/wB)により規準化したものである。この変数を用いることにより、変形能力と最大耐力を精度良く推定することができた。また、両履歴性能指標に関する2つの実験経験式を提示した。 また、パネルダンパーの変形能力を向上させるためにはリブ補剛が有効である。リブ補剛付パネルダンパーの性能評価変数として、「パネル板厚と弾性せん断座屈耐力が等しければエネルギー消費能力も等しい」とした仮定に基づいて定義した"等価幅厚比"および式(1)と同形の"換算等価幅厚比"が有用であることも併せて示している。更に復元力特性は、孟・大井・高梨が提案している"スケルトン・シフト・モデル"の適合性が良く、パネルの鋼種が同一のときには、最大せん断耐力と性能保証限界変位を定めるだけで、統一的に復元力モデルが設定できることを確認した。 第4章「軸圧および鋼種の違いがパネルダンパーの静的履歴特性に及ぼす影響」では、2シリーズの静的せん断加力実験結果をもとに検討を行った。降伏点が低いパネル鋼材に及ぼす軸圧の影響を検討した結果、枠フランジのEuler座屈耐力が軸方向の安定性に貢献していることを確認した。また、極低降伏点鋼、降伏点が約235N/mm2の低降伏点鋼、および普通強度鋼のSS400鋼材を用いパネルダンパーの中では、極低降伏点鋼ダンパーが最もエネルギー消費能力に富み、かつ設計への適合性が良いことが明らかとなった。また、鋼種が異なる3つのパネルダンパーの最大せん断耐力と性能保証限界変位の評価は、第3章で提示した実験経験式により精度良く行うことができ、評価変数である換算幅厚比の有用性が再確認された。 第5章「パネルダンパーの動的履歴特性」では、実用実績の多い実大長方形リブ補剛付きパネルダンパーを用い、振動数と振幅および初期温度を変化させた正弦波加振による動的せん断加力実験により、極低降伏点鋼パネルダンパーの動的履歴特性を検討した。パネルダンパーが早いひずみ速度を受けると、降伏耐力が明瞭に上昇することが確認されたが、変形能力、最大耐力はあまり変化しないことも確認された。ひずみ速度の影響は、大変形時のダンパー性能には大きな影響は及ぼさないが、復元力特性の精度向上のためには、適切に考慮される必要がある。 第6章「パネルダンパーを組込んだ平面骨組架構の静的履歴特性」では、3層1スパンの鉄骨造1/4縮尺平面骨組架構の中に、長方形リブ補剛付きパネルダンパーを各層2枚配し、架構への取付け方法(支持部)を3種類変化させて実験を行い、骨組内に組込まれたパネルダンパーの履歴特性について検討した。骨組内に組込まれたパネルダンパーは、支持部の形状、剛性が異なると、ダンパー性能の発揮時期が明瞭に変化し、見かけ上支持部剛性が高いほど履歴減衰性能が増大した。また、大変形に伴って生じる軸縮みが大梁により拘束されるためパネルダンパーには引張力が卓越し、圧縮軸力によるダンパー効果の低減は生じにくいことが確認された。 第7章「パネルダンパーの組込んだ骨組架構の応答制御設計法」では、実用的な観点から、本論文のテーマである極低降伏点鋼パネルダンパーを用いた建築物の地震応答制御設計法を示した。建築物の地震応答制御設計法の基本概念は、地震時における主体構造の健全性をできるだけ確保し地震後の補修を極力無くすることを目標に、パネルダンパーを用いて地震応答を制御することである。応答制御設計においては、下式(2)、(3)に定義する基本的な耐震性能指標である剛性指標()と耐力指標()を用いる。なお、パネルダンパーと支持部を接合した部材を制震部材と呼ぶ。 主要動の継続時間が長く衝撃的振動成分が少ない地震動に対しては、これら2つの耐震性能指標の組み合せにより応答低減効果に最適値が存在する。なお、剛性指標()は、大きいほど応答制御効果は増大するが、現実的には1.0程度以下の値となる。一方、全体架構の応答制御効果の有効性が懸念される衝撃的振動成分を含む地震動に対しては、高層鉄骨造建物の質点系地震応答解析による検証を行った結果、剛性指標()を1.0程度以上に設定して地震力の集中を図り、衝撃的振動成分の少ない地震動に対して得られる最適な耐力指標を割り増すことにより、有効に応答制御効果が得られることを確認した。また、材料の機械的性質や性能評価式のばらつき、ひずみ速度の影響などの変動要因に対しては、設計法の信頼性と動的応答解析の精度向上のため、その評価法と影響度合を提示した。なお経済性も併せて検討し、この本設計法で設計された鉄骨造高層建築物においては、相対的に剛性の低い構造体が形成されるため、構造体の初期コストが従来構造に比して低減できる利点を有していることを確認した。 最後に第8章「結論」では、本研究を総括すると共に、パネルダンパーの履歴特性評価と地震応答制御設計法の適用領域の拡大に関して残された今後の課題を提示した。 |