学位論文要旨



No 214145
著者(漢字) 小泉,喜嗣
著者(英字)
著者(カナ) コイズミ,ヨシツグ
標題(和) 豊後水道東岸域における急潮と植物プランクトンの増殖機構に関する研究
標題(洋)
報告番号 214145
報告番号 乙14145
学位授与日 1999.02.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第14145号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉本,隆成
 東京大学 教授 寺崎,誠
 東京大学 助教授 中田,英昭
 東京大学 助教授 福代,康夫
 東京大学 助教授 古谷,研
内容要旨

 黒潮に面する沿岸の各地で確認されている水温急変現象は急潮と呼ばれ,その発生機構の解明や予知に関する様々な研究が行われてきている。豊後水道東岸域で発生する急潮については,宇和島湾を対象とした長期係留観測に基づいて詳細な検討が加えられ,侵入する暖水の起源は黒潮系水であり,夏季の小潮時に発生すること等から,海水の鉛直混合の強弱が水道内部への暖水の侵入を制約している可能性等が明らかにされている。

 これまでの急潮に関する議論の多くは,定置網の破損や流出,養殖魚介類の斃死の引き金,生け簀の破損等,急潮の負の側面に対する予知を目的として,水温・流速等の物理的視点から行われてきた。急潮は沿岸環境に対して海水交換の促進機能をもつものと推測されるが,そのような正の側面からの研究は殆ど行われておらず,かつ,生物・化学的視点からの急潮研究の事例は極めて少ない。

 そこで,本研究では豊後水道東岸域で発生する急潮について,その発生状況とそれが沿岸環境に与える影響を,物理・化学・生物過程を含めた総合的視点から解明することを試みた。

 得られた成果の概要は以下のとおりである。

1.急潮の発生過程

 1991年から1996年の6年間に実施した豊後水道東岸域の水温連続観測値及びその中央の典型的な内湾漁場である下波湾における過去16年間の水温観測値を用いて,豊後水道東岸域における急潮の発生過程及びその特徴を解析し,以下のことを明らかにした。

 1)豊後水道の南部海域では,急潮は周年発生し,潮汐に同期した周期性は認められない。しかし,豊後水道の奥部への侵入は主に5月〜10月の小潮の時期に限られる。冬季の急潮に伴う暖水侵入の多くが豊後水道の中部海域までに限られ,北部海域までは達しない。

 2)急潮の発生回数は1981,1989,1994,1996年には少なかった。また,近年,発生時期が夏季の短い期間に限られる傾向にある。

 3)規模の大きな急潮は養殖魚類の斃死を誘発し,時には生け簀の沈下等の被害を引き起こす。

2.急潮による海水交換と栄養塩供給の物理的過程

 下波湾を対象とした急潮発生前後の水温・塩分分布構造の時間的変化の観測結果から,急潮に伴う湾内の海水交換過程及びそれに伴う栄養塩類の供給過程について検討し,以下のことを明らかにした。

 1)急潮の発生に伴い,湾口上層より侵入する暖水は湾内の海水を湾外へ流出させる海水交換機能をもつ。続いて湾外起源の低温水が湾内底層より侵入し,底層水の海水交換に重要な役割を演じる。

 2)急潮に伴う上層の暖水侵入に続いて底層から湾内に侵入する低温水によって,珪酸塩を主体とする栄養塩類が湾内に供給される。上層の栄養塩濃度が低下した夏季でも,この水温の低下と連動してクロロフィルa濃度が急激に増加するのは,湾外からの低温水の侵入によって栄養塩類が湾内に供給されるためである。

 3)侵入する低温水の起源は陸棚縁近傍で湧昇した陸棚斜面水である。この低温水の水道内部底層への侵入は,上層の暖水侵入とともに豊後水道の海洋構造に大きな影響を与える。

 4)1回の急潮で底層から豊後水道内部に侵入する栄養塩類は,観測からDIN2,700トン,PO4-P500トン,シリカ7,000トンと推定され,これらの値は陸域からの供給量に比べて著しく大きい。

3.急潮による珪藻類休眠期細胞の発芽・増殖と赤潮発生機構

 休眠期細胞の発芽に必要な光条件及び増殖に必要な栄養塩類供給機構の面から,下波湾における珪藻類の消長及び急潮に伴う物理・化学環境の変化を検討した。また,珪藻類増殖と相反する現象として,Gonyaulax polygramma赤潮発生時の環境特性を整理するとともに,Gymnodinium mikimotoi赤潮を例に,鞭毛藻類の生態的特性である日周鉛直移動について検討し,以下のことを明らかにした。

 1)観測期間中に2回の大規模な急潮が発生したが,急潮後にクロロフィルa濃度及び珪藻類の細胞密度が急激に増加する場合と増加しない場合が認められた。これは急潮後の低温水の侵入による栄養塩類の供給量の違いに起因する。

 2)下波湾の底泥にはChaetoceros spp.を主体とした珪藻類の休眠期細胞が周年にわたって104MPN g-1・wet sedimentを越える密度で存在する。室内実験結果から,発芽後の十分な増殖のために必要な光条件は4.8E/m2/sec以上と推定された。

 3)急潮発生前後の海底表面における光量子量の推移の測定から,急潮に伴う透明度の回復によって,海底表面には休眠期細胞が発芽・増殖するために必要な光条件が満たされるようになることが分かった。

 4)湾内底泥に高密度に存在する休眠期細胞は急潮による暖水侵入によって速やかに発芽・浮上して,急潮後の珪藻類増殖の"初期群"としての役割を果たし,底層からの低温水の侵入によって湾内に供給された栄養塩類を利用して速やかに増殖する。

 5)急潮による海水交換が悪く,競合種である珪藻類の増殖機構が十分機能しなかったことがGonyaulax polygramma赤潮を発生させた原因の一つである。またこの赤潮による魚介類の斃死は,貧酸素及び無酸素水塊の形成とそれに伴って生じた高濃度の硫化物及びアンモニア等の複合的影響による。

 6)Gymnodinium mikimotoi遊泳細胞は"circadian rhythm"により約2.2m/hourの速度で,1日に20m以上を鉛直移動する。このことが,珪藻類との競合において栄養塩類の取り込みを有利にする重要な要素となっている。

 以上,本研究により急潮の発生特性,発生過程,急潮による上層水と底層水の間欠的で顕著な海水交換の機能,さらには,急潮を契機とした休眠細胞の発芽及び底層からの栄養塩類の供給による珪藻類増殖という急潮に伴う一連の生物・化学・物理過程が明らかとなった。また,急潮による珪藻類の増殖機構が機能しなければ,それと相反する現象として鞭毛藻赤潮が形成される可能性のあることが示された。それらの結果,豊後水道東岸域では,急潮によって夏季の珪藻プランクトンの生産が維持され,水質の悪化や有害赤潮の発生が抑制されることによって,天然魚の生産が支えられ,大規模な真珠養殖・魚類養殖を可能にしていることを具体的に実証した。

審査要旨

 近年、遠洋漁業に代わり沿岸海域での作り育てる漁業が推進される中で、魚介類の養殖場における物理および生物生産環境のダイナミックスへの理解を深めることは極めて重要になっている。本論文は、黒潮に面した陸棚・内湾域と沖合域との海水交換に関わる急潮現象の発生過程、透明度・栄養塩濃度の変化に伴う植物プランクトンの増殖および珪藻類と渦鞭毛藻類の卓越種交替の機構を、豊後水道における現場観測と既往観測資料の解析、および室内実験により明らかにしたものである。研究成果の大要は以下の通りである。

1.急潮の発生過程

 豊後水道東岸での過去6年間にわたる水温の連続観測、その中の下波湾定点での過去16年間の水温観測および水温・塩分の鉛直断面の時間的変化の観測に基いて、豊後水道東岸域における急潮の発生・伝播過程を解析し,以下のことを明らかにした。

 1)急潮は湾外からの暖水の侵入によって発生する。豊後水道の南部海域では急潮は周年発生し、潮汐に同期した周期性は認められない。しかし、豊後水道の奥部への侵入は主に5〜10月の小潮の時期に限られ、冬季には北部海域まで達しない。

 2)急潮に伴って水温が急上昇するのに続いて、低温の下層水が侵入する。この低温水の起源は陸棚縁付近で湧昇した陸棚斜面水である。

 3)急潮の発生回数は経年的に変化する。近年は発生回数が減少し、発生時期が夏季の短い期間に限られる傾向にある。

2.急潮による海水交換と栄養塩供給過程

 水温・塩分分布の急潮発生前後の時間的変化の観測に基いて、急潮に伴う湾内の海水交換と栄養塩類の供給過程に関し以下のことを明らかにした。

 1)急潮の発生に伴い、湾口上層より侵入する暖水は湾内の上層および下層の海水を湾外へ流出させる。続いて生じる湾外起源の低温水の底層よりの侵入は、下層水の海水交換に重要な役割を演じる。

 2)底層から侵入する低温水によって、珪酸塩を主体とする栄養塩類が湾内に供給される。上層の栄養塩濃度が低下した夏季でもこの水温の低下と連動してクロロフィルa濃度が急激に増加するのは、湾外からの低温水の侵入によって栄養塩類が湾内に供給されるためである。

 3)1回の急潮で底層から豊後水道内部に供給される栄養塩類の量は、DIN2,700トン、PO4-P500トン、シリカ7,000トンと推定され、陸域からの供給量に比べて著しく大きい。

3.急潮による珪藻類休眠期細胞の発芽・増殖と赤潮の抑制機構

 珪藻類の休眠期細胞の発芽に必要な光条件と、増殖に必要な栄養塩類の供給機構、および鞭毛藻類の日周鉛直移動の検討に基いて、以下のことを明らかにした。

 1)急潮後にクロロフィルa濃度や珪藻類の細胞密度が急増する場合と急増しない場合があるが、これは急潮後の低温水の侵入による栄養塩類の供給量の違いに依存している。

 2)観測によれば底泥にはChaetoceros spp.を主体とした珪藻類の休眠期細胞が周年高密度で存在する。室内実験結果から、その発芽・増殖には4..8E/m2/sec以上の光量が必要と推定され、急潮に伴う透明度の回復によって珪藻類の休眠細胞の発芽に必要な光条件が満たされるようになることがわかった。

 3)暖水侵入によって速やかに発芽・浮上した珪藻類の初期群は、その後底層から湾内に供給された栄養塩類を利用して速やかに増殖する。

 4)その後、上層の栄養塩類が消費され枯渇すると、1日に20m以上を鉛直移動して下層の栄養塩類を取り込む能力のある渦鞭毛藻類が卓越するようになる。しかし、急潮による海水交換が良く、競合種の珪藻類が優占すると、渦鞭毛藻赤潮の発生が抑制される。

 これらの研究成果は、黒潮に面した沿岸海域における養殖場の環境条件に関連する、急潮の発生特性、沖合からの上層水・下層水の侵入に伴う海水交換、珪藻類の増殖といった急潮に伴う一連の生物・化学・物理過程を解明することにおいて、学術上・実用上大きな成果を収めたものと云える。よって、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54100