学位論文要旨



No 214146
著者(漢字) 井川,克彦
著者(英字)
著者(カナ) イカワ,カツヒコ
標題(和) 第一次大戦前における日本養蚕業の発展構造
標題(洋)
報告番号 214146
報告番号 乙14146
学位授与日 1999.02.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第14146号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田中,学
 東京大学 教授 八木,宏典
 東京大学 教授 谷口,信和
 茨城大学 教授 平野,綏
 東京大学 助教授 岩本,純明
内容要旨

 本論文は1900〜1915年における日水養蚕業の展開について、それがどのように日本製糸業の発展に寄与したかという観点から検討するものである。

 第1〜2章は、このようなテーマ設定の研究史的意味についての説明、具体的な留意点・方法の設定に当てられている。

 「第1章繭の買い叩き」。戦前期日本経済において、生糸は外貨を獲得して先進国からの機械・鉄輸入の原資を創出した最も重要な輸出品であった。日本の生糸生産は直接的には製糸業に担われたが、その原料繭のほとんどは国内養蚕農民によって生産された。明治に入って仏・伊国の器械製糸技術を導入した日本は器械製糸場を多数設立して器械製生糸(器械糸)を輸出し、やがて先進の伊国や後進の中国の製糸業との競争を優位に進めて、世界一の絹織物工業国となった米国の需要の大部分を賄った。伊国器械糸に対する日本器械糸の生産費的優越は、製糸女工の低賃金と原料繭コストの小ささにあり、とくに重要なのは生糸生産費の7〜8割を占める後者であった。その要因について通説は「アジア的低賃金」としての農民所得の低位に加えて、製糸家による人為的反市民社会的な繭価格引き下げを強調し、製糸家の「繭の買い叩き」による養蚕農民からの収奪が原料繭コストを小さくし、日本生糸に大きな比較優位を与えたとしている。しかし、繭の廉価を実現し得るもう一つの側面、すなわち養蚕=繭生産の効率の程度やその向上について、通説は大きな空白を残している。

 「第2章養蚕業拡大の論理」。養蚕=繭生産の効率の向上を強調する説もある。1930年に至るまで繭生産の労働生産性が顕著に上昇し、繭生産の実質収入の増加と繭生産の実質コストの低下が実現したとするこの説は、1900〜1915年に現象した繭価格の実質的低下と繭生産量拡大を説明し得る点に大きな魅力がある。しかし、労働のみを生産要素とする繭生産モデルを前提にした議論であり、繭生産の一部をなす栽桑過程における金肥多投による支出増加を考慮していないなどの欠点がある。本論文は、養蚕技術の変化を具体的に追求し、栽桑過程をも包括したより精緻な繭生産費分析を試みることによって、1900〜1915年における繭生産の基本的な特徴である実質的繭価格低下と繭生産量拡大の同時進行を説明することを具体的な課題とする。対象期間をこのように限定する最大の理由は、第一次大戦後の賃金水準上昇が引き起こした労働節約的な養蚕技術変化については諸研究によって豊富なイメージが与えられているからである。

 第3〜7章は、日本養蚕業の展開過程に関する多面的具体的分析に当てられている。

 「第3章秋蚕と兼用桑園」。対象期間の養蚕技術に関する最も重要な変化は、秋蚕・兼用桑園の普及であった。秋蚕用蚕種の開発を前提として、1890〜1910年代に従来春蚕のみを行っていた養蚕農家が次々と秋蚕をも行うようになった。第一次大戦前の育蚕技術については、1889年初発表の西カ原式飼育標準表を範として、1890年代に桑折衷育を採用した技術体系が標準的方法として確立した。秋蚕の育蚕については春蚕の応用で事足りたが、秋蚕のための採桑は桑園荒廃問題を起こしつつ栽桑技術の新展開をもたらした。養蚕農民は経営的配慮から、夏秋蚕専用桑園を作らず、一本の桑樹から春と夏秋に複数回桑葉を収穫する兼用桑園を選択した。日本総体の兼用桑園化は根刈仕立・魯桑種栽培・金肥多投への傾斜を伴いながら桑畑の土地生産性を急増させた。とくに1880年代以降に本格的に賛蚕が普及した西日本諸県ではその傾向が顕著であった。

 「第4章桑畑土地生産性の上昇」。秋蚕普及によって1900〜1915年に年間掃立枚数は1.4倍増えたが、この増加の率は桑畑面積の増加とほぼ等しかった。さらに兼用桑園化に伴い桑畑の全国平均反収は1900〜1990年に倍増した。蚕種1枚当たりの給桑量の著増を主因として、1枚当たりの収繭量は春蚕・秋蚕とも著増したが、それには大きな地域差があり、従来からの大産地である群馬・福島県などでは小さく西日本・愛知県などの新興養蚕県では大きかった。桑畑反収を著増させた栽桑過程の集約化は、労働節約的な金肥の多投を軸とするものであり、労働の追加は軽微であったから、栽桑過程の労働生産性は増加した。給桑量を増加させようという意識は1900年代以降益々深まっていった。

 「第5章西日本蚕糸業の展開」。1900〜1915年に日本の繭生産量は倍増したが、この増加分の半ばは新興養蚕地域によってもたらされた。また、秋蚕普及による掃立枚数増加に加えて、春蚕・秋蚕の1枚当たり収繭量増加も繭増産に大きく寄与した。これらの進展が顕著だった西日本では、より良質な繭が実質的に廉価に生産され、地元の新興製糸業がこれを原料として優等糸を多く生産した。

 「第6章養蚕経営の収益性」。全国約150万戸の養蚕経営は1枚当たり収繭量について極めて大きな偏差をもちながら存在していた。多様な経営を対象とした1916年養蚕経営調査を主とした分析の結論は次の通りである。(1)まだ繭価格が第一次大戦期の高騰を示していない1914年頃、日本の一部には、1枚当たり収繭量の大きい経営や掃立規模が大きく労働生産性の高い経営が確実に存在しており、それらでは(養蚕自家労賃を雇用労賃単価で評価した結果としての)資本主義的な剰余が成立していた。しかし、平均的な養蚕経営の資本主義的な経営収支は赤字であり、このような剰余は成立していなかった。(2)1900〜1915年の平均的な養蚕経営の推移に関する見通しとしては、(名目的)養蚕所得の増加率は(名目的)雇用賃金や一般物価の増加率を下回り、養蚕所得は実質的に低下したと見られる。とくに金肥多投による支出増加が大きな意味をもった。(3)しかし、この間に日本養蚕における秋蚕の比重は高まったから、秋蚕追加が農閑期の労働機会を創出した点を考慮に加えれば、一般的に養蚕の実質的な収益性は増加したと見なせる。(3)の前提には、対象期間には1枚当たりの養蚕労働の投下量があまり増えないのに1枚当たりの収繭量が増えたこと、すなわち養蚕の労働生産性が上昇したことがあった。

 「第7章蚕糸業の展開と地域」。対象期間の器械製糸業には、諏訪を中核とする長野県周辺の普通糸生産と、「西日本」の新興製糸県における優等糸生産を類型とする地域性がある。養蚕業にも、長野・群馬・福島県などの「本場」における厚飼=不良繭生産と、「西日本」の新興養蚕県における薄飼=良繭生産を類型とする地域性がある。1916年養蚕経営調査によれば、農業雇用賃金水準において「本場」は「西日本」よりかなり高い。もし、当時の優等糸生産が他の生産要素に対して労働を多投した結果のものであるなら、製糸・養蚕の地域性は労働価格の高低に対する諸経営の利潤最大化行動から説明できる。本来製糸業の展開は地域内の原料繭生産や労働力供給に大きく制約される性格を持つ。しかし、諏訪への集中・優遇を特徴とした日本の製糸金融は、このような蚕糸業本来の展開構造を歪曲して諏訪器械製糸業を突出的に発展させ、米国市場への適応性という面での国際的な優位を日本製糸業に付与した。

 第8〜10章は、日本養蚕業の展開を規定した外部条件の解明に当てられている。

 「第8章輸入大豆粕と桑畑」。対象期間の桑畑への肥料多投の主役は「満州」からの輸入大豆粕であった。輸入大豆粕は明治半ばまでの主要金肥である北海道産鰊〆粕より格段に廉価であり、生産要素たる肥料の価格低下が桑畑への肥料多投ひいては兼用桑園化を可能にした。輸入大豆粕の廉価性は、中国の大豆生産農民の「低賃金」に本来的根拠を持つが、もし明治・大正初期における汽船海運・鉄道・道路などの輸送手段の整備や北前船主・旧大都市問屋から地方商人・商社への担い手の交代に象徴される肥料流通システムの変革がなければ、日本はこの廉価性を繭生産に利用し得なかった。

 「第9章上海器械製糸業の原料繭」。日本の生糸輸出が世界一となり膨大な外貨を稼ぎえた一因は、廉価な労働力を豊富に持ち本来的に強力なライバルである中国の製糸業の発展が遅滞したからであった。日清戦争を契機に勃興した上海器械製糸業の相対的停滞の大きな要因は原料繭コストにあった。当時の日本人調査を分析した結果、上海器械糸の原料繭の産地価格は、日本のそれの7割前後と目される。上海器械糸原料繭の集荷・乾燥・輸送は郷紳・地主が特権的に設立した繭行(繭問屋)によって担われ、上海器械製糸場は乾繭仲買商が活躍する乾繭市場を介して乾繭を入手した。繭産地価格の数割にも及んだ繭行・乾繭仲買商の中間収奪は原料繭コストを引き上げて上海器械業の発展を阻害した。

 「第10章中国の養蚕業」。中国蚕糸業の本場である江浙地方の養蚕業につき、日本人調査者は、栽桑につき賞賛し、育蚕について酷評した。その桑畑の多くは育蚕を行わない地主によって経営される一方、桑葉市場からの桑葉購入に頼って育蚕を行う貧民が多数おり、取引される桑葉の価格は地主の収奪分を多く含んだ。粗雑な育蚕法や秋蚕種の未開発などの江浙養蚕業停滞の根底には、地主的土地所有による栽桑・育蚕過程の分断が横たわっていた。日本の桑畑の土地生産性は明治中期には江浙本場に劣ったが、兼用桑園化を経た1920年には優越するに至った。中国と比較する時、秋蚕普及・兼用桑園化を技術的な軸とした対象期間の日本養蚕業の発展のもつ自作農的性格に注目すべきであろう。

審査要旨

 生糸は明治以来の日本経済の成長過程において、最大の輸出商品として外貨の獲得に貢献した。日本生糸が世界市場で強い競争力を持ち得た根拠は、製糸女工の低賃金と原料繭の低コストに求められるが、とりわけ生糸生産費において圧倒的な比重を占める後者の役割が大きいとされてきた。また、原料繭の低コストについては「アジア的低賃金」と言われた貧困農民の低所得や、他方では「繭の買い叩き」に象徴される製糸家の養蚕農民に対する収奪の大きさが強調されてきた。それらは一面の事実には違いないにしても、養蚕=繭生産の生産性の変動やコストを規定する諸要因の分析としては明らかに不十分である。

 従来の研究史がこの点を十分に克服しきれなかった原因の一つは、栽桑過程の分析に多くの困難が伴ったためである。しかしながらわが国養蚕業の急速な拡大は、夏秋蚕(とくに秋蚕)技術の確立と、それによる養蚕地帯の拡大(特に西日本諸県への)によるところが大きい。それゆえ、栽桑技術と養蚕業のコスト分析が重要な意義を持つことになる。

 本論文は、このように重要な論点でありながら、従来の研究がほとんど空白のままにしてきた課題に着目し、第一次大戦以前の日本養蚕業の発展構造を、技術・経営の両面から詳細に分析したものである。

 第1-2章では従来の研究史が整理され、上述のような問題点が指摘されている。

 第3章は、本論文の主要課題の一つである秋蚕普及過程での栽桑問題に焦点を当てている。すなわち、秋蚕の育蚕技術はおおむね春蚕のそれの応用で足りたが、桑については春・秋を同一桑園でまかなう兼用桑園化が進んだため桑園荒廃問題がおこり、これが契機となって桑園の土地生産性を高める方向での栽桑技術の開発が進んだのである。

 第4章ではこれを受けて、桑園での土地生産性上昇の具体的様相が実証的に分析されている。桑園生産力の上昇にもっとも貢献したのは金肥(主として大豆粕)の多用であったが、これはむしろ労働節約的な技術であり、繭の原料コストの低さをもっぱら農民労働力の低コストで説明しようとしてきた通説に大きな修正を迫るものといえる。

 第5章では、夏秋蚕普及を量的・質的に牽引した西日本の新興養蚕地帯が分析され、ついで第6章では、全国各地の養蚕経営が比較分析される。この検討作業を通して、第一次大戦による繭価格の高騰が生じる以前に、かなり労働生産性の高い経営が形成されており、資本主義的利潤に匹敵する剰余を実現していたことが明らかにされている。すなわち、従来の研究史が描いた貧困農民の低所得と製糸家による収奪というイメージとは異なる養蚕経営の姿が提示されたのである。もちろんこうした発展的養蚕経営が、当時の養蚕農民一般を代表していたわけではないが、前述した金肥の多用による兼用桑園の土地集約的な栽桑技術なども、こうした発展的養蚕経営によって確立・普及していったことが明らかにされている。夏秋蚕導入と兼用桑園の栽桑技術は、農閑期の追加労働機会を創出することによって、一般農家の経営改善にも大きく貢献したのである。

 第7章では、製糸業との関連で養蚕業の地域性を比較検討している。日本の製糸業の拠点は諏訪を中心とする長野県であった。しかしながら第一次大戦前には西日本地域へ夏秋蚕経営が普及し、こうした新興製糸県では伝統的な製糸地域よりも優れた生糸を供給するようになった。しかし、金融など製糸業をとりまく制度や慣行は長野県など旧来の製糸地帯を中心として組み立てられていたため、新興の製糸業地帯はこの点で大きなハンディキャップを受けざるをえなかった。こうした分析を通して、日本の製糸業において、諏訪器械製糸業が突出的に発展する構造をとった理由が説得的に解明されている。

 第8-10章は、これまでの分析を補強するための外部条件の分析にあてられている。すなわち、上述した輸入大豆粕の調達・流通構造や、日本製糸業のライバルであった中国の養蚕業ならびに製糸業の検討である。ここでは、中国における特権的繭商人の存在や桑畑における地主的土地所有の存在が、中国養蚕業の停滞の重要な要因となったことが明らかにされている。

 以上のように本論文は、日本近代経済史にとって重要な研究領域である養蚕・製糸業の分析において、裁桑技術発展の具体的様相を明らかにし、また詳細な繭生産費分析を通して養蚕経営の発展構造を明らかにした点で、従来の研究水準を超える多くの知見を加えた。よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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