学位論文要旨



No 214147
著者(漢字) 能木,裕一
著者(英字)
著者(カナ) ノギ,ユウイチ
標題(和) 深海細菌の特性とそれらの系統分類学的位置に関する研究
標題(洋)
報告番号 214147
報告番号 乙14147
学位授与日 1999.02.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第14147号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉山,純多
 東京大学 教授 五十嵐,泰夫
 東京大学 教授 大和田,紘一
 東京大学 教授 小柳津,広志
 東京大学 助教授 横田,明
内容要旨

 深海環境という高水圧下、低温、暗黒の世界から分離される、好圧性細菌や耐圧性細菌の研究は1950年前半にZoBellとMoritaによって本格的に始められた。最初の好圧性細菌は1979年にYayanosらによって深海のヨコエビから分離された。その後、今日まで多くの研究者により数多くの好圧性細菌や耐圧性細菌が分離されてきている。それらは、主にその加圧下における蛋白合成能、細胞分裂、脂肪酸組成といった生理学的な解析の研究から始まった。そして、最近遺伝子レベルでの研究が行われ始めたところである。このように、生理学的レベルでの研究は進んでいるが、これら好圧性細菌や耐圧性細菌に関する分類学的研究はほとんど行われていない。そうした中、これまでに報告されている好圧性細菌をDeLongらは16S rDNA塩基配列に基づいてプロテオバクテリアのサブグループのShewanella属、Moritella属、Colwellia属、Photobacterium属、属に相当するCNPT3グループの5属に含まれていると報告している。しかし、多くの好圧性細菌や耐圧性細菌の内、確実な分類学的検討がなされていて、正名があるのは5属の内の2種、S.benthicaとC.hadaliensisに分類されている数株だけで、他に新属や新種を定義するような研究は行われていない。この様に系統分類学的未整理な好圧性細菌や耐圧性細菌を16S rDNA塩基配列データだけではなく、生理・生化学試験、化学分類法も併用する多相的(polyphasic)手法を用いて分類・同定を行う必要がある。

 深海の好圧性、耐圧性細菌の分類学的な整理統合を目的として、本研究室において、琉球海溝、日本海溝、伊豆・小笠原海溝、駿河湾及びマリアナ海溝の深海底泥から分離した、耐圧性細菌、好圧性細菌、絶対好圧性細菌を用いて、生理・生化学試験、化学分類の手法も用いて系統分類学的検討を行った。またそれら細菌の性質についても検討を行った。

 第2章「深海底泥より分離された耐圧性細菌の特性と系統分類学的位置」では、琉球海溝の深海底泥から分離したPhotobacterium属の耐圧性細菌DSJ4について系統分類学的検討を行い、新種Photobacterium profundumを提唱した。また、DSJ4と好圧性細菌Photobacterium sp.SS9との相同性を検討し、SS9をDSJ4と同種のP.profundumと同定した。また、Photobacterium属既知種には耐圧性を示す種が無く、本種が唯一の好圧性、耐圧性の種であることが示された。

 第3章「各地深海底泥より分離した好圧性細菌特性と系統分類学的位置」では、琉球海溝、日本海溝、伊豆・小笠原海溝及び駿河湾の深海底泥から分離した好圧性細菌について系統分類学的検討を行った。これらの分離株は8株の内6株が既知種のS.benthicaと同定したが、既知種と一致しない2株に対し、好圧性細菌DSS12に基づいて新種Shewanella violaceaを、好圧性細菌DSK1に基づいて新種Moritella japonicaを提唱した。Shewanella属既知種にはS.violacea以外にも16S rDNAの系統樹から見てS.benthicaと近縁な種にはある程度の耐圧性が認められた。

 深海由来の好圧性細菌の特徴としてエイコサペンタエン酸(EPA,20:5)かドコサヘキサエン酸(DHA,22:6)の様な長鎖不飽和脂肪酸を含んでいると言われており、今回、深海から分離した耐圧性細菌や好圧性細菌は全て、菌体脂肪酸としてEPAかDHAを含んでいた。しかし、EPAやDHAの様な長鎖不飽和脂肪酸を含んでいる事と、好圧性、耐圧性を示すことは等しいとは言えなかった。耐圧性を示さないM.marinaもDHAを含み、深海ではなく南極から分離されたS.gelidimarinaもEPAを含んでいた。また、Colwellia属、CNPT3グループに属する菌株がEPAやDHAを含んでいるかは分かっていない。今回分離した株とEPAやDHAを含んでいる既知種との共通点は、10℃以下の低温で良く生育する好冷性を示す点であった。好冷性の菌は低温で生育するために長鎖不飽和脂肪酸を多量に含むことによって膜の流動性を保っていると考えられた。

 第4章「世界最深海域マリアナ海溝より分離した絶対好圧性細菌の特性と系統分類学的位置」ではマリアナ海溝のチャレンジャー海淵の深海底泥から分離した大気圧下では生育する事が出来ない絶対好圧細菌2種6株について系統分類学的位置を決定した。その結果、分離株6株の内、1種3株は既知種S.benthicaと同定されたが、既知種とは一致しないMoritella属の絶対好圧性細菌1種に対して分離株DB21MT-5に基づいて新種Moritella yayanosiiを提唱した。絶対好圧性細菌がS.benthicaと同定された事により、絶対好圧性というのは菌株間の好圧性のレベルの違いであって、必ずしも種レベルの違いを反映する物ではないことが示された。

 また、好圧性細菌の菌体脂肪酸組成の変化は加圧培養により全不飽和脂肪酸/全飽和脂肪酸の割合と、16:1の不飽和脂肪酸の含量が増えるといわれている。そして、細菌の菌体脂肪酸組成はその培養温度によっても変化する事が知られている。しかし、同じS.benthicaと同定された好圧性細菌、絶対好圧性細菌の16:1の不飽和脂肪酸の増減は耐圧性とあまり関係なく、菌株によって多少異なる傾向がうかがえた。そして、他の好圧性細菌の加圧による菌体脂肪酸組成の変化も、全不飽和脂肪酸の割合が増えると言うよりも、より高度な長鎖不飽和脂肪酸の割合が増える傾向が示唆された。

 これらの結果から、生育温度と圧力の関係を見ると、大気圧下では生育できない温度でも、加圧する事により培養温度を下げた時の様に生育出来る。加圧培養による菌体脂肪酸組成の変化は培養温度を下げて培養した時の様により高度な長鎖不飽和脂肪酸の割合が増える。好圧性細菌にとって加圧される事と、冷却されることは同じ様に生育に影響を与える事が示唆された。

 第5章「日本海溝底泥から保圧状態で培養された微生物フローラの継代による変遷」では、日本海溝の底泥を採取地点の圧力・温度を一度も変化させることなく維持したまま培地に接種し、現場圧力で培養した微生物フローラの継代による変遷を分析した。また、培養前の底泥サンプルからDNAを抽出し、この16S rDNA塩基配列のデータに基づいて底泥中に存在したであろう微生物の検討も行い、実際培養されてきた微生物と比較した。深海底泥には好圧性細菌のよく分離されるプロテオバクテリアのサブグループ以外にサブグループの細菌、Flavobacterium/Cytophagaグループやグラム陽性のBacillus属や嫌気性のClostridium属など未知の属も含め、広い範囲の属の微生物が存在することが示唆された。しかし、実際保圧保冷状態で培養を行った微生物フローラはその培養液の16S rDNA塩基配列と脂肪酸組成の分析のデータから好圧性のShewanella属、Moritella属の細菌が優先的に混合状態で培養されていることが示唆され、継代培養を繰り返す内に微生物フローラは、Moritella属細菌のみが優先的に生育する状態に変遷して行った。同時に行った、同じサンプルを大気圧で培養し、その微生物フローラの変遷を比較検討すると、常にPseudomonas属類縁細菌が選択的に大勢を占めた。Pseudomonas属類縁細菌はその後、分離し培養を行ったところ、加圧下ではほとんど増殖せず、現場環境で休眠状態もしくは非常にゆっくりした増殖を行っていたと思われる。

 本研究において、今まで耐圧性細菌や好圧性細菌の正名の付いた種の無かったPhotobacterium属に1種、好冷性細菌しかなかったMoritella属に新たに好圧性細菌を2種、また、Shewanella属に既知種S.benthica以外の好圧性細菌を新たに1種、新種の提唱を行った。これにより、耐圧性細菌や好圧性細菌の正名の付いた種は、計6種に成った。今後、これらの種を基準としてPhotobacterium属、Moritella属、Shewanella属の好圧性細菌の系統分類学的整理統合が行われ易くなった。また、プロテオバクテリアのサブグループ以外の好圧性細菌や、圧力変化で死滅してしまうような超圧力感受性細菌などの分離は行えなかった。しかし、培養前の16S rDNA配列のデータからPseudomonas属類縁菌の様に休眠状態の菌もいるが、まだ広範囲の属に好圧性細菌の存在が示唆された。

審査要旨

 高水圧下の深海環境の微生物については、現代細菌系統分類学に基づく種のインベントリーすらないのが現状である。そこで本研究は、深海底泥から分離した、耐圧性、好圧性、絶対好圧性の細菌についてそれらの特性と多相的手法を用いて系統分類学的位置を決定し、さらに深海高圧環境下の微生物相の変遷などを解明したもので、6章よりなっている。

 研究の背景と意義について述べた第1章に続き、第2章では、深海底泥から分離した耐圧性細菌の系統分類学的位置について述べている。耐圧性細菌分離株に基づいて新種Photobacterium profundumを提唱し、既知の好圧性細菌株も同種と同定した。また、同属細菌の中で唯一の耐圧性・好圧性を示す種であることも確認した。

 第3章では、日本列島周辺の海溝などの底泥から分離した細菌の系統分類学的位置を決定した。その結果、好圧性細菌分離株8株のうち6株を既知種Shewanella benthicaと同定したが、既知種と一致しない2株に対し、それぞれ新種Shewanella violacea、Moritella japonicaを提唱した。Shewanella属既知種S.violacea以外にも16S rDNA系統樹から見てS.benthicaと近縁種にはある程度の耐圧性が認められた。さらに深海由来の好圧性細菌の菌体脂肪酸組成の特徴について述べている。従来、EPA(エイコサペンタエン酸)かDHA(ドコサヘキサエン酸)を含み、加圧培養により全不飽和脂肪酸/全飽和脂肪酸の割合と、16:1の不飽和脂肪酸の含量が増えるといわれていた。しかし、表層から分離された耐圧性を示さない種もDHAまたはEPAを含んでいることから、好圧性細菌の特性とはいえないことが判明した。DHAなどを含む細菌の共通点は好冷性で、低温で生育するために長鎖不飽和脂肪酸を多量に含むことによって膜の流動性を保っていると考えられた。好圧性細菌の生育温度と圧力の関係を見ると、加圧により大気圧下では生育できない温度でも生育し、菌体脂肪酸組成は培養温度を下げた時のようにより高度な長鎖不飽和脂肪酸の割合が増えた。好圧性細菌にとって加圧と同様に、冷却も生育に影響を与えることが示唆された。また本章では、加圧応答遺伝子の解析結果についても言及している。

 第4章では、世界最深海域マリアナ海溝から分離した絶対好圧性細菌の特性と系統分類学的位置について述べている。絶対好圧性細菌の分離株6株のうち、3株は既知種S.benthicaと同定したが、既知種とは一致しない1株に基づいて新種Moritella yayanosiiを提唱した。絶対好圧性細菌がS.benthicaと同定されたことにより、絶対好圧性という性質は菌株間の好圧性のレベルの違いであって、必ずしも種レベルの違いを反映するものではないことが示唆された。以上の研究により、正名のついた耐圧性、好圧性細菌は計6種になり、好圧性細菌の同定が比較的容易になった。

 第5章では、深海底泥を採取地点の圧力・温度を一度も変化させることなく培養した微生物相の継代による変遷について述べている。また、培養前の底泥からDNAを抽出し、16S rDNA塩基配列データに基づいて底泥中に存在したであろう微生物の検討も行った。深海底泥には好圧性細菌のよく分離されるプロテオバクテリアのサブグループ以外にサブグループの細菌、Flavobacterium/Cytophagaグループやグラム陽性のBacillus属や嫌気性のClostridium属などの既知属や未知分類群も含め、広い範囲の微生物が存在することが示唆された。しかし、実際培養された培養液の微生物相は16S rDNA塩基配列と脂肪酸組成の分析データから好圧性Shewanella属、Moritella属細菌の優先的混合状態から継代培養を繰り返すうちに、Moritella属細菌のみが優先的に生育する状態に変遷して行ったことが示唆された。同じ深海底泥を大気圧で培養した微生物相の変遷は常にPseudomonas属類縁細菌が選択的に大勢を占め、この分離株は加圧下ではほとんど増殖せず、現場環境でほぼ休眠状態にあると推定された。今回、プロテオバクテリアのサブグループ以外の好圧性菌や圧力変化で死滅してしまうような超圧力感受性菌などは分離されなかった。しかし、培養前の16S rDNA塩基配列のデータから、広範囲の好圧性細菌の存在が示唆され、今後この様な好圧性細菌を分離するために培養条件などをさらに検討することが重要であると結論された。

 第6章は、総合討論で、本研究のまとめとこの分野の今後の展望が論じられいてる。

 以上本論文は、これまで未開拓の深海微生物、特に好圧性、絶対好圧性細菌の特性、種多様性およびそれらの系統分類学的位置を明らかにしたもので、学術上貢献するところが少なくない。よって審査委員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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