学位論文要旨



No 214149
著者(漢字) 小野,良平
著者(英字)
著者(カナ) オノ,リョウヘイ
標題(和) 明治期東京における公共造園空間の計画思想に関する研究
標題(洋)
報告番号 214149
報告番号 乙14149
学位授与日 1999.02.08
学位種別 論文博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 第14149号
研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 熊谷,洋一
 東京大学 教授 武内,和彦
 東京大学 助教授 大橋,邦夫
 東京大学 助教授 下村,彰男
 東京大学 助教授 斎藤,馨
内容要旨

 本研究は、造園史研究の一領域である、わが国の近代公園史をテーマとして、その計画思想という観点から、明治期の首都東京における公園緑地・オープンスペースなどの公共造園空間を対象として分析考察を行ったものである。本研究では、わが国における近代都市の装置としての公共造園空間に対する、その構想、実体化および運営を支えた諸関係主体の考え方、特にそれらのフィジカルな側面を「計画思想」として位置づける。そのうえで本研究は、明治期の東京を対象として、1.都市計画としての市区改正計画における公園計画の思想を明らかにすること、2.明治期東京において展開された国家的催事・イベントが公共造園空間の特質形成に果たした役割を、計画思想として明らかにすること、の二点を目的とする。この二つの観点は、公共造園空間を、一つは経済、国家統合のための都市の物的機能編成を図る都市計画の一部として構想されたもの、もう一つは国民、文化統合のための習俗や象徴を創出する構想が都市空間にあらわれたものとして捉える、近代における国民国家形成にかかわる諸装置の類型の枠組みから近代都市の空間形成の二つの側面を捉える考え方に基づいて設定されている。

 第1章においては、以上の目的および対象を示した上で、既往研究の整理を行い、その結果、従来の公園史研究が、計画過程内部の視点からの検討が不十分なまま、成果としての計画を現代の外的視点から評価している傾向にあること、さらに、それぞれの計画当時の都市空間の実態と計画との関連を軽視しているために、言説分析にとどまり、計画と実空間としての都市空間とが乖離したままであることなどの問題点を指摘した。これに従って、本研究の分析視点として、計画思想をそれぞれの計画過程内部から分析すること、当時の市民の動きをも含んだ都市空間の実態との関連から捉えること、それぞれの空間の計画や利用のプロセスに着目して計画思想を捉えること、などを示した。研究の方法としては、それぞれの計画の過程にかかわる言説分析を基本としながらも、上記の視点に従い、当時の都市空間の状況や市民の利用を記録した資料分析を重視した。

 第2章においては、まずわが国最初の都市計画的視点を持った公共造園空間の計画といえる、市区改正審査会(明治18年、以下「審査会」)の公園(遊園)計画を検討した。良く知られる「都市の肺臓」論と表現される衛生論的な公園論は、内務省衛生局長・長与専斎の明治初期以来の海外経験などを経て、伝染病対策に直結した衛生的空地の必要性を衛生行政が認識していたことに基づいていたと考えられる。審査会の示した人口あたりの遊園必要面積等はこの衛生論の考えに従っているが、具体的配置計画においては、同じ衛生論の立場から、運動を基本にした身体鍛錬による「国民」の形成という考えを基本に、当時の小学校の運動場不足という実態も背景に、小遊園を児童の運動場として捉える思想に従い、既存小学校の立地に連携させた配置計画が立案されたことを新たに指摘し、考察を加えた。

 一方で、その公園計画には警察行政も関わっており、自由民権運動の高まりの中にあった明治10年代後半における、市民の屋外集会活動を牽制し監視する、反政府運動への対策のための民衆監視システムの一端として小遊園を位置づける思想に基づき、警察署の立地とも連携させた配置計画が考えられていた可能性が高いことを指摘した。

 審査会の公園計画は、財源確保のための土地経営論的思想の色濃かったそれ以前の太政官制公園とは論理の異なる、衛生論を基盤に小遊園を空地および運動場として捉える、近代の科学的合理的精神を反映させたフィジカルプランニングであった。だが同時に当時の共時的な都市問題、社会情勢(学校運動場の不足や屋外集会の規制)への問題解決の道具として利用され、たとえば警察の立場からは公園は否定的に捉えられ、都市計画の出発点においての公園観は必ずしも統一的ではなく、矛盾を孕んでいたことも事実である。いずれにしろ公共造園空間は、単なる遊観地ではなくさまざまな社会的役割、つまるところ近代の国民国家形成のための一装置としての役割を担わされていたものと考えることができる。

 つづいて、審査会案を原案に審議を行った市区改正委員会(明治22年、以下「委員会」)の公園計画を検討した。まずその特徴として、公園配置の郊外への拡大化、神社の公園化など従来指摘されている点に加えて、神社の公園化に伴う上地官林の公園編入、および小公園の神田区への集中的配置の傾向が新たに見いだされた。また、委員会で新規に提案された日比谷公園は、外務省による官庁集中計画の収束案である山尾庸三案を、委員会が与条件として引き継いだものであることを指摘し、官庁集中計画と市区改正事業の関係および日比谷公園誕生の契機に関する従来の知見に修正を加えた。

 委員会における審査会案に対する公園の削除あるいは追加は、土地買収費用や建物移転料などの財政的要因から多くが説明できること、さらにそれが公園配置上の郊外への拡大化および神社の公園化とも相互に関連していることが確認された。また神社境内への公園設置に関しては、借地料の収入による公園経営の拡大という東京府の方針に加え、上地官林の公園への編入が、当時同時並列的に政府内部で検討の進んでいた、御料地の編入問題や、社寺上地官林の管理問題とも密接に絡んだ上での、東京府からの戦略的ともいうべき提案であったことが考察された。

 さらに神田区への公園の集中的配置計画は、明治16、7年以来の内務省衛生局と東京府による神田区をモデルとした衛生環境整備に関連していたと考えられる。すなわち、明治17年に着手されたわが国初の近代下水である神田下水の整備が財政難に起因して中断され、不完全な状況に置かれていた神田区の衛生環境改善のために、神田区に重点を置いた公園の配置計画が立案された可能性が高い。委員会での公園計画における衛生論の立場は、計画案全体についてみれば審査会時に比べてその影響力を減じているようではあるが、それは従来指摘されているような衛生行政の弱体化に直結して考えられるものではなく、むしろ当時の衛生行政が、明治19年のコレラ大流行を経て、審査会では扱われなかった上下水道の整備や建築規制の実現化という、より基盤的な衛生環境整備に重点を置くようになり、オープンスペースに関しても衛生上の空地としての認識が第一義的となり、その結果公園そのものの意義に関する認識が審査会時に比べて相対的に低下していたものと考えられる。

 第3章においては、国家的催事・イベントにかかわる公共造園空間の計画思想として、上野公園および宮城前広場(現皇居外苑)の計画思想を、両空間において繰り広げられたイベント・儀礼の分析を通じて明らかにした。上野公園は開園当初(明治9年)より内務省が直轄する国家的性格の強い特異な公園であったが、ここを会場としてたびたび開催された国家的催事・イベントである内国勧業博覧会(明治10、14、23年)に、まず明確な空間計画の思想を見いだすことができた。すなわち、博覧会会場は近代的な事物への認識眼を国民に啓蒙しようとする教化的意図のもとに、近代を意味づけする西欧的空間配置の計画がなされていた。ただしそれと同時に博覧会の持つ祝祭的性格も考慮され、博覧会会場の外部に縁日的空間を配置することで博覧会の近代性と共存を図る空間計画が行われていたことも明らかとなった。

 これに加えて、上野公園の空間の性格を規定したもう一つの大きな要因として、上野公園にたびたび行幸した天皇の儀礼行為に着目した。まず明治9年に実施された上野公園の開園式は、徳川家の聖地であった上野の場所の意味を転換する儀礼行為であったといえる。つづく博覧会開閉場式(明治10年)、グラント将軍歓迎式(明治12年)などを通じて、上野公園にはパレードのための空間と西欧宮廷風の建築およびその前庭からなる空間構造の骨格が形成された。明治前半期に行われた視覚的イベント・儀礼である博覧会や天皇の行幸の影響を受けて形成された上野公園の空間のこのような性格は、明治34年には将来的に維持すべき空間として明文化される。イベント・儀礼としての上野公園の空間の利用が、その後の空間の特質を規定する計画思想に転換されていく過程が明らかとなった。

 現在の皇居外苑にあたる宮城前広場は、宮内省により明治22年に初めて公共造園空間として整備されたが、その当初の意図は、同年の大日本帝国憲法発布の式典に間に合わせて、天皇の行幸を奉拝する儀礼的イベントのための空間を創出することであったことが、工事記録の検討と当初の利用形態の分析を通して明らかとなった。そしてその造園空間としての特徴である広い通路と芝庭からなる空間は、明治16年に右大臣岩倉具視が内閣に提出した京都保存に関する建議、およびその具体的改善案と関連を持つことが推測された。宮城前広場は、岩倉が具体的提案を行った京都御苑の空間整備とともに、新都東京、旧都京都という二つの首都における、皇室と深くかかわる公共造園空間としてパラレルな存在であったと考えられる。

 つづいて宮城前広場では、明治38年に市区改正事業の一環として改修工事が行われたが、この意図もまた国家的イベントを目的としたものであった。すなわち日露戦争の戦勝を祝う明治39年の陸軍大観兵式にあわせて宮内省と東京市が協同し、天皇を頂点とする国家と国民の関係性を視覚化する場として、明治22年以来の宮城前広場の空間の意味がさらに強化されたといえる。ここに国家的催事空間への都市計画の関与をみることができる。この観兵式に限らず、宮城前広場の利用形態はすべて天皇を奉拝する市民の儀礼であり、兵士、生徒、工員などが大量に動員されていた。明治前半期の上野公園においては、天皇がパフォーマンスの中心であったのに対し、明治後半期の宮城前広場では、市民がその中心として儀礼を演ずる空間となっていた。そのような利用を促す空間計画の思想は、昭和14年に紀元2600年記念事業として実施された、宮城外苑整備計画において明確に規定されるに至る。また、宮城前広場に隣接して、明治36年には日比谷公園が開園するが、同公園もたびたび国家的イベントに利用され、その多くは隣り合う宮城前広場の儀礼空間としての性格を補完する、祝祭性を持った空間として存在・機能していたと考えることができる。

 第4章では、以上を整理し結論をまとめ、今後の研究の課題について述べた。

審査要旨

 本研究は、明治期の首都東京における、公園緑地・オープンスペースなど近代都市の装置としての公共造園空間を対象とし、その構想、実体化および運営を支えた諸関係主体の考え方、特にそれらのフィジカルな側面を計画思想として分析考察したものである。そして具体的には、1.都市計画としての市区改正における公園計画の思想を明らかにすること、2.明治期東京において展開された国家的催事・イベントが公共造園空間の特質形成に果たした役割を計画思想として明らかにすること、の二点を目的としている。

 第1章では、研究の目的および対象を示し、既往研究の整理を行った上で、本研究の分析視点として、計画思想を各々の計画過程内部から分析すること、当時の市民の動きをも含んだ都市空間の実態との関連から提えること、各々の空間の計画や利用のプロセスに着目して計画思想を捉えることを記述している。また研究方法としては、各々の計画の過程にかかわる言説分析を基本としながらも、上記の視点に従い、当時の都市空間の状況や市民の利用を記録した資料分析を重視したことを述べている。

 第2章では、わが国最初の都市計画的視点を持った公共造園空間の計画である市区改正審査会(明治18年、以下「審査会」)の公園(遊園)計画と、審査会案を原案に審議を行った市区改正委員会(明治22年、以下「委員会」)の公園計画について分析、考究している。その結果、まず審査会の公園計画は、衛生論を基盤に小遊園を空地および運動場として促える近代の科学的合理的精神を反映させた空間計画であったことを指摘している。そして公園の配置については、小遊園を児童の運動を基本にした身体鍛錬の場として捉え、既存小学校の立地に連携させた配置計画が立案されたことを新たに見いだしている。また警察署の立地とも連携させた小遊園の配置計画であった点も指摘しており、当時の自由民権運動の高まりの中で、市民の屋外集会活動を牽制し監視する、反政府運動への対策の一端として位置づけられていた可能性が高いことも考察している。

 一方、委員会の公園計画では、公園配置の郊外への拡大、神社の公園化など従来からの指摘に加えて、上地官林の公園編入、および小公園の神田区への集中的配置の傾向を新たに見いだしている。そして上地官林の公園への編入が、同時並列的に政府内部で検討されていた御料地の編入問題や社寺上地官林の管理問題とも密接に絡めた上での東京府からの戦略的提案であったこと、さらに神田区への公園の集中的配置は、明治16、7年以来の内務省衛生局と東京府による神田区をモデルとした衛生環境整備に関連していた可能性が高いことを考察している。

 第3章では、国家的催事・イベントにかかわる公共造園空間の計画思想として、上野公園および宮城前広場(現皇居外苑)の計画思想を、工事記録の検討と利用形態の分析を通して明らかにしている。開園当初(明治9年)より内務省が直轄する国家的性格の強い公園であった上野公園については、ここを会場として開催された内国勧業博覧会(明治10、14、23年)と、たびたび行幸した天皇の儀礼行為に、空間計画の思想を見いだしている。博覧会会場としては、近代的な事物への認識眼を国民に啓蒙するための西欧的空間配置と、会場外部の縁日的空間の配置により、博覧会の近代性と祝祭的性格との共存を図る空間計画が行われたことを明らかにしている。また天皇の儀礼行為を通して、パレードのための空間と西欧宮廷風の建築およびその前庭からなる空間の骨格が形成されたことを指摘している。

 一方、明治22年に宮内省により整備された宮城前広場については、大日本帝国憲法発布の式典における天皇の行幸を奉拝するための場として、また日露戦争の戦勝を祝う陸軍大観兵式で天皇を頂点とする国家と国民の関係を視覚化する場として空間が創出、形成されたことを明らかにしている。そして、造園空間としての特徴である広い通路と芝庭からなる空間は、明治16年に右大臣岩倉具視が内閣に提出した京都保存に関する建議、およびその具体的改善案と関連を持つことを考察している。

 第4章では、以上を整理し結論をまとめ、今後の研究の課題について述べている。

 以上、本論文は、近代都市形成期の装置としての公共造園空間の計画思想について、源流と位置づけられる市区改正および国家的性格の強い公園の計画を分析し、明治期の東京において、衛生論、警察行政および国家的催事・イベントが果たした役割が重要であったことを新たな史実とともに明らかにしたものである。申請者が明らかにした知見は学術上、応用上貢献することが少なくないと考え、審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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