学位論文要旨



No 214161
著者(漢字) 丹羽,俊彦
著者(英字)
著者(カナ) ニワ,トシヒコ
標題(和) 東京の鉄道網の骨格形成過程の研究 : 鉄道技術の伝来から東京市街縦貫線完成に至る間にその発展に貢献した内外鉄道土木技術者達
標題(洋)
報告番号 214161
報告番号 乙14161
学位授与日 1999.02.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14161号
研究科 工学系研究科
専攻 社会基盤工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 家田,仁
 東京大学 教授 森地,茂
 東京大学 教授 篠原,修
 東京大学 教授 國島,正彦
 東京大学 教授 吉田,恒昭
 足利工業大学 助教授 為国,孝敏
内容要旨 1.東京の鉄道網の骨格の形成1)鉄道建設の初期

 明治政府は英国に資金及び技術両面の援助を依頼することとし、選任された鉄道土木技師、E.モレル等は1870(明治3)年に来日し、極東で最初の鉄道である新橋〜横浜間18哩の建設に着手した。1872(明治5)年9月12日(旧暦)に開業した本区間に次いで、1874(明治7)年には大阪〜神戸間が開通、1877(明治10)年には大阪〜京都間が開通した。

 鉄道の有用性が認識されるようになると、民間資本で鉄道建設を行う機運が生じ、本邦初の私設鉄道である日本鉄道会社が設立され、東京のターミナル駅として上野駅を設けて1884(明治17)年に高崎までを開通させると、甲武鉄道会社が1895(明治28)年に新宿〜飯田町間を開業させ、総武鉄道会社も、1904(明治37)年に本所〜横網町(現両国駅)までを開業させた。

2)東京市街線

 一方首都としての東京を近代的な都市に改造しようと、1884(明治17)年に東京市区改正意見書が上申された。この中で鉄道は既設の新橋駅と上野駅を結び、その中間に中央駅を建設すべきであるという提案がなされた。此の意見書に政府は真正面から取組み、市区改正審査会、同委員会の議論を経て、1889(明治22)年5月に東京市区改正設計として東京府知事から告示された。

 この計画を受けて鉄道局は日清戦役後の1896(明治29)年に新永間建築事務所を設置して東京市街縦貫線計画を実施に移した。財政上から或は日露戦役等で遅延を余儀なくされたものの、1914(大正3)年12月に新橋〜東京間が開通して盛大な開業式が挙行された。

 これにより東海道線の起点は東京駅となり、以後我が国の鉄道の原点として活躍を始めることとなった。

 1906(明治39)年の鉄道国有法公布後は私設鉄道の工事は鉄道当局に引き継がれた。中央線が1919(大正8)年に萬世橋から東京に乗り入れて東京始発となり、次いで東京〜上野間の高架線工事が1925(大正14)年11月に開通して東北本線の起点も東京となった。

 1884(明治17)年の東京市区改正意見書の上申から約40年を経過しての完成で、この時から山手線は現在のような環状運転となり、東京の鉄道網の骨格はほぼ形成された。

2.東京の鉄道網の骨格形成過程に於ける重要な事項の検証1)鉄道技術伝来の起源

 先ず本邦へ鉄道土木技術を最初に伝えた技術者として、E.モレルよりも以前の1868(慶応4)年6月に来日していたR.H.ブラントンの果たした役割が重要である。

 彼が明治政府に提出した「Recommendation for a Railway」(和名・蒸気車鉄道)は、我が国では最初の鉄道建設に関するレポートであった。彼の実務経歴から考えて、本レポートには当然の事として江戸〜横浜間の概略の図上選定がなされていたであろうと推測出来るし、これが実際の新橋〜横浜間の建設計画に重要な役割を果たしたと考えられる。

2)新橋停車場の位置の選定

 E.モレル一行が1970(明治3)年3月9日に来日して、3月25日に東京芝汐留の近傍から測量を開始したのが本邦鉄道起業の創始とされている。

 如何に鉄道の専門家であっても、否専門家であればある程、モレル等のチームが鉄道建設に必要な図上選定、現地踏査、比較路線の研究、等の重要な作業を実施するには余りにも少ない時間である。特に首都東京に最初のターミナル駅を建設するとすれば、その位置の決定に当たっては政府高官や財界等のコンセンサスが当然必要である。

 筆者の海外鉄道技術援助の経験からして、新橋停車場の位置は既に井上勝等によって決定されていて、概略の路線選定はなされていたと考えられる。

3)東京の鉄道網の骨格となる路線計画

 日本鉄道会社の東京〜青森間の鉄道路線の計画にあたり、鉄道局長井上勝はR.V.ボイルの報告書等を参考として東京の将来の鉄道網の構想を立案した。

 既設の官鉄新橋駅から東京市街を縦貫して高崎方へ進む路線は有利ではあるけれども、建設費が嵩んで容易ではない。そこで官鉄横浜線との連絡は品川駅とし、東京のターミナルとしては赤羽から支線を設けて上野に駅を設置した。都市計画との関連もあるので、東京市街縦貫線計画は、後のプロジェクトとして残したのである。

 そしてこの市街縦貫線新橋〜上野間の計画は「東京市区改正意見書」の「鉄道の部」に原口要によってはっきりと提示された。この段階で東京の鉄道網の骨格の計画はほぼ全容が整ったのであり、後に関係ありと喧伝されることになる独人技師・H.ルムシュッテルが来日する1887(明治20)年よりも以前の計画策定である。

4)独人技師、H.ルムシュッテル、F.バルツァー等の関与は設計面に限定

 ルムシュッテルが日本鉄道会社から路線計画の委託を受けたのは彼が九州鉄道を退職した後の1892(明治25)年の事であり、それを以て日本鉄道会社が東京市街高架線・上野〜新橋間の免許を申請したのはその翌年の事である。

 市街縦貫線計画は既に原口要に依って策定されて1889(明治22)年に市区改正設計で公示されており、それを受けて当局は引き続き仙石貢に調査をさせていた。従ってルムシュッテルの関与は、既に或る程度選定されていたルートに対して煉瓦拱橋を主体とする高架線を計画したものであって、バルツァー論文等に見られる市街縦貫線の発案をルムシュッテルとするのは誤りと言える。

 又、1898(明治31)年にバルツァーが来日した時期には、既に東京の路線網の骨格の計画は決定されていたことが明らかであり、彼の関与も東京縦貫線の構造物の設計の分野に限られる事が実証された。

5)東京市街線(新橋〜東京間)の建設

 東京市街線計画は鉄道局の仙石貢、後に日本鉄道会社はルムシュッテルに委託して調査を実施していた。逓信技師・野村龍太郎は命を受けて欧米を視察し、東京市街線はベルリン方式(民地を買収して高架線を建設する)が適当である旨の報告書を1898(明治31)年5月に提出した。これが鉄道当局に高架線建設に踏み切らせた重要な報告書となった。

 即ち、鉄道当局は耐震設計、騒音振動対策等を慎重な検討を加え、更にF.バルツァーが来日早々に提案した鋼構造を主体とする高架線との比較検討の結果、煉瓦拱橋を主体とする構造設計に決定したのであり、巷間語られるルムシュッテルが提案したベルリン式の煉瓦構造高架線を単純にコピーしたものでは決して無いと言える。

6)東京駅の計画と設計

 当初は東京駅でも貨物を扱う計画であったけれども、情勢の変化から旅客専用駅として建設された事が今日の東京駅周辺の活性化に連なったと言える。駅本屋は鉄骨煉瓦造3階建ての堂々たる建造物となり、駅本屋を設計した辰野金吾の名前のみが喧伝されているけれども、首都東京のターミナル駅としての機能、更に主要幹線の始発駅としての機能を持たせるべく、旅客設備、構内配線、運転設備、等の停車場計画の詳細に互って立案に当たった岡田竹五郎新永間建築事務所長(東大土木・明治23年卒)の大なる功績を実証する。

7)本邦鉄道土木技術の伝承に貢献のあった内外鉄道土木技術者達

 鉄道伝来の初期にあって来邦した外国人技師は優れた技術者が多かった。先に述べたブラントン、初代の建築師長となったE.モレルは技術者養成の必要性を説いて工部省の設立から工部大学等の技術者養成の礎を築いたといえる。

 受入れ側の我が国に於いても、井上勝のリーダーシップに依って鉄道土木技術者の養成には意を注ぎ、早い時代から海外留学生の派遣、大学教育、中堅技術者の育成によって鉄道土木技術者が輩出した。

 これら先人の努力と熱意に依り鉄道土木技術は我が国にしっかりと定着し、その後の鉄道土木技術者に引き継がれて隆盛を見るに至ったのである。

3.本論文の海外技術協力への意義

 海外鉄道技術協力の場に於いて、我が国に於ける鉄道技術の伝来と定着の経緯を知る事は、当該国に於いて実務を展開するに当たっては最も良い事例となる。本論文がこれから海外に於いて技術協力に従事する方々への良き指針の一つとなるならば、それもまた意義のある事と考える。

 終

審査要旨

 本論文は、鉄道技術が本邦に移転されて鉄道建設が始まり、東京の鉄道網が形成されるまでの過程を鉄道土木技術者の視点から検証するとともに、その過程における本邦技術者と外国人技術者の果たした役割を技術的立場から検証したものである。本研究の目的は、1)東京の鉄道網の骨格形成史の検証、2)東京の鉄道網の骨格形成過程における内外鉄道土木技術者の貢献に対する考察、3)鉄道土木技術移転の過程を考察して得られた知見から海外技術協力への示唆、の3点である。研究の対象は、本邦鉄道の黎明期より東京の鉄道網の骨格がほぼ形成されるまでの時代、すなわち1869年から1925年頃までとしている。本論文は、第1部緒論、第2部東京の鉄道網骨格形成史の検証、第3部内外の鉄道土木技術者の技術的貢献の検証、第4部鉄道土木分野における技術移転論からなっている。

 第2部は、東京の鉄道網の骨格形成史を原資料から検証したものである。そこから得られた主な知見は、以下の通りである。

 1)明治新政府は中央集権を強力に押し進めるために、イギリスに起債、技術援助を求めて鉄道を建設することにしたが、その後、財政困難に直面した政府は民間資金を導入して鉄道建設を進めることにした。

 2)日本鉄道会社線の路線選定にあたって鉄道局が策定した路線計画が、東京の鉄道網形成の基本構想となった。その後の各路線の計画にあたっては、都市計画やその他のプロジェクトとの整合性が図られた。

 3)東京市街縦貫線計画以後にあっては高架線による立体交差を基本として、大都市内の道路交通を意識するものとなった。

 4)新橋〜東京間の高架線は、煉瓦拱橋と鉄製橋梁で、中央線の東京駅乗り入れの高架線は、煉瓦拱橋および鉄筋コンクリート高架橋と鉄製橋梁の組み合わせ、東京〜上野間の高架線は鉄筋コンクリート高架橋と鉄製橋梁となった。

 第3部は内外の鉄道土木技術者に着目して、これらの技術者達の各主要プロジェクトに対する技術的貢献を検証している。外国人技術者としては、R.H.ブラントン、E.モレル、H.ルムシュッテル、F.バルツァーら、日本人技術者としては、井上勝、松本荘一郎、原口要、野村龍太郎、岡田武五郎などが対象とされている。そこで得られた主な知見は以下の通りである。

 1)灯台器械方として来日した英人R.H.ブラントンが勧告した鉄道建設に関する技術及びフィージビリティレポートが、本邦の鉄道建設計画の事実上の契機となった。

 2)日本鉄道会社線・東京〜高崎間の路線選定にあたり、既設の新橋ターミナル駅を基準として鉄道局長井上勝が研究し決定した路線選定は、山手線に四半分を形成し、後の東京の鉄道網の骨格形成の基礎となった。

 3)東京市街縦貫線計画は、東京市区改正意見書の作成にあたった原口要の策定したものと考えられる

 4)ドイツ人H.ルムシュッテルは、ベルリン高架線の経験を生かし、上野〜新橋間に鉄桁を併用するベルリン様式の高架橋を概略設計した。同じくF.バルツァーは、構造物の設計面で貢献した。

 5)野村龍太郎は、街路上のアメリカ式高架線、ボストンやロンドンの地下鉄道、ベルリンやウイーンの高架鉄道を比較して、我が国においては民地を買収して高架線を設けるベルリン式が適当であるとし、これはその後の計画決定に重要な役割を果たしたと考えられる。

 6)1897年11月に第2代建築事務所長となった岡田竹五郎は、建設工事の最初から1914年の新橋〜東京間の開業まで約18年間にわたり、この市街高架線工事の最高責任者として、本邦における始めての大都市内の本格的鉄道建設工事を担当した。その技術的寄与は極めて大きいものと考えられる。

 第4部では、以上の第2部及び第3部で明らかにされたの個別史実の検証に基づいて、我が国における鉄道土木技術の移転と定着の過程が次のように考察されている。

 1)鉄道局における雇い外国人の数は、1870年末に19人であったものが、1976年6月には100人に達し以後は減少した。これは、この時期に邦人技術者がその技術を習得して来た為と考えられる。

 2)鉄道建設の計画面においては、初期にイギリス人の指導を受けた後、関西の鉄道計画や東京周辺の鉄道計画は、すべて邦人技術者によって行われた。東京高架線の路線選定で、F.バルツァーが比較路線を提案して検討がなされたのが東京付近における外国人技術者の関与の最後と思われる。

 3)鉄道建設の施工管理面においては、鉄道土木技術伝来の約10年後となる1880年9月に開業した京都〜大津間を既に邦人技術者のみの施工管理て完成させている。施工管理は本邦における保有技術もあって、比較的早い時期に技術移転がなされたものと考えられる。

 4)鉄道建設の設計面においては、橋梁の設計が技術移転のなかでは最も長期間を要したものと思われる。1906年の鉄道国有化によって規格統一の機運が高まり、以後は設計示方書の作成やこれによる設計は邦人技術者の手で実施され、設計の技術移転もほぼ完了したものと考えられる。

 こうした、第4部までの分析を踏まえて、著者は今後の我が国の海外技術協力への示唆を与えている。具体的には、1)招聘技術者の技術面、人格面での質の高さ、2)受け入れサイドにおける計画面・技術面のリーダーの育成の必要性、3)フォアマンレベルの技術者や技能者に対する研修制度やモラール維持の措置が重要であること、などが指摘されている。

 以上のように、本論文は、東京圏の鉄道網形成期を対象にして、長い時間をかけた膨大な史料の検証作業に基づき、鉄道計画・施設設計・工事施工における、内外技術者の技術的貢献とその相互関係を明らかにし、さらに我が国の近代の黎明期における主として英国からの技術移転プロセスを考察したものである。土木史研究上の成果のみならず、世界有数のODAドナー国でもある我が国の今後の技術協力のあり方についても示唆が多く、社会基盤工学上も極めて多くの成果をもたらしたものと評価される。

 よって、本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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