学位論文要旨



No 214177
著者(漢字) 寺田,和子
著者(英字)
著者(カナ) テラダ,カズコ
標題(和) 筋肉のHodgkin-Huxley方程式の分岐に関する研究
標題(洋)
報告番号 214177
報告番号 乙14177
学位授与日 1999.02.12
学位種別 論文博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 第14177号
研究科 工学系研究科
専攻 情報工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 吉澤,修治
 東京大学 教授 岡部,洋一
 東京大学 教授 中村,仁彦
 東京大学 教授 合原,一幸
 東京大学 助教授 村重,淳
内容要旨

 筋強直症(myotonia)は、筋細胞膜で反復発火が生じて筋の強直が生じる疾患であり、周期性四肢麻痺(periodic paralysis)は、筋細胞膜の静止電位が脱分極して筋活動電位が生じなくなって筋脱力が生じる疾患である。これらの疾患には、種々の病型があるが、その一部については、古くから、電気生理的に、筋細胞膜のイオンチャネルの異常に起因することを示す報告があった。また、分子遺伝学の進歩によって、1990年代になって、筋細胞膜のイオンチャネル遺伝子上の変異が次々と見出された。しかし、未だに遺伝子の変異や膜の機能異常が不明な病型もあり、また、遺伝子の変異と機能異常との関連も検索がすすめられているところであるが、実験的手法による研究には、実験材料の入手や条件の設定等、困難や制約がつきまとう。

 我々の研究の目的は、このような実験的制約を離れて、筋細胞膜の電気活動の数理モデルを用いて、筋強直症と周期性四肢麻痺の発生機序を理解することにある。数理モデルとしては、実際の膜にあるイオンチャネルの種類や性質を反映した実験式である筋細胞膜のHodgkin-Huxley方程式(HHM式)を用いた。HHM式に現れるイオンチャネルの機能に関する定数(以下で生理特性値と呼ぶ)の値の変化は、筋細胞膜でイオンチャネルの機能的変化として現れる。そこで、我々は、HHM式において生理特性値を変化させたときの分岐現象、すなわち式の振舞いの変化を力学系の理論を援用しつつ数値的に調べることで、筋細胞膜のどのような機能異常が、連続発火や静止膜電位の脱分極を生成、消失させるかを明らかにすることを試みた。

 まず、HHM式の1パラメータ分岐について、筋強直症と周期性四肢麻痺に関わる生理特性値であるリークコンダクタンスgl(その7割がClコンダクタンス)をパラメータとした場合の3種類と、Na活性化因子の流入・流出速度の電位依存性を規定する生理特性値をパラメータとした場合1種類を調べた。

 その結果、膜の静止状態に刺激入力が加わった場合の電位波形としては、i.’正常’な一回のみの発火、ii.’周期的’発火(波形例図1(1))、iii.’脱分極’電位の平衡点に減衰していく波形(波形例図1(2))(以下で’’内の言葉で略記)が現れることがわかった。

図1:電位波形例(ラットのHHM式)

 これらの波形はそれぞれ、実際の正常、筋強直症、周期性四肢麻痺の筋でみられる波形に対応している。また、低Clコンダクタンスおよび高Na透過性で出現する点、正常な膜の静止状態が常に安定に存在していて疾患に対応する解と共存している点が、生理的知見と定性的によく対応しているといえる。

 また、1パラメータ分岐としては、図2に示したように、周期倍分岐の連鎖からカオティックな解が生じるパラメータ領域があった。

図2:周期倍分岐の連鎖 (ラットのHHM式、=-28.73mV、他の生理特性値は標準値) 縦軸は、周期解の極小電位

 Hodgkin-Huxley型の式(HH型式)では周期電流を外力として加えた場合に周期倍分岐の連鎖からカオスが生じることが知られているが、本論文の結果は、HH型式が、自律系の形で、周期倍分岐の連鎖を生じることを初めて示したものである。

 つぎに、分岐についてより詳細に知るためと膜の機能的変化と病気との関連をさらに詳しく把握するため、カエルのHHM式において、glを分岐パラメータとした余次元2までの分岐現象を解析し、2パラメータ空間で、パラメータ値と電気的振舞いの関係を調べた。特にパラメータの標準値の近傍をみると、図3に示したように、i’正常’、ii’周期的発火’、iii’脱分極’という3種類の振舞いの生じるパラメータ領域が、homoclinic orbitのtwistednessが変化する余次元2の分岐であるinclination-flip分岐(if)を三叉点として、互いに隣接していた。先に1パラメータ分岐で見た周期倍分岐の連鎖は、if点の近くで生じるものであった。if点は、現実の筋で起こりうる生理特性値の範囲にある。

図3:2パラメータ分岐と静止状態に入力があった時の振舞い (カエルのHHM式、生理特性値の標準値の近傍)

 if点の近傍でカオスを含む複雑な分岐を生じる場合については、理論的にも未だ完全にはわかっていないが、HHM式は、複雑な分岐を生じるif点を持つ系の実例となっている。

 応用的には、HHM式の2パラメータ分岐は、筋強直症と周期性四肢麻痺に関する電気生理的知見と定性的によく対応していた。’正常’、’周期的発火’、’脱分極’という三種類の電気的振舞いを生じるパラメータ領域が互いに隣接していることは、パラメータのわずかな差違が全く異なる振舞いにつながることを示している。このことは、なぜ筋の強直と麻痺の両方が見られる遺伝病があり、また、イオンチャネル遺伝子上の点変異位置のわずかな違いが筋の強直と麻痺という大きく異なる臨床像を生みだすか、なぜ一人の患者で症状の変動が生じるか、等に説明を与えるものと考えられる。

 また、ラットのHHM式についても同様の2パラメータ分岐を調べ、同様の分岐図を得た。さらに、ラットのHHM式に現れる全ての生理特性値を対象に、glとの2パラメータ分岐において周期発火が生じ始めるglの値の変化の仕方を指標に、異常な電気的振舞いすなわち’周期的発火’または’脱分極’を生じさせる変化の方向を網羅的に調べた。その結果、単独で’周期的発火’または’脱分極’を生じさせ得る生理特性値の変化は、glの減少との過分極方向への変化、(Na不活性化因子mの流入、流出速度の電位依存性)の脱分極方向への変化であった。これらは、リーク抵抗の低下、Na透過性の増大という、いずれも膜のイオン透過性の増大という方向の変化であった。

 ここで導出した異常な膜の振舞いの発生条件、消失条件は、従来病気や治療薬について知られている条件を含み、更に他の可能性を示している。これは病理解明の為の実験や治療薬開発に当たっての指針を与えるものといえる。

 以上述べたように、筋細胞膜において’周期的発火’(筋強直症)および’脱分極’(周期性四肢麻痺)がどのようにしてどのような条件の時に生じるかが、HHM式の分岐現象から、統一的に理解できた。

 今後の課題としては、強直や脱力といった症状が温度や軽い運動や血中カリウム濃度によって変動すること、また、脱力が数時間持続すること等について、より詳細な検討を行うことである。

審査要旨

 本論文は「筋肉のHodgkin-Huxley方程式の分岐に関する研究」と題し、6つの章と付録からなる。

 筋肉の疾患の代表的なものに筋強直症と周期性四肢麻痺がある。筋強直症は筋細胞膜で反復発火が生じて筋の強直が生じるものであり、一方、周期性四肢麻痺は筋細胞膜の静止電位が脱分極していて活動電位が生じず筋脱力が生じる疾患である。これらの疾患には種々の病型があるが、その一部については、筋細胞膜のイオンチャネルの異常に起因することが電気生理的および分子遺伝学的研究により知られている。しかし、その病理解析にあたり、実験的手法による研究には、実験材料の均一性や実験条件の保持などに困難や制約がつきまとう。本論文は、このような実験的制約を離れて、電気活動の数理モデルである筋細胞膜のHodgkin-Huxley方程式(HHM式)において、イオンチャネルの機能に関する定数を変化させたときの分岐すなわち式の振舞いの位相構造的変化を力学系の理論を援用しつつ数値的に調べることで、筋細胞膜の機能異常と反復発火や静止膜電位の脱分極の生成・消失の関係を示したものである。

 第1章は「はじめに」で、本論文の生理学的背景、数理モデルに関する歴史的背景、目的および構成が述べられる。

 第2章「準備」では、まず、本論文で扱われる二つのHHM式が提示される。一つはカエルの筋に関するものであり、他はよりヒトに近いものとしてラットの筋に関するもので、これはいくつかの文献に基づいて本論文で整理されたものである。つぎに、本論文の理論的背景をなすhomoclinic分岐理論の要約が紹介され、最後に分岐点を追跡するための数値解析方法に関する記述がなされる。

 第3章「1パラメータ分岐」では、疾患との関連が深いClコンダクタンスとNaチャネルに関する生理特性値をパラメータとした場合の分岐が、それぞれ3種類および1種類調べられる。それにより、saddle-node分岐、Hopf分岐、homoclinic分岐、double cycle分岐および周期倍分岐によって発生・消滅する解の性質および関係が明らかにされる。とくに、カオスを生じるルートの一つである周期倍分岐の連鎖は、自律系の形のHodgkin-Huxley型式では初めて示されたものである。

 これを、静止状態にある筋に刺激入力が加わったときの電位波形からみると、(i)正常な一回のみの発火、(ii)周期的発火、(iii)脱分極電位の平衡点に減衰していく波形が現れることになり、それぞれ、実際の正常、筋強直症、周期性四肢麻痺の筋でみられる波形に対応している。また、それらの出現条件が生理的知見と定性的によく対応していることが示されている。

 第4章「2パラメータ分岐」では、前章で示された分岐の関係、その発生起源および生理特性値の変化と疾患との関係をさらに詳しく調べるために、カエルのHHM式において、ClコンダクタンスとNa透過性に関する生理特性値の二つをパラメータとしたときの余次元2の分岐現象が取り扱われる。

 生理的標準値の近傍では、twisted resonance分岐、Bogdanov-Takens分岐、degenerate Hopf分岐、inclination-flip分岐ifの4種の余次元2の分岐が現れ、これらを起点として前章で述べられた余次元1の分岐が生じていることが示される。とくに、if点の近傍の分岐は、理論的にも比較的最近研究が展開されたもので未だ完全には解明されていないものであるが、HHM式は、周期倍分岐の連鎖を含む複雑な分岐を生じるif点を持つ系の実例となっている。

 また、このif分岐点は前章で述べた筋の3種類の振舞いのパラメータ領域の三叉点をなしており、パラメータのわずかな差違が全く異なる振舞いを生み出すことを示している。このことから、筋の強直と麻痺の両方が見られる遺伝病の存在、イオンチャネル遺伝子上の点変異位置のわずかな違いが筋の強直と麻痺という臨床像の大きな相違を生じる原因、一患者での症状の変動等に対する説明を与えている。

 第5章「ラットのHHM式での連続発火と脱分極安定電位の発生条件」では、哺乳動物の筋モデルとしてはもっとも生理的データの揃っているラットのHHM式について、4章と同様の2パラメータ分岐図が示されている。

 さらに、ラットのHHM式に現れる全ての生理特性値の変化の組合せに対して、上記(ii)、(iii)の異常な電気的振舞いの生じ方を網羅的に調べ、ヒトの疾患との対応をより定量的に検討している。

 ここで導出された異常な振舞いの発生・消失条件は、疾患や治療薬等について従来から知られている条件を含み、さらに他の可能性を示しており、病理解明のための実験計画や治療薬開発の指針を与えるものと言える。

 第6章は「むすび」で、本論文のまとめと今後の課題、展望が述べられる。

 「付録」はHH式(イカ)およびHHM式(カエル)の平衡状態についてまとめたものである。

 これを要するに、本論文は、筋細胞膜の電気活動の数理モデルであるHodgkin-Huxley型筋方程式の分岐現象を数値計算を用いて系統的に調べることにより、その力学的構造を明らかにし、homoclinic分岐に関する最近の理論の実例を提供するとともに、筋の疾患である筋強直症(筋細胞膜において周期的発火)および周期性四肢麻痺(静止膜電位の脱分極)の発生条件に対する見通しを明瞭にし、病理解明のための実験や治療薬開発の指針に対する示唆を与えたものであり、情報工学、生体数理工学に貢献する所が大きい。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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