本論文は「筋肉のHodgkin-Huxley方程式の分岐に関する研究」と題し、6つの章と付録からなる。 筋肉の疾患の代表的なものに筋強直症と周期性四肢麻痺がある。筋強直症は筋細胞膜で反復発火が生じて筋の強直が生じるものであり、一方、周期性四肢麻痺は筋細胞膜の静止電位が脱分極していて活動電位が生じず筋脱力が生じる疾患である。これらの疾患には種々の病型があるが、その一部については、筋細胞膜のイオンチャネルの異常に起因することが電気生理的および分子遺伝学的研究により知られている。しかし、その病理解析にあたり、実験的手法による研究には、実験材料の均一性や実験条件の保持などに困難や制約がつきまとう。本論文は、このような実験的制約を離れて、電気活動の数理モデルである筋細胞膜のHodgkin-Huxley方程式(HHM式)において、イオンチャネルの機能に関する定数を変化させたときの分岐すなわち式の振舞いの位相構造的変化を力学系の理論を援用しつつ数値的に調べることで、筋細胞膜の機能異常と反復発火や静止膜電位の脱分極の生成・消失の関係を示したものである。 第1章は「はじめに」で、本論文の生理学的背景、数理モデルに関する歴史的背景、目的および構成が述べられる。 第2章「準備」では、まず、本論文で扱われる二つのHHM式が提示される。一つはカエルの筋に関するものであり、他はよりヒトに近いものとしてラットの筋に関するもので、これはいくつかの文献に基づいて本論文で整理されたものである。つぎに、本論文の理論的背景をなすhomoclinic分岐理論の要約が紹介され、最後に分岐点を追跡するための数値解析方法に関する記述がなされる。 第3章「1パラメータ分岐」では、疾患との関連が深いClコンダクタンスとNaチャネルに関する生理特性値をパラメータとした場合の分岐が、それぞれ3種類および1種類調べられる。それにより、saddle-node分岐、Hopf分岐、homoclinic分岐、double cycle分岐および周期倍分岐によって発生・消滅する解の性質および関係が明らかにされる。とくに、カオスを生じるルートの一つである周期倍分岐の連鎖は、自律系の形のHodgkin-Huxley型式では初めて示されたものである。 これを、静止状態にある筋に刺激入力が加わったときの電位波形からみると、(i)正常な一回のみの発火、(ii)周期的発火、(iii)脱分極電位の平衡点に減衰していく波形が現れることになり、それぞれ、実際の正常、筋強直症、周期性四肢麻痺の筋でみられる波形に対応している。また、それらの出現条件が生理的知見と定性的によく対応していることが示されている。 第4章「2パラメータ分岐」では、前章で示された分岐の関係、その発生起源および生理特性値の変化と疾患との関係をさらに詳しく調べるために、カエルのHHM式において、ClコンダクタンスとNa透過性に関する生理特性値の二つをパラメータとしたときの余次元2の分岐現象が取り扱われる。 生理的標準値の近傍では、twisted resonance分岐、Bogdanov-Takens分岐、degenerate Hopf分岐、inclination-flip分岐ifの4種の余次元2の分岐が現れ、これらを起点として前章で述べられた余次元1の分岐が生じていることが示される。とくに、if点の近傍の分岐は、理論的にも比較的最近研究が展開されたもので未だ完全には解明されていないものであるが、HHM式は、周期倍分岐の連鎖を含む複雑な分岐を生じるif点を持つ系の実例となっている。 また、このif分岐点は前章で述べた筋の3種類の振舞いのパラメータ領域の三叉点をなしており、パラメータのわずかな差違が全く異なる振舞いを生み出すことを示している。このことから、筋の強直と麻痺の両方が見られる遺伝病の存在、イオンチャネル遺伝子上の点変異位置のわずかな違いが筋の強直と麻痺という臨床像の大きな相違を生じる原因、一患者での症状の変動等に対する説明を与えている。 第5章「ラットのHHM式での連続発火と脱分極安定電位の発生条件」では、哺乳動物の筋モデルとしてはもっとも生理的データの揃っているラットのHHM式について、4章と同様の2パラメータ分岐図が示されている。 さらに、ラットのHHM式に現れる全ての生理特性値の変化の組合せに対して、上記(ii)、(iii)の異常な電気的振舞いの生じ方を網羅的に調べ、ヒトの疾患との対応をより定量的に検討している。 ここで導出された異常な振舞いの発生・消失条件は、疾患や治療薬等について従来から知られている条件を含み、さらに他の可能性を示しており、病理解明のための実験計画や治療薬開発の指針を与えるものと言える。 第6章は「むすび」で、本論文のまとめと今後の課題、展望が述べられる。 「付録」はHH式(イカ)およびHHM式(カエル)の平衡状態についてまとめたものである。 これを要するに、本論文は、筋細胞膜の電気活動の数理モデルであるHodgkin-Huxley型筋方程式の分岐現象を数値計算を用いて系統的に調べることにより、その力学的構造を明らかにし、homoclinic分岐に関する最近の理論の実例を提供するとともに、筋の疾患である筋強直症(筋細胞膜において周期的発火)および周期性四肢麻痺(静止膜電位の脱分極)の発生条件に対する見通しを明瞭にし、病理解明のための実験や治療薬開発の指針に対する示唆を与えたものであり、情報工学、生体数理工学に貢献する所が大きい。 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |