本著は、日本古代における王権の特質とその変質過程を、政治機構と儀式の分析によって解明しようとしたものである。儀式は、従来、形式的で内容のない、無用の長物とされて、歴史学の分野で取り上げられることはなかったが、近年従来見過ごされてきた視点から歴史を見直そうという動向の中で光があてられ、独自の機能があったことが明らかになってきた。本著の分析視角としては、政治や儀式をどこで行ったかという「政治の場」を重視する点と、日本の特質を明確にするために日唐の比較を行った点に、特徴がある。 第I部「唐制継受と儀式」においては、官制と儀式について、日本がどのように唐制を継受したのか、また日唐比較によって明確になる日本の特質を考察した。官制の面では、従来完全には復原されていなかった唐の職員令を復原し、日本の太政官制(省職寮司を含む)の職掌字句と比較した。その結果、唐の尚書省六部と九寺五監のどちらの職掌字句を継受しているかで、律令制の体系的導入以前の前身官司の有無がわかること等を指摘した。 中国の官僚機構は、秦漢代より本格的に開始されるが、固定化されたものではなく、漢代に皇帝の側近であった「内朝」「内廷」が、隋唐代に中書・門下・尚書の三省に編成されるという、「内朝」の外延化の過程とみなすことができる。唐後半以降も新たに発生する「内朝」「内廷」は最終的には官僚機構に収斂されていき、皇帝の独裁権力を支える機関となっていく。それに対し、日本においては、平安初期に中下級貴族出身の文章博士が台頭し、参議にいたる昇進コースも出現するが、上級貴族層から排斥されてしまい、官僚機構を強化するという中国流の天皇専制化には成功しなかった。そのかわり、唐後半期に力を握ってくる宦官の内諸司使に対応する、天皇権力に密着した蔵人所が成立・発展していく。その後の王権の展開過程は異なるが、蔵人所と内諸司使という類似した令外官が出現したことは、律令制の導入によって、平安初期に天皇権力が確立したことを示している。 次に、儀式の面から唐制の継受について考えてみよう。儀式も、他の律令諸制度と同様に、唐をモデルとしているが、本格的な導入は遅れる。従来、儀式が唐風に整備されるのは平安初期とされてきたが、任官の儀をみていくと、『開元礼』の册礼の影響を受けた儀が成立するのは、天平宝字年間以降のことであり、儀式の場である宮城において、唐・大明宮の影響が決定的になるのも同じく奈良時代後半からである。即ち、儀式の唐風化は、奈良時代後半にその萌芽があったと考えられる。 儀式における唐礼の影響は、中央のみではなく、地方の儀式においても平安初期に窺える。また、唐礼と日本の儀式書を比較すると、日本においては儀式書に地方の儀式が掲載されていないこと、唐では州-県と地方における儀礼が二段階であったのに対し、日本では中央と同じ儀式を行うのは国レベルまでであることが特徴である。この点にも、官僚機構の浸透度の差が表れていると言えよう。 第II部「「政治の場」と儀式・政務」では、奈良時代から平安時代にかけて、政務・儀式や「政治の場」がどのように変化するのか、その変化の背後には、いかなる政治体制の変質があったのかを追求した。まず、奈良時代から平安時代前期への変化を考えてみよう。宮城内における内裏・大極殿・朝堂院の配置に着目すると、平城宮までは直線上にならぶのに対し、長岡宮・平安宮では、内裏と朝堂院(正殿は大極殿)は分離している。このような「政治の場」の変化は、何を意味しているのだろうか。平城宮までは天皇は毎日大極殿に出御して政治をみ、官人たちも天皇眼前の朝堂院で政務を行った。一方、長岡宮・平安宮になると、天皇は日常は内裏において太政官の官人を相手に政務をみ、国家的な儀式の時だけ大極殿に出御して多くの官人たちの前に姿を現すようになった。これは、天皇が官人の一人一人を直接把握しなくとも、官僚機構を通じて間接的に運営していくことができるようなったことを示している。告朔・上日・外記など他の政治諸制度においても、平安初期に天皇-太政官-諸司という官僚機構が確立したことがわかる。 次に、平安前期から中期(摂関期)への変化について考察したい。朝賀の儀は、毎年正月元日に天皇が大極殿に出御し、初位以上の全官人が天皇に対して拝礼を行う、律令官僚機構を象徴する儀式である。朝賀の儀は、平安前期までは実施されていたが、次第に行われなくなっていき、平安中期になると、専ら小朝拝が行われるようになっていく。小朝拝は、元日、親王・公卿・殿上人・蔵人らが、天皇の日常御所である清涼殿東庭に列立して、拝舞を行う儀式である。朝賀の儀から小朝拝へと元日の儀式が変化した背景には、朝賀の儀の基盤となる律令官僚機構が次第に衰退し、逆に小朝拝の基盤となっている天皇と私的関係にある政治機構が優勢になってきたことがあげられる。天皇の地位も、官僚機構の頂点から、天皇との私的関係が構成原理となった貴族社会の頂点へと変化していく。 天皇や皇后の命日である国忌の儀式を例にみていくと、平安前期において、国忌は東西寺において官僚機構によって運営されていたが、平安中期には、朝廷による東西寺の行事、本院(後院)主催の御願寺法華八講、天皇個人が行う天皇御前の儀の三種の行事が並立することになった。これは、王権の分権化を表していると考えられる。 以上のように、政務・儀式の変化は、「政治の場」の変化をもたらし、変化の背後には、政治体制の変化を読みとることができるが、奈良から平安時代の儀式への変化には、他の要因もあげることができる。奈良時代までの天皇の官人に対する人格的な支配は呪術的なものであったが、次第に社会から呪術性が後退し、新たな人格的な関係を結ぶ場として、儀式の重要性が高まり、その体系化のために平安初期に儀式書が編纂されるに至った。 第III部「王権と政治機構の変遷」においては、政治機構や政治制度そのものを対象に、奈良時代から平安時代後期(院政期)にかけての変化をあとづけ、その意義を考察した。まず、告朔を取り上げ、天武朝から奈良時代の官僚機構の運営を考えた。天武朝では、毎月天皇に対する行政報告である告朔は、朝庭において口頭で行われたが、大宝令では、文書行政機構の中に位置づけられた。正倉院文書には、造東大寺司やその管轄下の所々の告朔解が残されており、奈良時代における官僚機構運営の具体相がわかる。 次に、日本の律令国家の本質をどのように捉えるかという問題について一言しておきたい。従来から貴族制的要素を強くみる説と、天皇専制国家とする説が対立しており、近年では太政官制や政治過程の研究が進み、新たな意見も出されているが、本著では、天皇専制国家説に対して、王権のもつ求心力とは権力というものが本来有する性質であり、そこから天皇権力の専制を導き出すことには疑問があると批判した。 次いで、平安時代の政治機構の特質について考えてみたい。まず、昇殿制についてみてみよう。「殿上」という場が成立するのは平安初期で、紫宸殿などにおいて天皇と同じ殿上に座をもてるのは参議以上であり、特別な場合には五位以上にも許された。一方、平安初期に天皇の権力・権威が拡大したことにより、天皇を中心とした新しい秩序を築くために、次侍従の制度が成立した。その後、蔵人所の成立を契機に、天皇と私的関係にある近臣・近習の制度が成立するが、これが殿上人である。弘仁年間に成立した昇殿制は、宇多朝以降、公的性格を強め、政治的に重要な存在になっていった。これは、律令官僚機構が次第に衰退していくのに対し、天皇と私的関係にある政治機構が優勢になっていくという政治体制の変化の一環と捉えることができる。 平安中期の特徴として、儀式・行事が上卿一弁一史によって運営されていたことがあげられるが、行事蔵人も重要な役割を果たしていた。朝堂院・紫宸殿の儀や、清涼殿の儀のうち政務や仁王会、臨時祭などは、上卿と行事蔵人がともに関与していたが、清涼殿で行われる天皇の私的行事は、行事蔵人のみによって運営されていた。行事蔵人は諸司・所々に対して命令を下したが、その結果、太政官と蔵人所の命令系統が並立することとなった。これは、各官司が横並びになるような状態をもたらす第一歩となったと評価できる。 以上のように、平安中期には中世貴族社会へ連なる新しい政治機構の台頭があったが、大局的には律令制の枠組みで捉えることができる。公卿や殿上人などを、諸司・所々・諸寺の別当に補任する殿上所充を例にとると、もっとも盛んに行われたのは平安中期で、蔵人方の所々も含めて施行に際し弁官宣旨が使用されている。即ち、平安中期には、平安後期のように官方・蔵人方が成立しておらず、その職務分担も明確ではなかったのである 終章「平安時代の儀式と政務-古代から中世へ-」においては、平安前期・中期・後期にわけて、儀式と政務それぞれの運営の特徴をあげ、変化の意義について探った。平安後期に至ると、儀式・政務ともその運営から律令官僚機構の中枢である公卿が離脱し、院・天皇が官方・蔵人方に直接命令を下すようになる。平安初期における天皇権力の拡大、中期以降の公卿層の政治からの離脱については、日本固有の現象ではなく、唐においても同様の事態が確認できる。このように東アジア世界は、文化的な側面だけではなく、社会構成の面からも古代において共通性を有するひとつの世界であったということができよう。 |