民主主義や資本主義の社会に生きる現代人の倫理においてばかりでなく、科学技術の進歩の結果生じてきた現代的諸問題に関する社会倫理においても、18世紀にジェレミィ・ベンタムによって創始された功利主義は、重大な意義を有し続けている。しかしながら、倫理学におけるその評価は、その哲学的根拠づけという観点から、これまでは、決して高いものではなかった。 C.K.オグデンのBentham’s Theory of Fictionsによってベンタムの言語哲学が紹介され、研究者のあいだで、ベンタムの思想が必ずしも浅薄なものではないという認識が生じたのは1932年のことであるが、それ以降でも、今日まで、ベンタム哲学の全貌が体系的に明らかにされてきたわけではない。その理由は、第一に、テキストが断片的で、矛盾なく理解することが困難だったからであり、第二には、言語とは何であるかという認識論的観点ではなく、幸福学の理念に従って言語はどのように役に立ち、どう改善されるべきかという実践論的観点に立って叙述されていたからである。そこで、わたしは、本論文において、わたしなりに認識論的に整理しなおしたベンタム言語哲学と形而上学とを提示することによって、ベンタムの思想全般を根底から理解するきっかけとしたいと考えた。 わたしは、本論文において、ベンタム思想の基本的理解からはじめて、主題自身の有する哲学的諸概念を展開させるという筋道を辿った。思想と出会うということは、思想を客観化したり使用したりするのではなく、思想自身を首尾一貫したものとして展開させてみることを通じて、みずからの思考を鍛えつつ何がしかの学問的発見を齎すことだと考えたからである。その概要は、以下の通りである。 1)能力の批判 ベンタム思想における「最大幸福」や「サンクション」や「快苦計算」の概念は、意識を判断と行動の中心とみなすひとびとによって、悪しく理解されてきた。意識をその中心からずらし、意識に反映される表象を、判断と行動を齎す運動のひとつの環境にすぎないものと考えてはどうだろうか。ベンタムのいうように、人間が(「どう考え、どう行動し、どういおうとも」)快を求め苦を避ける存在であるということは、人間現象がそうした運動の複合体にすぎず、こころはそうした運動の原因として仮想されたフィクションでしかないということになるであろう。 2)意味の批判 以上のように主張できるのは、ベンタム独特の言語哲学による。通常、言語は主体が思考する際の用具とみなされるが、かれは、言語の齎す意味が、世界を表現するという点では不十分なものであり、むしろ幸福を追求する思考と主体を生みだすと考えた。言説(ことば)は、それ自身も運動としてフィクション(表象)を生産し、そのフィクションによって、人間はより多くの快を求め苦を避けることができるのである。言語における記号作用も、法において、明確な行動の定義と、対応する処罰の精確な規定によって完成されるべき未来の目標であり、記号の意味は人間相互のなかに幸福に有用な観念を生産するところに存在する。 3)真理の批判 とすれば、知性は、人間の意識に反映される諸表象を構成する能力のようなものではなく、快を求め苦を避けつつ成就する行動の高度の水準のことを意味していると考えられよう。そうした知性にとっての真理は、個々の出来事に対して、事実を確定したり一般的命題を引出したりする(ポジティヴな)ところにではなく、行動を実質的に幸福に導くところに存する。ひとびとの相互行為に関しても、言語の発生における公共的特性からして、幸福を一般的に損なうという意味での誤謬からひとびとを遠ざけさせる言説こそが(ネガティヴな)真理なのである。 以上を通じてわたしが示そうとしたことは、つぎのように整理することができる。 a)ベンタム哲学の解釈について 西欧近代の哲学において、ベンタム思想は、功利主義的社会哲学としての首尾一貫性を評価されてきたにせよ、そうした一貫性は、快を求め苦を避けるという単純な人間観によるものであって、特別な哲学なしにでも成立ち得るものであると考えられてきた。そうした単純な人間観から出発してかれの社会哲学の一貫性とその意義を評価するという「追試験」をやってみて、わたしは、その人間観と社会哲学の結び目には、かなり複雑な論理が要求されることを知った。人間の「功利性」を文字通りに受取ると、独特の言語哲学がないとすれば、「合理性」が不可能なのである。 わたしは、その追試験的探求のなかで、「理性に乏しい個人が最大幸福を追求する」というベンタム解釈の常識的前提を捨て去り、言語のなかで知性が生まれ、そのあとで個人的経験や社会的秩序もサンクションとして生成するとした方が、知られていなかった諸概念、「フィクション論」や「幸福学」や「意志論理学」や「道徳病理学」をよりよく説明できると考えた。そして、そうした諸概念が、知性や真理や世界の概念に関して、理性の原理に対決し、西欧近代哲学を乗超えようとしている現代思想のさまざまな努力に直結していることを見出だした。 b)言語について 西欧近代の哲学において、言語は、思考の衣服のようなものとして理解されてきた。現代哲学に齎された言語論的転回は、思考と言語を分かち難いものとして分析することを通じて、思考とは何かを捉えなおすきっかけとなった。ベンタムの言語哲学は、曖昧な部分を残すにせよ、それを先取りし、社会との関わりという点では、それよりもさらに進んだ発想を内在しているように思われる。 ベンタムの言語哲学の特徴は、つぎの三点にある。(1)言語が記号とみなされる場合、言語記号の意味は行動においてしかなく、それ自身はフィクションである。思考が観念を言語に翻訳するのではなく、言語がこころに観念を形成するのである。(2)言語と言説の関係については、それぞれが異なった系譜のもとにあるとされ、局在される言語領野に対し、言説は全精神を覆っているとされる。こころが言語を使用するのではなく、言語がこころを形成し、その言説は個人においてではなく、公共において受取られるのである。(3)言説の起源は、暴力の克服にあるのではなく、権力によって知覚が与えられ、性的欲望において知覚と結びつけられることによってであるとされる。そこにサンクションが生まれ、知性的行動が可能になるとともに、ある種の言説が暴力を齎すようにもなるのである。 以上のような言語哲学が、知性と真理についての従来の捉え方に変更を要求するのである。 c)知性について 西欧近代の哲学は、理性の立場に立って、認識されたもののなかで人間行動の正しさを定義しようとするか、そうした捉え方を批判して、ある種の情念のなかに人間存在の超越性を見出だし、行動を普遍的なものに直接結びつけようとしてきた。 20世紀における近代批判が、せいぜいそれら理性の立場と情念の立場の調停や混合に活路を見出だしてきたのに対して、わたしは、本論文において、理性でも情念でもない言語的知性が、社会的なもののなかで生成するという新しい立場を提示した。この知性は、理性のように意識に対して決定的な解答を与えないと同様、情念のように一挙に全経験を包摂してしまうわけでもなく、ただ討議に開かれており、そうしたなかで道徳的慣習的しがらみを克服していこうとするような知性である。こうした知性の理論は、社会的場におけるアカウンタビリティ、すなわち自己説明をしつつなるべく多数をカウントしようとする傾向性に根拠を与えるように思われた。 d)真理について 西欧近代の哲学は、概して認識論的立場に立って、認識する精神の優位性を措くか、認識された物質の秩序の優位性を措くかという、観念論と唯物論の二つの思潮を生みだしてきた。いずれにせよ、認識論的な議論によって真理を確定しようとするこうした思潮は、近代科学の成立に大きな役割を果たしたが、その結果が齎した倫理的諸問題を見るとき、そうした認識論的立場そのものがひとつの道徳を内在する問題状況ではないかという疑義が生じてきている。 現代において、存在論的な立場を取戻そうとする思想もある程度の力をもっているが、わたしは、本論文において、真理を認識論の文脈から実践論の文脈に置きかえ、真理は、絶対的なかたちでは与えられないが、言説の実践のなかで、行動の成就のために討議の場を成立させるものとして追い求められているという定義を与えた。 e)世界について 西欧近代哲学の、世界についての基本的見解は、行動に相関することなく認識に客観的に与えられる人間の環境ということであった。こうした環境を、要素主義的機械論的に把握し、計量分類し計算できるものとして配列することが近代科学の目標となった。ベンタムも、世界を解明しようとするこうした方法を批判するものではなかったが、しかし、かれは認識論的な真理、解明されたものが表象されたものと一致するという観点を否定した。かれによると、解明されたものは発見されるのではなく、発明されたフィクションであって、現実性において有効に働くかぎりにおいて真とされる。こうした有用性は、人類が共同して振舞う行動の調和において意義をもつのである。 世界を単なる物質の総体とせず、また行動の有機的反応の体系ともせず、端的にフィクションの論理的散逸と措くことは、現代の諸技術が提示している新たな人間環境と人間経験についての理論を準備しているようにも思われる。ベンタム的にいうならば、問題は、表象の善悪を通じて現実とフィクションを分離したり、すべてをフィクションの分類に入れて神秘化することではなく、現実に対する柔軟で多様な定義を与え、自由を拡張する善きフィクションと暴力を導く悪しきフィクションとを区別することなのである。 以上が、ベンタムのテキストの読解を通じて論証した内容である。これにおいてなにがしかの倫理的立場が確立されたというよりも、本論文の意義は、新たに考えはじめるべき多様な論点が現われてきたことにあると考えている。 以上 |